旧ソ連領内日本人の抑留者

タシケント・日本人墓地慰霊碑

舞鶴の港というのは、ある年代の人にとっては軍港として知られ、同時に菊池章子さん・二葉百合子さんの唄う『岸壁の母』の舞台になったことでも知られています。皆さんご存知のように、戦後まったく不条理な理由でソ連領内へ連れて行かれた数十万人にもおよぶと伝えられる抑留者たちは、どんな思いでこの港の桟橋へ上陸したのでしょうか。舞鶴引揚記念館に残された資料では、いわゆるシベリア抑留者の帰国時に出航港となったナホトカからの帰国者の数は約44万人、それに遺骨は約1万2000柱にもおよぶそうです。一般にはあまりよくは知られていませんが、同館に収蔵されている『シベリア抑留や引き揚に関する資料』をユネスコの「世界記憶遺産」に登録させる準備が、ここ何年かなされており、本年の秋以降、その審査が行われるとのことが報じられました。わたしは抑留中の悲惨な内容から考えて、ぜひ登録されればいいなと願っています。戦後70年のこの夏、6月22日の神奈川新聞には同紙の記事を通じてシベリア・タイシエトに抑留されていた二人が60数年ぶりに再会したという記事が載っていましたし、24日のNHKテレビで、山梨のA氏が閉ざしていた口をはじめて開き、当時の過酷な抑留生活を語ったと放映していました。70年と言えば長い時間ですが、一度味わった悲惨な思いは消えないようです。

ナホトカ港を出て行く引揚船 抑留者だった近藤氏画
一条の煙を残して船は出て行く見送る者にとってはつらい一瞬

シベリアで抑留されたという人は自分の身内にはいません。直接話を聞けたのは、自著『陸軍燃料廠』執筆時に紹介されたS氏からでした。いかにも恰幅のよろしい偉丈夫で、聞けば紀州藩主頼宣の次男頼純が3万石で立藩した愛媛・西条藩の家老職の家柄だったそうです。ご本人は学習院から東京工大を卒業し、三菱鉱業の研究所で石炭の直接液化の研究をなさっていました。自著にも書きましたが、陸軍燃料廠が正式に設立されたのは昭和15年8月、人材の少なかった陸軍は民間の目ぼしい技術者をかたっぱしから軍に引き抜き、S氏も入社3年目で軍の技師となり、豊富な石炭を利用して液化することを目的に満州四平街に設けられた第二石油工廠に配属となりました。そして半ば強制的に軍籍に移され、終戦時は陸軍技術少佐・四平製油所作業所長の立場でした。終戦間際になって、燃料廠は石油技術者の本土への引き揚げを命じ、12名を三班に分けて、第一班の四平街出発は8月14日夕刻、朝鮮との国境に近い本渓湖で敗戦を知りました。第二班の引率責任者に指名されていたS氏は満州に残され、ソ連軍の捕虜となりました。間もなく帰国できるだろうという希望もむなしく、シベリアへ向かう貨車の旅は2ヶ月にも及び、白樺林の葉はすでに落ち、バイカル湖の水も凍っている中、雪のウラル山脈を越えたのちも貨車はさらに西へ向かい、行きついたところはモスクアの南300キロのマルシャンスクでした。

旧ソ連領内日本人収容所分布
(地図上をクリックすると拡大してみれます)

ソ連内日本人収容所(ラーリゲ)の最西端に位置したマルシャンスクは、ヨーロッパ側から見れば東端の最終集結地で6000名のドイツ兵をはじめ、ハンガリーやポーランド兵など計7500名、日本側は関東軍の一部、千島からの軍人、満州国政府要人、警察・満州国軍など3500名で、合わせて1万1000名が抑留されていたそうです。S氏に言わせますと、ソ連での抑留は赤化運動と切り放しては語れないそうです。マルシャンスクに着いて最初の1年は平穏だったようですが、昭和22年に入るとシベリアから赤化の嵐が吹いてきて、日本人としてのそれまでの秩序がくずれてしまったようです。本文では赤化運動の内容を書くことが目的ではありませんので詳しくは書きませんが、いわゆる「アクチブ」の組織ができ、密告、つるし上げ、反動呼ばわりが日常生活のなかにつよく入り込み、「わが祖国ソ同盟」を口にする「アクチブ」に積極的に協力すれば早く帰国でき、反対の態度をはっきりさせると反動のレッテルが貼られ帰国は遠のき、その間にノンポリが存在するというグループ分けが構成されたようです。その結果、昭和22年9月に第1次帰国梯団が同地を出発、同年10月に第2次梯団出発後の残留者は1200名、その大部分はノンポリいわゆる日和見と称される人たちで、「アクチブ」にまったく同じない反動者はわずか49名だったそうです。S氏は反動者の最右翼で、祖父も父も陸軍の軍人という血筋を受けた氏は、本人は技術者の道を選んだとはいえ、意に沿わぬことには従わない一徹なところがあったのでしょう。帰国を半ばあきらめて昭和23年を迎えたその年の5月、マルシャンスクからの最後の帰国梯団に入れられたそうです。ナホトカまでの1ヶ月の貨車の中ではまだつるし上げがつづき、ナホトカでは「極反動分子」だとして8名だけが隔離されて帰国船に乗せてもらえず、8月になってその内の5名が次の船で帰国を許され、S氏を含む3名だけが取り残されました。もう帰れまいと思い、海辺に坐って1日おきに入港してくる、目に沁みつくような日の丸の旗を船尾に掲げた引揚船を見る思いはとても言葉では言い表せない、と述懐するS氏はしばし目を閉じておられました。昭和23年10月9日、理由が分からないままに、昨日まで反動者扱いだった者が、引揚船栄豊丸帰国梯団長として最後にタラップを上がり、船長の丁重な「お待ちしておりました」というひと声で迎えられたそうです。5月の船で帰国したノンポリの仲間たちの多くが、不法に残留させられていることを舞鶴の復員局につよく申し入れ、外務省を通じてソ連政府に働きかけてくれたのだそうです。S氏の帰国をもって、陸軍燃料廠関係者のシベリアからの最後の帰国者となりました。南方からの帰還者より1年半も後の事でした。

