信じられないでしょうが

ボートのクルーとともに

夏になると思い出すことがあります。信じられないでしょうが、学生のころ荒川(現隅田川)でボートを漕いだことです。まさか!なんて思わないでください。べつに大学の漕艇部に入っていた、だなんてことは申しません。体育の実技でボートを選択し、夏の1週間、指導を受けたのです。場所は荒川区・東尾久の大学艇庫近くの荒川でした。艇庫は、いまは戸田の方へ移っていますが、この当時はまだ尾久にあり、隅田川も千住大橋から上流は荒川と称していました。現在は昭和40年の河川法改正で、荒川放水路と称されていた人工河川を荒川本流とよび、都民に親しまれている隅田川は岩淵水門まで隅田川と称し、じつは荒川の支流となっているようです。それはともかく、もう記憶はほとんど茫々としており、国鉄(現JR)の田端駅で下車したことは確かですが、そこから先は歩いたのかバス利用だったのか定かではありません。指導者(これから先はコーチと表示)は漕艇部の現役の学生さんで、いかにもボートマンらしく、日焼けした顔は精悍で、体つきも筋骨たくましく、はきはきとものを申す男らしい方でした。ただしその年、隅田川の春の風物詩である早慶レガッタに負けたということで、「くやしい!この憂さは君らをしごくことで晴らすのだ」と、そこまでは言わなかったかも知れませんが、とにかく悔しがっていました。早慶レガッタといえば、野球、ラグビーとともに三大早慶戦の一つであり、また、オックスフォードvsケンブリッジ、ハーバードvsイェールとともに世界三大レガッタと称されているだけに、8月の全日本大学選手権以上に勝敗にこだわるのだそうです。

現隅田川・尾久周辺図

そのようにコーチが力を入れていましたので、指導はきびしく泣きが入るほど苦しいものがありました。初日は、いわゆるボ ートの漕ぎ方で、クルー全員がオールに触ること自体はじめてですから、教える側も、教わる側も、苦難の連続でした。「腕を伸ばしてオールを水につけ、水をつかむんだよ。水をキャッチ!キャッチ!」と言われても、つかむどころかオールが水に沈んでしまい、艇の進行を妨げてしまうのです。そのつど怒鳴られながら、それでも何回かくりかえしているうちに、手首をうまく返すことでオール先端のブレード部で水をつかめるようになりました。でも、それだけでは艇は進みません。艇を推進するためには、水をキャッチした深さでオールをキープしたまま伸ばした腕を自分の体の方へ引かなければいけません。ストロークというのでしょうか、これも口で言うほど簡単ではありません。ついオールが水にとられ、またまた進行を妨げてしまいます。「おい!ボートを進めるのか、それとも止めようとしているのか」、罵声が頭の上に飛び交います。素人が考えても、艇の推進力はこのストロークで決まるのでしょうから、教える側としてはつい声も荒く、大きくなってしまうのでしょう。脚力を最大限に使い、つぎに上体をまっすぐに正し、さいごに腕力でオールを引きつける、非力な者にとってはほんとうに辛いところでした。それも、ただむやみに引けばよいというわけにいかず、引きつけた最後にはオールを水からすばやく抜かなければなりません。これがまた難しく、タイミングがくるうところです。「なにやってるんだよ!」、またまた罵声。「はじめからそんなにうまくできるか」、とつい言い返したくなりますが、そんなわけにはいきません。水から抜いたオールを前にもどし、また水のキャッチ姿勢(フォワード)に入る。こんな単純なくり返しなのですが、クルー全員が初心者、全員がオールの扱いにとまどっているばかりではなく、腕力の間でも個人差もあり、まあコーチから見れば、見ちゃいられないところだったのでしょう。初日はこんな感じで、何時間の講習だったかもう記憶がありませんが、くたくたになってしまいました。ここまで書いて思ったのですが、そんな状態で田端の駅まで歩けたはずはない。だとすればバス利用しか考えられませんので、艇庫に近い停留所までバスを利用したのだと思います。初日の指導で、まあ一応は艇を前に進めることができるようになり、2日目に入って、コーチの指示でシートも決められました。本来なら、艇首(進む方向)側のバウ、コックス(舵取り)側のストロークは、それぞれ重要な役割、求められる特性があるそうですが、たった一日の漕ぎ方を見ただけで分かるはずはないでしょう。坐らされた側だって、お前のシートは大切な役なのだといわれても、1週間かそこいらで大切な役を果たせるとは思えません。コーチは、自分の経験から直観的に決めたのでしょうが、ちなみにわたしのシートナンバーは、もう忘れてしまいましたが、たしか艇の中あたり、3番か4番(バウを1番として)だったと思います。さあ、本格的な練習の開始です。前日に覚えたやり方でオールをキャッチしてストロークし、フォワードさせてキャッチ・ストロークと繰り返す。簡単なようでもうまくはいきません。せまい艇内、クルーがバラバラな動きをしていたのでは横ぶれを生じ、艇は水面を滑るようには進みません。クルー1人ひとりが自分のコントロールで精いっぱい、他人に合わせる余裕などなく、クルーの気持ちを一つに合わせるなんてこと、とてもできないのです。「〇番、他とピッチがちがうぞ!」、「△番、オールが水をつかんでねえぞ!」。コーチの叱咤が絶えることなく続きます。こうして連日、ボートなどを選択したことを悔いながらの帰宅でした。

