杉田玄白の祖をたずねて

梅の名所だった杉田・妙法寺

はじめに
わたしの住む横浜の磯子区に杉田という地名があります。本牧八聖殿・歴史講座の曽根先生のお話しでは、地名のいわれは杉田のスギは「砂礫地」、タは「処」ということのようで、律令体制下から杉田の集落は存在していたのではないでしょうか。戦国時代、杉田は、先生がよく口にされる「玉縄的世界」(現大船駅近くの玉縄城を根拠にした小田原北条家の支配)下に組み込まれ、覇を競っていた里見家に対する湾岸防備のために笹下城(わが家の近く)を築城し、杉田には海岸見張りのための陣屋を構えて、それぞれ北条家の有力武将間宮一族に護られていました。江戸時代には、杉田間宮家にゆかりの深い杉田八幡宮・妙観寺、そして菩提寺である妙法寺を中心に3万本をこえる梅の名所として著名であり、江戸からもあまたの文人墨客が観梅に訪れるなど、たいそう賑わったようです。幕末になると、煎海鼠(いりこ)の生産が盛んになり、絹に取って代わられる前までは、長崎を経由した中国への輸出で外貨を稼ぎ、銀の流出を防いだそうです。杉田ということでもう一点、『解体新書』で有名な杉田玄白の祖はこの杉田の出身だということです。このことを地元ケアセンターの職員から初めて耳にした際は、若狭小浜藩の藩医であり、江戸の同藩邸内で生まれた玄白がなぜ杉田の出身なのか、「そんなばかな」という思いでした。しかし小浜市の教育委員会へ問い合わせましたら、同市指定の酒井家文庫『諸家略歴(小浜藩学者関係)』にも確かにそのような記載がされているとのこと、正直なところびっくりしました。そこで玄白に関する図書をあさってみたところ、あらゆる出版物は弟子の大槻玄沢著『杉田家略譜』を典拠にしており、記述内容に多少の差異はあっても、玄白の祖が杉田発祥であることは間違いなさそうです。地元に住む人の多くもこの事実を知らないようで、わたしは、自分の不明を恥じるとともに、改めて玄白の祖をたずねてみることにしました。

新宿矢来公園・旧若狭小浜藩下屋敷内の玄白生誕の地碑

医家としての玄白の祖
杉田家は代々医家だったのではなく、遠祖は近江源氏である佐々木一族の支族である萬石家の流れをくむ真野家に端を発する武家だったようです。医者の道に進んだのは、玄白の祖父の代からで、なぜ医者の道へ進んだかについては、つぎのように伝えられています。祖父初代甫仙誕生の頃、その父、杉田八左衛門忠安は藤井松平家に仕えていました。300石取りの物頭を務める、それなりの家柄だったと言えます。忠安には男子が2子おり、嗣子伝左衛門が家督を継ぎ、次男東(甫仙の幼名)は幼少の頃、芝の天徳寺に寄食していたようです。父の目から見て、東は武家以外の道に向いているのでは、と思われたのでしょうか。孫受けになりますが、玄沢の『杉田家略譜』には松平山城守忠国(藤井松平宗家4代目)に「気象ありげな才あり」と認められ、屋敷に連れ帰られ、師をつけて勉学に励ました、と書かれています。忠国の子、日向守信之も陽明学の熊沢蕃山と親しくするなど学問への造詣が深く、のちに老中にもなるほどの力もあったので、そのおかげで20歳を過ぎる頃から南蛮船のオランダ人通詞からオランダ語と医学の双方を学ぶことができたようです。玄白自身、祖父の医学の師について著書『蘭学事始』のなかで、「祖父の師は西新吉という(蘭)人で、初代西吉兵衛のあとを継いで2代目吉兵衛、のちに名を玄甫と改めたオランダ語の通詞兼医師で、幕府の外科医となった人物である(カッコ内筆者追記)」と記しています。すなわち祖父初代甫仙は10年ほど玄甫から外科医術を学び、藤井松平家の藩医として召し抱えられたようです。その名甫仙の甫は師の名玄甫からいただいたのでしょう。祖父甫仙はこうして藤井松平家の藩医になりましたが、順風満帆というわけにはいかなかったようです。元禄6年に日向守信之の子、第6代藩主日向守忠之が幕府の忌諱(きい)にふれ、乱心を理由に改易されたのです。幸い弟への家督相続が認められ廃絶はまぬがれましたが、石高が大幅に減じられたため新抱の家臣は暇が出され、杉田家は浪人になってしまいました。しかし、すぐに越後の新発田藩に推挙され、200石取りで溝口家へ仕えることとなりましたが、藩主とそりが合わない面があったとかで、自ら病身を理由に永の暇を願い出たようです。後述することになりますが、甫仙の祖父で杉田家の祖である長安も頑固な面があり、仕えていた北条家滅亡の折、周囲の推挙にもかかわらず徳川家に仕えることなく橘樹郡菅生(現川崎市宮前区)に隠遁して農業に従事したようで、杉田家の血筋は頑固一途な面があったのでしょうか。浪人生活も数年に及んだ元禄15年(1702)、若狭の小浜藩酒井家の臨時雇いになり、翌年、甫仙54歳のときに正式の藩医として藩主酒井忠囿(ただその)に仕えることになったようです。こうして、小浜藩々医杉田家が誕生し、第2代甫仙(玄白の父)を経て、玄白が藩医となったのは宝暦3年(1753)のことでした。

