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おやじの背中

新聞紙面や雑誌などで、各界の著名人がよく「おやじの背中」 といったタイトルで、おやじの背中を見ながら自分が何を学 び、どのように育ってきたか、という文章を書いている。書く 人みな、ひとかどの人物であり、自分が父親からどれほど学ん できたか、と熱っぽく書いているのを読むと、うらやましく思 うことしばしばである。 さて、わたしが同じタイトルで書くとしたら、一体どうなるで あろうか。じつは、何を学んできたのか、思い当たらないので ある。むしろ、おやじといえば、毎晩のように酒を飲んでは遅 く帰って、母との間で言い争っていたという思い出ばかりが つよく残り、子供心にもそれがいやでたまらなかった。わたし は体質的にアルコールをぜんぜん受け付けない不調法者なので あるが、こどもの頃のいやだった思いが、トラウマとしてアル コール拒否の形で現れているのではないか、と思うことがある。 そのようなこともあって、親子間の絆は、他の人と比べれば、 希薄だったのかもしれない。
いま考えると、寒心の思いである。

父、長(まさる)は明治34年、群馬県磯部村大竹(現安中市) の生まれである。鎌倉の御家人三浦一族の流れをくむ一末裔で あった石井家ゆえ、この地に土着したのちも、それなりに裕福 な農家だったに違いないと思われるが、わたしの祖父政吉が生 来の怠け者で身代をつぶし、夜逃げ同然のありさまで、追われ るようにして村から逃げ出したそうだ。祖母もとの実家である 坂本家にも多大な迷惑をかけたようで、後々まで人口に膾炙 (かいしゃ)し、孫のわたしまで恥ずかしい思いをしたもの である。政吉は5人の男の子、女の子4人の子福者(こぶくし ゃ)だったが、極貧の中で、五男だった父は尋常小学校2年までの教育しか受けさせてもらえず、奉公に出されたそうである。他の兄たちの多くはみな早死にだったようで、次男の昇作だけは27歳まで生きたが、早い時期に北海道へ働きに出たらしく、おそらく父との音信はほとんどなかったものと思われる。ばらばらになった家族の中で、父の妹四女のかねだけは、川崎に住む教育者に嫁し、幸せな家庭を持ったので、温厚なこの叔母とだけは親戚としてのお付き合いをし、互いに行き来していた。父は、よほどつらい思いをしたのか、自分の小さい頃の家庭・家族や、奉公していた頃の生活などについてはほとんど語ろうとはしなかった。物心のつく以前の父についてのわたしの知識も、叔母を通して得たにすぎず、じつは微々たるものである。そんなこともあって、情けないことに、わたし自身、父のことについてはほとんど知らないのである。父がわたしの生地である品川へ居を構えたのがいつの頃だったのか、母との結婚が昭和4年であるから、たぶん大正末期から昭和の初めごろ、品川がまだ東京府荏原郡品川町と称していた頃なのであろう。それすら定かには分からないというのは、淋しいかぎりである。
叔母や、数少ない従兄弟などから、よく「長さんは学校へもろくに行かせてもらえなかったが、頭がよく、勉強好きだった」と聞かされたが、確かに、その後1級建築士や土地家屋調査士、あるいは行政書士などの資格を取得し、電気についても主任技術者ていどの知識を持っていたのだから、相当な勉強家、努力家だということはいえよう。そうした知識の習得はほとんどが書物からと思われ、本棚にはアルス『建築大講座』の大冊3巻や早稲田講義録などがあった。電気だけは、たぶん神田にあった電機学校の夜学にでも通ったのだと思う。兵役で東京中野にあった陸軍電信第1連隊へ入隊していたはずなので、そこでの経験ものちに役立ったのではないか、と思っている。それに、手先が器用であり、道具好きでもあった。一人で事務所を開設していたに過ぎないのに、和文タイプライターや測量器具一式、カメラなどを有し、カメラなどは、生活に窮した母の恰好の質草になったりした。そのことも、両親の間で「商売道具を質に入れるなんて」、「生活費をくれないからだ」というような、水掛け論的な言い争いの種にもなっていた。
