イスラム圏が多かった渡航先

キトのラ・メルせー聖堂
キト旧市内は世界遺産に指定

6月から9月号までに書いた「パスポートをさかのぼる」でお分かりいただけるように、わたしが比較的長期にわたって滞在した国は南米・エクアドル、中東・サウジアラビア、北アフリカ・アルジェリア、そして中央アジア・ウズベキスタンの4ヵ国です。それぞれの国同士でなんら相互関係はありませんが、結果的には、そのほとんどがイスラム圏の国だということで、自分でも不思議に思いますし、何か因縁めいたものすら感じております。今回はそのことについて書くことにします。
アスタ・マニャーナの国
南米と言えば厳粛なカトリックの国々、それがなぜイスラム圏なのだと言われそうですが、わたしなりの理由はあるのです。エクアドルに滞在中よく耳にした言葉に、サンタ・マリアがあります。どうやら「死」を指して使われていたように思えます。そう言えば、Permiso igual Santa Maria. という句があります。意味するところは、「罪を認めることは死を意味する」です。ご存知かもしれませんが、6世紀の半ばにムハンマド(マホメット)が誕生し、610年にイスラム教が成立しました。そして7世紀半ばにはイスラム勢力は北アフリカを西へ侵攻し、8世紀のはじめにはイベリア半島(スぺイン)に上陸、またたく間に全土を席巻しました。それから約170年の間、半島のキリスト教徒はイスラム教徒の支配のもとで、ときには激しく抵抗、時にはじっと忍耐し続けたのでした。いつの日かキリスト教徒の日が来ると信じつつ、イスラム教徒に対して罪を認め、許しを乞うことはしなかったのです。罪を認めること、すなわち死を意味したからです。10世紀後半に至って国土回復運動(レコンキスタ)が起りました。キリスト教徒はイスラム教徒をじわじわと南に追いやりました。イスラム教徒の最後の拠点グラナダが陥落し、ボバディル王が男泣きしながらアルハンブラ宮殿を去ったのは1492年、レコンキスタは500年有余の年月を有したのでした。言うまでもなく、南米の宗主国はブラジルを除いてスペインです。そのスペインでイスラム教徒との間で長い闘争を経験した人の子孫が数多く移住してきた南米では、イスラム教徒との間の深い確執が残っていたのです。そのことを考えますと、南米に滞在したことはその後つづくことになるイスラム圏との係わりの序曲だったのではなかろうか、と、わたしは勝手にそのように思っているのです。
ところで、サンタ・マリアとともに南米を特徴づける言葉にアスタ・マニャーナとペロがあります。アスタ・マニャーナを直訳すれば、「明日まで」という意味ですが、実際の使われかたは、何か頼みごとをした際に返ってくる言葉です。しかし、この言葉が返ってきて、「よかった、相手は了解してくれたのだな」、なんて考えようものなら、その期待はみごとに裏切られます。くり返し頼んでも、同じ言葉が返ってきます。要するに、「わかりました」という肯定的な意味ではなく、単なる「相づち」的であり、もっと端的に言えば「言い訳」的な言葉なのです。ペロも同様です。日本語で「しかし」の意味ですが、なかなかのくせものです。同じ頼みごとに対して、とうとうと説明してくるので、「しめた、これは引き受けてくれるのだな」、なんて思っていると、とつじょぺロが出てきて、そこからは言い訳になってしまうのです。こんなことを書きますと、南米の人、いかにもいいかげんのように思われるでしょうが、そう言ってしまうと、身もふたもなくなってしまうでしょう。これすべて、長年にわたるイスラム教徒との確執の結果生み出された「知恵」の結果なのです。その知恵を活かさなければ生きていけなかった先祖の教えなのだ、と理解しなければいけません。それは、遠い昔にはるばるスペインから移住してきた白人だけでなく、白人からみれば非征服者であるインディオ、そして奴隷として送られてきたアフリカ系黒人もまた同じことなのです。その結果、自分がテーブルから落として割ってしまったコップも、コップが自分から落ちたのだと言い張る気質を生んだのだと考えるべきでしょう。

ジェッダ市内の古建築・木製窓
オスマントルコから技術が伝わった

ボクラ・インシャーラーの国
エクアドルからもどってからは、サウジアラビアを中心にカタール、アラブ首長国連邦・アブダビといった中東諸国の仕事で、9年間にわたってイスラム圏での仕事に従事しました。とくに2年間サウジアラビア西海岸のジェッダ(メッカへの窓口)に長期滞在しましたので、その間の見聞を『サウジアラビアおもてうら』という1冊の本にまとめました。近代化が進む同国の姿を描いた本としては、日本で最初だったと思います。サウジアラビアと言えばイスラム圏の盟主であり、宗教的にもっとも厳格に教義を守る国ですから、日本人にとっては戸惑うことの多い国です。とくにわたしより前に現場に乗り込んだ人たちはたいへんな事だったと思います。巡礼やラマダン、日常のお祈り、食べ物や左手の扱いなど、日本人にとっては困惑するばかりです。はじめのころは、「彼らは巡礼に行くと言っては休み、ラマダン中は食事ができないので力が入らないと仕事をさぼり、昼の休みが終わってさて仕事だとなるとお祈りを始める」などと、仲間うちには、いかにも怠け者であるかのように評する人もいたものです。これはとんでもない誤解で、すべてクラーン(コーラン)に定められた掟(というより規則)であり、毎日時間まできっちりと定められ、新聞にまで公示されたお祈りの時間をずらして祈るような不謹慎な人はいないのです。同じように、日本人にとって面食らうのはボクラ・インシャーラーでしょうか。これは、まさに南米のアスタ・マニャーナに匹敵する言葉だと言えるでしょう。日本人の中には、この言葉が出たら、それはもう「やらないという意味」だ、とまで言い切る人がいます。ボクラはスペイン語のアスタ同様「明日」の意味ですし、感覚的にはたしかに似ています。それに、イベリア半島における700年に近いキリスト教徒、イスラム教徒との関係から考えれば、同じ意味合いの句があっても不思議ではありません。しかし、大きな違いがあります。アラビア語の方にはインシャーラー(神の御心のままに)と神の名が使われているのです。イスラム教徒にとっては、神の名の下では、単に言い逃れや、一時しのぎで使えるはずがなく、「約束を守ろうとしたのだけど、結果として御心に沿わなかったのだ」という意味合いが、多分に含まれているとわたしは思っています。ジェッダ市内には数多くのモスクがあり、お祈りの時間ともなれば、ミナレット(尖塔)からそれを知らせるアザーン(コーランの読誦)が流れます。その響きからは、得もいわれぬ心地よさを感じたものです。アラビア半島東海岸の砂漠の中で、今まさに日が沈まんとするころ、メッカの方角に向かって祈りをささげる敬虔な姿は、見るだけでも身が引き締まる思いにさせられ、今でもその光景は瞼に残っております。お祈りの際には、お互い見も知らぬもの同士が年長者をイマーム(導師)として祈りのグループを形成し、通りすがりのトラックの運転手なども、ごく自然の振る舞いでその中にとけ込んでいく姿には、感銘すら覚えたものです。