タシケント・日本人抑留者墓地入口

先に書きましたが、マルシャンスクには多国籍の人たちが抑留されていました。同じ敷地内で長い間抑留されていれば、おたがいの交流も生まれますし、彼我間の違いもわかってくるようで、S氏はこんなことを書いていました。ドイツ人は対ソ工作を少数のアクチブにあたらせ、他の多くはそっぽを向いて、専門分野の人を中心にいろいろなサークルをつくって勉強をしていたそうです。彼らに言わせれば、いずれ帰国したときに国に残った者におくれを取らぬよう勉強しておかなければ、というつよい気持ちからだったそうです。染料会社の技術者は化学を教え、アウトバーンを建設した土木技師はコンクリートを、あるいは法律の専門家は「ドイツの再建について」などというテーマでディスカッションをしたりしていたようです。週に1回はコンサートとか演劇の会が催され、会場の設定など玄人はだしで、収容所生活も古いため所内の管理もソ連側にうまく取り入っており、倉庫などから楽器をはじめ会場設定の資材など半ば自由に持ち出していたようです。演奏される曲もお国柄を出して、ドイツは軽音楽を、オーストリアはクラシック、ハンガリーはもの悲しいジプシー音楽を堪能させてくれ、ソ連側も所長以下幹部が顔を出し、「ハラショー」を連発して楽しんでいたようです。苦しい抑留生活であればこそ、いかに健康を保ち、生活をエンジョイするかに腐心していたように思えます。それでいて、彼らは逆境にあっても民族の意識は高く、同じ仲間として戦ったという一体感を持って、作業の行き帰りでも自分たちの軍歌を歌いつつ誇りをもって行進していたようです。その点では、日本人は正反対にちかく、一部の「アクチブ」に扇動され、帰国したいがゆえに民族の誇りを忘れたかのような集団になりはててしまったように思えた、とS氏は語っていました。テレビでA氏も、「収容所では日本人同士、互いに足を引っ張り合っていた」、と語っていましたが、考えさせられる話しですね。

タシケント・日本人墓地2 慰霊碑が見える

仕事で中央アジア・ウズベキスタンへ行くことになったとき、旅行案内で、同国の首都タシケントに戦後抑留されていた日本人の墓地のあることを知りました。ソ連の抑留者といえばシベリアだと思いがちですが、シベリアからさらに遠く離れたマルシャンスクとか、中央アジアのタシケントといった遠方でも抑留されていたのだ、と思うと胸が痛みました。タシケントへの2回目の訪問時、5月の濃い緑の中、市内南西部ヤッカサライ通りから少し奥へ入ったモスレム墓地の一角に日本人墓地はひっそりとたたずんでいました。墓は現参議院議員中山恭子さんが在ウズベキスタン大使だったころに本格的に手が加わり、専任の墓守がついていて、よく整備されていました。ウズベキスタンへは、当時2万3000人ほどの日本人が抑留されており、炭鉱、石油関連、諸工業の生産施設などで働かされていたようです。そのうち900人ちかい人が亡くなり、ここの墓地にはタシケントで亡くなられた79名の方が埋葬されているほかに、同国内にあった13か所の墓地のうち、近郊の墓地の分も合わせて埋葬されたそうです。その他に、ドイツ抑留兵士の墓地も隣接されていました。福島県・ウズベキスタン文化経済交流会が建立した立派な鎮魂碑もありましたが、同国医師の日本での研修を福島の医大が受け入れたことから交流が始まったとのことでした。

ナヴォイ‐オペラ・バレエ劇場側面

タシケントといえば、中央アジア随一と称されるナヴォイ‐オペラ・バレエ劇場があります。落ち着いた感じのベージュ色をした堂々とした建物です。1500人収容の大劇場で、1947年の完成です。この劇場建設に当っては、当時抑留されていた旧日本兵の多くが携わったようで、1966年に同市を襲った大地震では市内の多くの建物が崩壊した中でびくともしなかったことで、さすが日本人による建設だと評判がよく、日本人を称えるプレートが壁に埋め込まれています。モスクアの有名なレーニン廟と同じ建築家による設計だそうですから、設計それ自体がよかったのでしょうが、やはり日本人としては誇らしいことです。

(2015年7月)

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