新制中学発足当時のこと

母校城南中学校校舎完成写真

母校創立のころ:
戦後、6・3・3制の新学制が発足したのは昭和22年で、わたしの母校・品川区立城南中学校はそれから少し遅れでの創立でした。小学校は隣の品川小で、明治7年(1874年)に幕末の寺小屋が再編された古い学校でした。通学区域内には旧府立一中(のちの新制日比谷高)や八中(新制小山台高)、私立では麻布中(新制麻布高)などがあり、旧東海道品川宿という場末の宿場がかかえる遊興の名残を色濃くとどめた街でしたが、旧制中学進学に対しては、けっこう口さがなかったものでした。学制が変わったと言われても、まだ小学生だったわたしには、「新制中学っていったい何なの?」という思いがつよく、同じ新制高校と称しながら、高校と一体となった私学の中学は受けられるのに、なぜ都立高校へは受験できないのかと、何か割り切れないものがありました。また、新制中学を見る世間の目も冷たいものがありました。わたしなども、通学の途上でよく私立中に進む子たちから「新制中学!」と、いわれのないある種の侮蔑の意味を込めた声を浴びせられたものです。たしかに、それまで旧制の高等小学校だった学校が急に中学に昇格し、新設の中学は近所の小学校に間借りしていたのでは、ばかにされても致し方ないような気がしたものです。それまで存在していなかった中学を新たに設立するのですから、私立は従来のままでいいとして、公立、とくに新設校はまったくの「無」からのスタートですから、教壇へ立つ先生方を集めることなど、関係者は苦労されたことと思います。わたしの場合も、入学当初はいろいろな経歴の先生方に教わりました。小学校を出たばかりの生徒を教えるにはもったいないような、高等師範や旧制の大学を出られた方から、予備校で学んだだけの方まで、ほんとうに多彩でした。でもいま思えば、先生が、教育系の大学卒業生で占められた画一的な現在と比較すれば、玉石混交といっては失礼ですが、多種多様な先生方から学んだ当時の方が、生徒にとっては幸せな面もあったかもしれません。教える内容も教え方も、まさに色とりどりでした。

権現山公園の面影を残す幼稚園卒園写真

画家の授業を受けられた:
わたしの卒業した小学校・中学校ともに、今は姿を消してしまった権現山公園内にありました。ついでに言えば、幼稚園もそうでした。この地は、徳川三代将軍家光が沢庵和尚のために建立した名刹東海寺境内があったところです。そのむかし、太田道灌の館があったと伝承され、また家光が建立した品川御殿があったことで知られる御殿山や地つづきの権現山の南麓に位置しておりました。小学校・幼稚園はそのままで、中学校は権現山を削るかたちで校舎が建ち、御殿山につながる山の頂上付近がかろうじて残され、回遊式の池をはじめとした自然豊かな公園は運動場に変貌しました。公園は子供たちにとっては格好の遊び場で、また写生をするには絶好の地であり、そんなこともあって、わたしは図画が好きでした。中学2年の時には図画担当のやさしい面立ちの女性の先生がクラス担任になり、学校へ行くことが楽しく、勉強にも励みが出たものでした。ところがその先生はご結婚のために辞められ、新たなクラス担任は生徒からは人気のなかった、「タヌキ」とあだ名された初老の男の先生でした。そして新しい図画担当の先生は、中年の、一見して教師離れした芸術家風の方でした。担任は、「この先生は美大出の画家で、君方(きみがた)を教えるのにはもったいないぐらいの先生です」、と独特な方言交じりの口調で紹介してくれました。わたしは、子供ながらにもある種の親近感をいだいたことを覚えています。その先生の最初の授業時間、前の先生の時間の続きとして残された写生を仕上げることでした。先生は構内の案内がてらついてこられた担任と、生徒の画を見て回っていましたが、ちょうどわたしのそばへ来られとき「どうですかな、生徒たちの画は」、という担任の問いに対して、しばらく戸惑ったご様子で、「う〜ん、まあこの児の画などは、」と、ぽつりと小さな声で何かつぶやいていました。その時、先生はだいぶ戸惑っていましたから、おそらく中学生などを指導したご経験などなかったのだと思います。それからしばらくして、3年生になる前の春休み頃に姿が見えなくなり、辞められたという噂が立ちました。せめて卒業の時まで先生のご指導を受けられたらな、と残念に思ったものです。