アルジェ港遠望
右の丘、白く見える辺りがカスバ

姿は変われどイスラム教徒
子会社に移り、もう海外での仕事とは縁が切れたと思っていたところが、ひょんなことからアルジェリアへ行くことになりました。まだテロの嵐が吹きすさんでいたときで、そのことに気をとられ、同国がイスラム圏だということをまったく意識もせずにアルジェリア入りしました。その意味では、アルジェリア行きとそれまでのわたしのイスラム圏での経験とはなんら関係はありません。アルジェリアはかつてイスラム勢力に席巻された国、民族構成もアラブ人が83%で、残り17%を占める原住民のベルベル人もほとんどがモスレムですから、国民の99.5%までがイスラム教徒ということになります。しかし、同国は130年余、フランスの植民地でした。アルジェ市内では、イスラム教徒にとって象徴的だったカスバの一部を取り壊してまでもフランスの居留地と化していたのです。独立戦争時には、フランスの国籍を与えるという甘い言葉でキリスト教への改宗と、祖国を裏切ってフランスに味方することを迫られました。その言葉につられた人はハルキと呼ばれ、25万人に達したそうです。独立戦争はアルジェリアの勝利となりましたが、フランスに逃げ帰れた138万の人の中にまぎれ込めたハルキはわずか1万5000人、多くは国内にとどまり、一説には10万人が同胞の手にかかったとされています。イスラム圏でありながらキリスト教徒の植民地だったせいか、アルジェの市内をみてもモスクの数は少なく、ジェッダでよく耳にしたアザーンを聞くこともありませんでした。もっとも、市内といっても自分の足で街中を歩くことはできず、防弾車の中から見るだけだったので定かなことは言えません。アルジェでの生活はほとんど大使館と、隣接する宿舎との間の往復、休日でも広大な庭園内の散歩ていど、そんな単調な生活でしたが、警護官の休憩室などで、人目につかぬようひっそりとお祈りをしていたのでしょうか、お祈り時に敷くカーペットなどはよく見受けました。トウブと称する裾の広がったアラブの民族衣装、そしてイマームに従う集団での祈りの姿に見慣れた目からは、洋服姿、しかも部屋の片隅などで人知れず祈る姿はいかにも不可思議でしたが、アルジェリア人もまた、姿は変われど、敬虔なイスラム教徒なのだということを改めて認識しました。

タシケントのオペラ劇場
ソ連に抑留中の旧日本兵が建設に従事

抑制されつづけたイスラム教徒
社会人を卒業後は、もう仕事で海外に出ることはあるまいと半ば安堵し、その一方で淋しい思いにかられていました。数年ほど経過したころ、会社の先輩から中央アジア・ウズベキスタンでの仕事を紹介されました。ウズベクと言えは教科書にも出てくるチムールのサマルカンドだ、とそこに思いを馳せ、躊躇なく飛びつきました。とはいえ、またイスラム圏か、よくよく縁があるのだな、と不思議な縁を感じたものです。旧ソ連邦だった国、入国審査にも独特な厳しさがありましたが、ウズベキスタンの国自体は優渥さに満ち、何よりも透き通るような空の色、カラッとした空気、快適さとはこういう気候をさすのかと、帰国した日本のじっとりと汗ばむ天候にうんざりさせられたものでした。首都タシケントの街を歩いてみても、やはり社会主義の国だったのだな、と思わせるおもい空気を感じましたが、他方、イスラム圏にいるのだという雰囲気はまったく感じませんでした。たしかに、街中のスーク(市場)に隣接して大きなモスクはありましたが、イスラム教徒に定められた1日5回のお祈り時に流れるはずのアザーンは聞いたことはありませんし、事務所内でもお祈りをする部屋などは見受けられませんでした。そのことを現地の人に聞いたところ、ソ連時代に、イスラム教はその活動がかなり抑制され、ロシア正教に改宗することをしいられたそうです。とは言っても、自立心のつよいウズベク人(同国の76%を占める)のこと、簡単には改宗しなかったようですが、抑制の影響は大きく、どうみても表向きは熱心なイスラム教徒とは言い難い面があるようでした。イスラム圏の中にはこんな国もあるのだと実感したものです。

(2015年1月)

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