芝・栄閑院の玄白の墓

武家としての玄白の祖
武家としての祖ということになると、どこまでさかのぼればよいのでしょうか。すでに記述したように、遠祖ということでは、近江国蒲生郡佐々木庄に居住していた佐々木家の流れをくんでいます。佐々木家というのはのちに頼朝が関東で挙兵したときから家人として従った名門ですが、支族として佐々木宮の神職を継ぐ家系でもありました。平治の乱で義朝を助けて平家に敗れた佐々木秀義の叔父にあたる萬石行定は佐々木宮の神職でした。行定の嗣子定通は神職を継ぎ、その弟行範が武家としての家系を継ぎ、その子が真野源二定時と称しましたので、定時が杉田家の遠祖ということになります。ちなみに、のちの小田原北条家の有力武将間宮家も萬石家から出ていますから、真野・間宮両家は密接なつながりを持っていたことになります。医家としての祖、初代甫仙の少し前に真野家から間宮家へと改姓し、さらに杉田姓となった経緯について、以下に述べます。
戦国時代、真野家から新左衛門信安という武者があらわれました。武蔵国久良岐郡杉田邑の住人で、小田原北条家第4代当主氏政に仕えたようです。間宮豊前守康俊(秀吉の北条攻めの際、三島・山中城で戦死)の4男信高(のちの三浦間宮家の祖)勢として武田水軍に属して数々の軍功を挙げ、その功により間宮姓を名乗るようになり、武田家滅亡後は徳川家康配下となっています。間宮(真野)信安の子は主水次郎長安といい、若干17歳のとき小田原で氏康(第3代当主)に拝謁、そののち氏政・氏直に仕え、父同様に軍功を挙げましたが長患いのため天正18年(1590)には杉田邑に蟄居していました。その年北条家滅亡により、娘婿の五兵衛忠元とともに上野、下野などへ逃避のすえ杉田邑へもどったようです。間宮一族の多くは北条滅亡後に徳川の家臣団に入り、中には有力旗本になって明治にいたっていますが、長安はどうやらそれを潔しとせず、姓を杉田と替えたようです。武士階級が姓を地名からとることの多いこと、民俗学の柳田国男も指摘するように、めずらしいことではないでしょう。長安は姓を変えただけではなく、杉田をはなれ橘樹郡菅生(前出)へ移り、刀を捨て農業に従事しました。私見ですが、杉田に陣屋を構えていた杉田間宮家を憚ったためではなかったか、と考えております。長安の婿忠元は義父とともに刀を捨てましたが、その子八左衛門忠安は、父の実家(森家)が笹下の間宮本家に仕えていた関係で推挙が得られ、藤井松平家の家臣になっていたことすでに述べたとおりです。以上、複雑な経緯を経ていますので整理のため繰り返しますが、真野家は信安のとき間宮姓を名乗ったものの、その子長安のときには杉田姓と改め、長安、忠元、忠安の3代を経て、医家としての初代杉田甫仙が誕生したということになります。

