マイギャラリー

マイギャラリーの絵のことで、よく人から「絵をやっていたの ですね」で聞かれます。そういわれると、まったく面映ゆい気持ちになります。わたしも大学で建築を学んでおり、建築学科では入学試験にデッサンが課せられていたのです。美術系をのぞけば、試験にデッサンというのは建築学科だけでしょうから、いわば建築の学生には絵の素養、あるいは美的感性が求められているといえます。 じつは建築といっても、その幅は広いのです。入学の時点では、ほとんどの学生が丹下さんのような建築家になることをめざして入るのですが、多くは自分の才能に限界を感じ、わたしのように建築構造の道へ進む者、建築設備、現場施工、あるいは各種メーカーや商社など、結構多方面へと分かれていきます。 学生時代、デッサンの先生は、わたしたちにはもったいないような、彫刻界の泰斗、日本芸術院会員・文化功労者の清水多嘉示先生でした。なぜ彫刻の先生が、と疑問に思われるでしょうが、先生は若いころに画家を志していましたし、建築の場合は、単に表面的な絵を画くわけではなく、建物を設計するわけですから、物を立体的にとらえる彫刻的な面が求められるわけです。デッサンの授業での先生は、木炭やコンテを動かす学生たちを静かに見守ることが多い中で、石膏のモデルや女性のヌードをスケッチするにせよ、「直接目に見えない部分も立体として頭の中でとらえ、それを描くように」と口すっぱく指導されていました。むろん、光のさし方に対する影のとらえ方もきびしく指導されました。わたしのように、ただ表面的にこぎれいに描き、スケッチブックをつぶしただけの者に対しては、先生はよい点をくださいませんでした。当然のことで、たいへん失礼ながら、さすがだなぁ、と感心したものです。わたしの場合、デザインの道に進むことは、もう1年生のときに挫折したといえます。 学生の仲間には、スケッチ上手がたくさんいました。なかにはもう画家とよべるほどに、スケッチの域を超えた絵の達者な者もいました。それぞれ画風に持ち味があって、互いに競い合っていました。絵の上手な人は、学年をこえ、1理、2理の壁も取り払われて、その名が知れ渡ったものでした。
同年度では、のちに建築学会賞を受賞した丸山欣也や、少し上の学年で猪狩達也さんのスケッチなど、それは見事なものでした。ちなみに、猪狩さんは、10年ほど前に『猪狩達也スケッチ画集〜時・空を超えて〜』を出版しており、わたしも献本された1冊を大切にしております。 社会人になってからも、建築家であると同時に画家としても活躍されているお二方と懇意にさせてもらっています。お一人は、病院建築で名高い伊藤喜三郎先生の事務所におられた橋本洵平氏です。氏は大学の先輩でもあり、わたしが神戸の鐘紡記念病院(現神戸百年記念病院)の基本設計を担当した時に、建築の面でいろいろ教えていただきました。画材としての顔彩の面白さを知ったのも氏の教えです。氏は、不双人の名で日本自由画壇の泰斗・リーダーとして、いまなお活発にご活躍です。 もうお一方は、わたしと同じ横浜・磯子区在住の山本俊介氏です。氏は清水建設の設計部門のご出身で同社の常務にまでなられた方です。建築家あるいは事業家として活躍されてこられたわけですが、氏の画才は東大在学中からつとに有名だったそうで、わたしより十歳ほどお歳が上ですが、現在でもかくしゃくとされており、画材一式を携えて海外を飛び回り、毎年のように個展を開いております。
ところでマイギャラリーの絵のことです。冒頭に書きました、「絵をやるのですね」といわれ、わたしが面映ゆい気持ちになる理由は、以上の説明でご理解いただけたと思います。建築を学ぶ者としては画才に恵まれませんでしたし、それがゆえに、プラントの建設という、およそ建築からもっともはなれた分野の仕事を選んだ関係で、社会人になってから何年も絵心を忘れていました。入社して20数年も経ったころでしょうか、大学の後輩で、意匠専攻だった者が入社してきたことがありました。さっそく奈良の「シルクロード博」を担当させたのですが、彼の口からでた「エスキス」という言葉を聞いて、びっくりしたものです。学生時代には当たり前のように口にしていたエスキス(スケッチ、あるいは下絵のこと)というしゃれたフランス語をすっかり忘れていたことに気付いたのです。これには、我ながら、さびしくなりました。まだ絵心を失くしてはいけないぞ、という思いに駆られました。 しかし、そうはいっても、一度忘れたものはそう簡単には取り戻せません。絵筆を取るきっかけになったのは、病院改修の基本計画のために、神戸の病院に出向したとき(1987〜90年)です。プラント建設を相手にしていた者が、いきなり病院が相手になったのです。それでなくても、病院という多機能かつ多部門からなる組織の方たちを調整し、それをまとめて改修計画を作成することは、たいへん気苦労の多い作業でした。いきおい気持ちがイライラしてきます。それを抑えるために、絵筆を取ったわけです。スケッチをし、それに色をつけていく作業は、少なくても、それを行なっている間はすべての憂さを忘れさせてくれました。その後も、旅で時間のあったときなどに絵筆を持つこともありましたが、かなり意識して画いたのは、仕事でアルジェリアに滞在(1998〜99年)したときです。 アルジェリアでは神戸とは別の意味で気持ちを抑える必要がありました。当時のアルジェリアでは、まだイスラム原理主義者によるテロの嵐が吹き荒れていたころで、数回にわたる滞在期間中、日本国大使館敷地内に止め置かれたのです。ちょっとした植物園ほどの広大な敷地内とはいえ、閉鎖された空間内での生活を強いられれば、いきおいストレスはたまってきます。その解消のために絵筆を取ったというわけです。 マイギャラリーの中の絵が神戸とアルジェリアに集中しているのはそんな事情があったのです。自分のウエブサイトに絵を出すなんて、ずいぶん大それたことをしているな、といつも思っています。アルジェリアからもどってから10年近く経ちますが、 その間、絵筆からはなれていますが、絵をすてたわけではありません。
これからまた、マイギャラリーに挑戦したいと思っております。

(平成20年 12月)

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