理科の教師に「トンま」としかられた:
中学時代の理科の授業というと、どうもわるいことしか思い出せず、たいへん残念に思っています。当時の成績通知表をのぞき見したところ、そのわりには、意外なことに3年間通して結構いい成績なのです。1年での担当だったE先生は背が高く、いつも七三に身構えていて、冷ややかな眼で斜めに生徒を見下ろすのです。見られただけでもこわく、授業中、気に入らぬことがあると、生徒の頭を厚紙の表紙でできた出席簿で叩くのです。叩かれた友人の話では、ずしりと頭に響いたそうです。そんな先生の授業中に、「重さの単位にはどんなものがあるか」といきなり名指しされたことがありました。挙手したのではなくいきなりの質問でしたから、どぎまぎして立ち上がった状態で答えたのは「トンです」でした。座りかけたところ、間髪を入れずに耳に入ったのは、「トンだ?トンまなこと言うな!」でした。と同時に、教室のそこかしこから笑い声が聞こえてきました。大きな笑い声、かみしめた笑い、嘲笑……。当時、わたしのクラスは60人を超えていました。その中でわたしは、「そうか、トンではなくグラムとかキログラムと答えりゃよかったのだ」、と恥ずかしさを堪える以前に、そのように答えなかったことを後悔していました。でもしばらくして、重さの単位の答は一つではないのではないか。「貫」だって「匁」(もんめ)だっていいはずだ。そう考えれば、「トン」を重さの単位としたこと間違いではないのでは、と考えるようになっていました。ここからは後日談となりますが、大学の理工系(建築)を出たわたしは、就職先を考え抜いた末に当時まだ名を知られていなかったエンジニアリング会社(当時はプラントメーカーと呼ばれていた)に入社しました。会社での仕事は、ときには何百トンにもなろうかという石油・石油化学プラントの機器を受ける架台の設計(たまには建物もありましたが)でした。わたしにとっては、重さの単位はやはりトンだったのです。

権現山々頂に集った篭球部々員

校庭での往復びんた:
3年の新学期から新しい先生がずいぶん着任され、教師のかけもち授業がようやく解消され始めました。と言っても、必ずしも新卒の先生だというわけではなく、軍から召集解除で教壇へもどられた先生、外地から復員された先生、そして大学・専門学校へ入り直して卒業された先生など、様々だったと思います。それまで数学の先生のかけもちだった体育にも新しいK先生が来られました。決してお若くはなかったですから、たぶん軍におられたのかもしれません。いかにも体育系らしく無骨、無口でおっかなそうな方でした。中学には公園にあった池をつぶした後に造成された運動場とは別に、校舎より一段高い権現山頂上にバスケットの球技場が造られていました。職員室からはむろんのこと、2階の一部の教室からでないと球技場は見通せないようになっていました。二学期が始まって間もなくのころ、事の経緯はよくは覚えてはいませんが、K先生が少し遅れるので、各自準備体操などをしておくように、ということだったのでしょう。先生は、10分ほど遅れて球技場に来ましたが、生徒たちは、様々なポーズで時間待ちをしていました。激怒した先生は、全生徒60名ほどを向かい合わせに二列に並ばさせ、言われた通りに待たなかった罰として、前に立つ相手を互いに一発びんたを張るように言い、職員室へもどってしまいました。わたしたち生徒は言われた通りにして、行為が終わったところで、所在なさげに立ちん坊をしていました。すこし時間が経過したところで、たまたま体調がわるく平服のまま見学していたMという生徒が見るに見かねてクラス委員に声をかけ、二人で職員室へ謝りに出かけました。しばらくしてもどった2人から、先生の指示だとして、その日の授業は休講、教室で自習ということになりました。二人の話では、職員室でのK先生はふだん通りの様子で他の先生と雑談をしていたとのこと。わたしは、生徒側の行為に不備のあったことは認めるにしても、軍隊の内務班*1ではあるまいし一列に並べてびんたを張らせる、それはないだろうという気持ちで一杯でした。後日談になりますが、その後先生は九州にもどり校長先生になられたそうです。しかも温厚でいい先生だったという評判を聞き、そんないい先生を怒らせたわたしたちがわるかったのだろうかと自問しましたが、わたしはいまなお、許しがたい気持ちでおります。