岩淵水門

苦しくつらい体育実技でしたが、そんな中で1度だけ、ボートを選んでよかったという日がありました。翌日が最終日、他艇とのレースをもって実技終了となる日のことでした。連日しごかれて、疲れが翌朝にまで残って重い気持ちで艇庫へ行き、自分たちの艇を川に運び、乗り込んだところ、コーチが「今日は遠漕だ!自分たちのピッチで楽に行こう」と、荒川を上流に向かって漕ぎ出しました。むろん遊びではありませんから、時には「もっとピッチを上げてみよう」とか、「よ〜し!イージーオール(オールを水から上げる動作)」という声がかかり、しばしの休憩タイムもくれました。不思議なもので、自分たちのペースで漕ぐとなると、案外、艇は水面を滑るように進むものです。「今日は怒鳴られずにすむぞ」というだけで、クルー全員の気持ちが一つになるためなのでしょうか。わたしは、つい旧制三高ボート部の『琵琶湖周航の歌』を口ずさんでいました。その遠漕でどこまで行ったのかと言いますと、後になって地図を追いましたら、国鉄の駅でいえば赤羽、荒川と荒川放水路とがぶつかるところに設置された岩淵水門(赤水門)で折り返したことになります。距離にして往復12キロぐらいでしょうか。現在は少し下流に新しい水門が建設され、赤水門は使われていないそうです。この日は尾久の艇庫までもどっても、楽しかったという思いが先行し、前日までの、あのくたくたになった疲れは感じませんでした。のみならず、「今日はよく漕げていた。この調子なら、明日のレースは勝てるぞ!」と、はじめてコーチからお褒めのことばをいただいたのでした。にもかかわらず、翌日のレースは負けてしまいました。自分でも、これほど必死になったことはないと思うほどがんばったつもりでしたが、結果としてダメでした。このレースのこと、まったく記憶に残っていません。ただ、終わったときにコーチのつぶやいた「俺が指導した艇が負けたのははじめてだ」という言葉だけは、いまでも覚えています。それを耳にしたとき、「ああ期待に添えなかったのだな」という思い、そして真夏の1週間、7人のクルーは最初からレース直前まで心を一つにすることができなかったという後悔の念、とが頭の中を過(よ)ぎりました。初日に顔を合せた時も、名前を言っただけで自己紹介らしきこともしませんでしたし、今でいう飲み会もしませんでした。レースに負けた後も、結局はほとんど口も利かないままバスに揺られ、駅で別れただけでした。むろん、その後もキャンパス内で会うことも、姿を見かけることすらありませんでした。その夏だけの祭典に終わったのです。

(2015年8月)

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