川崎・菅生の長安寺山門

玄白の後日談
杉田玄白の名は、知らぬ人がいないほどにあまりにも有名です。とはいえ、わたし自身、彼の実態については知らぬことの多いこと、今回の調べでよくわかりました。玄白とその仲間が訳したのはオランダ本からでしたが、じつはその原書『ターヘル・アナトミア』はドイツ人医師の書いた解剖学書だということ、わたしは知りませんでした。それと、玄白の偉業は、彼の祖父がたまたま藤井松平家の藩主に目をかけられて医術を学ぶ機会を与えられ、若狭小浜藩の藩医として酒井家に仕えられたという偶然がなければ、なし得なかったことと思います。酒井家は幕閣でも力を有しており、英邁な藩主に恵まれたことで、刑場での解剖に立ち会う機会を与えられたり、高額な原書を藩で購入してくれたりしたわけです。蘭学者としての玄白は教育者でもあり、大槻玄沢、高野長英といったすぐれた弟子を輩出させ、子供についても、嗣子は他家から養子を迎え、実子の次男杉田立卿も独立してすぐれた眼科医となり、父同様『眼科新書』を出版しています。その子成卿(玄白の孫)は幕府の蕃書調所(のちに東大へと発展)教授となり、ペリー来航時に携帯された米大統領の親書を翻訳した人物だそうです。そして、安政4年(桜田門外の変の3年前)には、隠棲した武蔵・橘樹郡菅生に杉田家が開基した長安寺に眠る7代前の祖長安の墓参りをしたそうです。そのときの様子を、『玉川紀行』としてオランダ語でまとめており、その中で「溝の口村を過ぎて蔵敷村まで行くと、景色はまた別となる。変化する丘と谷の具合は、深く入った山の景色を思わせるものがある」(緒方富雄訳)、と書かれているそうです。この辺り、いまは川崎市宮前区の住宅街として開けておりますが起伏の多い土地柄で、寺の裏手を含めて高台が多く、雑木林・竹林が随所に見受けられ、紀行に書かれたその面影を彷彿とさせるものがあります。

本稿記述にあたって参考にしたのは、以下の書です。
1)小浜市教育委員会文化課殿からのご教示:
 ・市指定・酒井家文庫『諸家略歴(小浜藩学者関係)』
   ・若狭人物叢書7『杉田玄白』小浜市立図書館刊
2)杉田玄白関連:
 ・片桐一男『杉田玄白』日本歴史学会編 吉川弘文館刊
 ・『酒井忠勝と小浜藩矢来屋敷』新宿歴史博物館刊
 ・『三百藩家臣人名事典3』新人物往来社刊
3)間宮家関連:
 ・『寛政重修諸家譜巻第四百三十三』
 ・『寛政諸家系図伝巻十三』
4)横浜市・磯子区関連:
 ・横浜市八聖殿郷土資料館歴史講座資料
 ・『磯子の史話』区制五十周年記念事業委員会刊

(注記1)家系については系図にすると分かり易いのだが、編集の都合で系図ができず、お許し願いたい。
(注記2)杉田長安の墓石正面は「法林院釋淨安大比丘」という法名が刻まれ、右側面には「杉田生 俗名杉田門殿次郎長安」となっている。主水という官制名を憚って門殿としたところ、いかにも長安らしい。

(2014年12月)

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