今思い出してみても、父がわたしに手を上げたことはなかった。 叱られたという記憶すら定かにはない。いい子だったどころか、 向こう気がつよく、腕白そのものだったのだから、叱られるよ うなことをしなかった筈はない。わるさをしては、自宅前の寺 の寺男に毎日のように追いかけられていたのを見て、父は、躾 はそちらに任せていたのかも知れない。短い付き合いだったが、 わたしの連れ合い、あるいは義姉にいわせれば、「優しそうな お父さん」という評であるから、やはり温和な性格だったので あろう。そのせいか、中学、高校の受験に失敗し、大学に入る のにも何年も苦労したわたしに対して、父は何も言わなかった。 わたしにしてみれば、有難いことではあったが、それに甘えて いたのも事実である。苦労して入った大学を出て、就職先を千 代田化工建設に決めたときも、何もいわなかったが、複雑な顔 をしていた。父にしてみれば、「早稲田の建築出なら、もっとま しな就職先があるだろうに」の思いだったに違いない。親不孝 なことをしたかな、と今でも考えるときがある。
経済力ということから見た場合、父をどう表現してよいものか、 答に窮する面がある。1級建築士事務所を経営する自営業で、 仕事の波は確かにあったが、顧客には結構大きな事業所もあっ たし、やり方次第では、それなりの生活が出来たのではなかろ うか。事実、同業者の中には、自宅とは別に事務所を構え、中 には自分のビルを持つ人もいた。父は、その面ではまったく才 覚がなく、自宅は最後まで借家、事務所は自宅を兼用していた。 住まいに対する欲は皆無で、その点だけは、わたしは父によく 似たのかも知れない。母が質屋通いしたと書いたように、生活 は、その当時としても貧しい、というより安定しなかった。父 が住まいに関心を示さなかったのは、むろん経済的な理由が大 きかったかもしれないが、わたしは、別の理由も考えている。 一つには、極貧の中で育った父にしてみれば、家を持つなんて ことはぜいたくだ、雨露さえしのげれば十分だ、という古い考 え方。もう一つには、家を持たない分、そしてまた、自分が小 学校2年までしか教育を受けられなかった悔しさから、こども の教育費へ回したい、という思いがあったのであろう。事実、 貧しかったとはいえ、姉は高等女学校(旧制)から杉野服飾( ドレメ)学院・実践女専(現女子短期大学)へ進学したし、わ たしも、弟も大学で学ぶことができた。いま考えればたいへん なことだっただろうし、これだけは、ほんとうに有難いことだ ったなと感謝している。おやじの背中から何かを学んだとした ら、痩せたおやじが、よくぞそこまで育ててくれたという感謝 の気持かもしれない。社会人になって間もなく、わたしは品川 の家を出て、芦花公園の住宅公団の単身寮へ移り住んだ。親か ら独立したという喜びは、それは大きなものだった。移ってか らどのくらい経った頃か、父はわたしには何もつげずに、こっ そりとわたしの部屋を見に来たことがあるらしい。「なかなかい いところじゃないか」、父はぽつりと言っただけだった。成人に なっても、親はこどものことが心配なのか。親の愛を、はじめ てつよく感じた。
敦賀の現場へ赴任(昭和40年4月)した年の夏、父が上顎ガン で澁谷の日赤本院へ入院したという連絡を受けた。10月の結婚 を目前にひかえ、この報はショックだった。そばに居てあげられ ないことが、なによりもつらかった。むろん式には出られなかっ たが、父はわたしたちの結婚を喜んでくれた。正月、一時的に退 院が許された。最後の正月を自宅で、という主治医の思いやりか らではなく、まだまだ大丈夫ですよと、自信を持っての許可であっ た。車で迎えに行くからと言っておいたのに、待ちきれずに独り で電車に乗って帰ってきた。内臓が丈夫で、まだ元気だったし、 半年もの長い入院生活によほど辟易していたのであろう。もどっ てからの父は、すべてが安らかだった。1月8日には部屋を暖め、 全身を拭いてあげた。肉がすっかり落ちてしまった体は痛々しか ったが、父はことのほか喜んでくれた。それが、まさか父への最 後の(あるいは最初でもあったかもしれないが)親孝行になろう とは、今でも信じられない思いでいる。結婚して多摩平に住んで いたわたしの許に「父死す」の連絡が入ったのは、日付こそ翌日 になっていたが、別れてまだ何時間も経っていないときだった。 ガンだということを告知されずにいた父、自分は悪性の蓄膿症だ と信じきっていた父、いったい何が父の生きようとする気持ちを 削いでしまったのか、わたしには今もってわからないでいる。 じぶんが古希を過ぎる歳になった今、父のことが、しきりに思い 出される。晩年は外で飲むことを控え、大好きだったハンペンを 肴に晩酌をしていた父、せめて一度ぐらい、その相手をしてあげ たかった。
(平成21年 1月)

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