白墨を投げつけた音楽教師:
しばらく専任の教師がいなかった音楽の先生として、3年生になってから新しい方が赴任してきました。武蔵野音大のピアノ科のご出身だそうですが、生徒が先生を批評すること失礼なこととは思いますが、へんにお高くとまっており、きざっぽい先生でした。その先生がどんな教育を受けてこられたのか、むろんわかりませんが、戦時下で音楽を志すことはなみ大抵なことではなく、たぶん意に反することが多々あったのだと思います。しかし、それは時代がそうであったので、教える中学生にその不満をぶつけてもしょうがないでしょう。授業中にこんな話をされていました。「自分は中学の教師になるなんて気持ちはまったくなく、ほんとうはヨーロッパで音楽の勉強をしたかったのだ……」と。そういう気持ちを持つことよくわかりますが、それがかなわなかった不満を生徒に話しても詮無いことで、そんな気持ちでは教わる方がたまらない、という思いになったものです。それからしばらくしての授業中、クラスの問題児とされていた子のおしゃべりが先生の癇に障ったのでしょう。いきなり白墨が、その子の少し前に座っていたわたしめがけて飛んできました。瞬間的な出来事で、その前後の様子はまったく記憶にありませんが、たしか先生は、何も言わずに教室を出て行ったのだと思います。先生が相手では如何とも成しがたいわけですが、気性が激しく多少反抗的だったわたしとしては、その先生を許すことができませんでした。授業を休むわけにはいきませんが、自分の心の中で授業を拒否することにしました。わたしは、いまでも音符・楽譜関係はまったくわからず、今ごろになって、短気は損気だという言葉をかみしめています。一方で、わたしは先生の弾くピアノ演奏は好きで、秋の文化祭でクラスの女子との連弾で演奏した、ブラームスの「ハンガリア舞曲第五番」は今でもつよく耳に残っています。

学年全員の集合写真

英文の意訳について:
わたしの中学入学時は、まだマッカーサー元帥の占領下で、当然のように英語・英会話、あるいはアメリカの日常生活などに興味が持たれたものでした。とは言え、数年前まで敵性語だった英語ですから、それを教えられる先生など簡単にはいなかったと思います。1年生のとき、はじめて英語の教科書を開いたときは、おそらく、胸をときめかせていたに違いないのに、その記憶まったくないのです。英語の担当はクラス担任でもあったO先生、背広こそ着ていましたが、生徒の間では、学校へ来られる前は予備校の学生だったと噂されていました。たぶん上級生が流した情報で、真偽のほどは定かではありませんが、権現山に建設中だった校舎が完成し、そちらに移った3学期には先生の姿は見られなくなっていました。O先生のあと、どなたに教わったのか記憶はさだかではなく、はっきり覚えているのは、2年のある時期から、早大で学んだというA先生に教わりました。たいへんお元気な方で、教材もご自分でガリ版を刷られて用意されたと記憶しております。忘れられないのは、授業中、シェークスピアの演劇を彷彿させるように、大げさな身振り豊かに、物語の一節Oh! dear! what shall I do ?” said Dick Whittingtons.と、朗読してくれたことです。いま思い出しても楽しい授業でした。その先生も2年のときだけで、3年になってからは、同じ大学出のM先生が赴任してこられました。穏和な先生で語り口も柔らかく、女生徒からはとくに慕われていました。教科書は、この年からは中学英語の定番“JACK AND BETTY”が使われましたが、その中で、鮮明に記憶していることがあります。もう何十年も前のことですから、漠然とはしていますが、お腹を空かせた旅人がとある農家を尋ね、何か食べ物を所望したときの農家の主との会話です。原文は定かではありませんが、“Food extends in rural life. “ といったような文章でした。授業中、この文章を訳すよう名指しされたのですが、三省堂のコンサイスていどの辞書で勉強していたわたしは、おかしいと感じつつも、辞書に記載された”extend “ の意味、「広がる」とか「伸びる」をそのままに、直訳(迷訳)で済ませてしまいました。その時はじめて、訳文が日本語としての意味が通じにくい場合、前後の文脈から日本語として意味が通りそうな言葉を考えて訳す、いわゆる意訳の必要性を教えていただきました。わたしにとっては衝撃的なことで、いまでも頭にこびりついて離れません。以下、蛇足になりますが、高校卒業後、大学へ入るまでの1年ほど、わたしは紅露外語の紅露文平校長に英語を学んだことがありました。先生は東京大学を英文学者中島文雄先生と同期のご卒業で、中島先生が英文学科の、文平先生が独文の首席だったそうです。話術がたいへん達者な先生で、面白い授業でしたが、話の内容はともかく、訳文が完全な日本文になっていたという点で、わたしはすごく心服したものです。それはもう意訳の域を超えたものでした。
*1(注記1)旧軍隊の内務班を扱った小説としては、野間宏の『真空地帯』がある。映画化もされ、岩波の文庫本に収録されている。

    

(2020年04月)

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