アダムとイブ

アルブレヒト・デューラー「イブ」

わたしはクリスチャンではありませんが、一度だけ教会へ行ったことがあります。高校を卒業して間もなくの頃だったと思いますが、どこだったのか、もう記憶はありません。いただいた聖書にはほんのわずか目を通しましたが、読めば読むほど性に合わないと自覚しました。並行して矢内原忠雄先生(元東大総長)の無教会主義キリスト教にも興味を示しましたが、それも、いつの間にか薄れてしまいました。キリスト教との関係はその程度のものですが、アダムとイブについては、旧約聖書の「創世記」の中に概略つぎのようなことが書かれていることを知っております。アダムは神によって土からつくられた最初の人間であり、同じく神によってつくられた最初の女性イブとエデンの園で暮らしていました。しかし神の戒めに従わずに蛇の誘惑に負けて、禁断の木の実を食べてしまったために楽園を追われてしまった、というような内容です。
若い頃、仕事の関係でサウジに長く滞在した関係で、イスラム教の聖典『聖クラーン』に目を通すことがありました。そこで驚いたのは、聖典の中にもアダムとイブのことがふれられていることでした。キリスト教、イスラム教、そしてユダヤ教が宗教としての根源は同じだということは耳にしていましたが、なるほどと思ったものでした。クラーンの中でのアダムとイブの扱いは、「創世記」とほとんど変わりありませんが、聖クラーンの中の記述の方が創世記より具象化されて書かれているようです。例えばアダムはアーダムと呼ばれ、全知全能の神アルラーによって人間の祖として「土」から創造されている点は同じですが、異なるのは、アーダムを最初の預言者として登場させており、しかも地上における神アルラーの代理人という重要な人格を与えられている点です。そして女性として創造された妻(名は不詳)と二人、楽園に住まわされていました。しかし、神アルラーによってアーダム同様に預言者として創造されたイブリース(悪魔)の甘言に惑わされたアーダムは、アルラーにかたく禁じられていた果樹を妻とともに食べてしまったのです。二人は罪こそ許されましたが、楽園から地上に追われ、そこで人類の祖として生きてゆくことになるわけです。聖クラーンの方がより具象化されている例として、ほかにも、創世記ではアダムを誘惑するのは蛇としていますが、聖クラーンでは、アーダムと同じ人のかたちをし、同じ預言者であるイブリースにしています。しかも、単なる悪魔(サタン)はなく、アーダムが土から造られたのに対し火から創造されており、憎悪の感情を持ってことごとくアーダムに反抗する悪魔となっています。

ベルギー シントバ−フス大聖堂祭壇画

キリスト教、そしてイスラム教といった世界の二大宗教*1ともいうべき宗教で、「アダムとイブ」は片や創世記、一方では神の啓示として書かれている話です。クリスチャンの画家(イスラム教では肖像化が禁じられている)がそこに目をつけない筈はないでしょう。もとより、わたしは絵画鑑賞は大好きですが、べつに絵画史を研究したわけでもなく、絵に対する専門的な知識もほとんど皆無に近いと言えます。そんなわたしが、自分の書棚に並ぶ画集*2、あるいは訪れた内外の美術館関連の書に目を通してみましたら、9点の作品のあることに気づきました。すべてがルネサンス期のもので、国・時代に沿って列記すると次のようになります。なお、わたし自身は、これらの絵の現物は観ていない(遠目に見たミケランジェロの絵?を除く)ことをはじめにお断わりしておきます。
・イタリア ルネッサンス開花期
1)マサリーノ  「アダムとエヴァ*3の原罪」
2)マサッチオ  「アダムとエヴァの楽園追放」
・イタリア ルネッサンス展開期
3)ミケランジェロ 「アダムとエヴァの原罪」
4)パルマ・イル・ヴェッキオ 「アダムとエヴァ」
5)ラファエ?ロ 「アダムとエヴァの原罪」
・フランドル ルネッサンス
6)ヴァン・エイック 「神秘の子羊の祭壇画」
7)フーゴ・ヴァン・デル・グース 「原罪」
・ドイツ・オランダ ルネッサンス
8)ルカス・クラナッハ 「アダムとイブ」
9)アルプレヒト・デューラー 「アダムとエヴァ」

マサッチオ「アダムとエヴァの楽園追放」

ヨーロッパにおける中世は、ずいぶん長く続きました。絵画の世界でも、建築同様、ビザンティン、ロマネスク、ゴシック様式にとらわれた中世キリスト教会絵画、すなわち神をたたえる芸術の制作から抜け切れずに、悶えていました。すべてを神中心に考える中世キリスト教主義の世界からなんとか脱し、もっと自由に自然と人間を見直そうというルネッサンス運動が現われはじめたのは、13世紀中頃だとされています。こうした動きは絵画の世界にもみられるようになり、15世紀になって、メディチ家の財力を背景に栄えたイタリア・トスカーナ地方の大都市フィレンツェでルネッサンス絵画は一気に花を咲かせました。その旗手の一人が、近代画家の始祖とも称されているマサッチオです。彼が描いた「アダムとエヴァの楽園追放」(フィレンツェ・ブランカッチ礼拝堂)は彼の代表作の一つに挙げられています。創世記の主たるテーマである「アダムとエヴァの楽園追放」は彼としても描きたかった画題だったに違いありません。しかし古代への復興をめざすルネッサンス絵画は教会への依存度はまだつよく、絵の構成など、中世キリスト教会絵画の影響から脱しきれないなかで、楽園を追われる二人の苦悩に満ちた表情、従来の教会絵画の淡白で平面的な画法からは考えられない写実性と立体感など、まさに近代画の領域だと言えるでしょう。

ミケランジェロ 「アダムとエヴァの原罪」

フィレンツェで花を咲かせたイタリア・ルネツサンスは、やがて活動の場をローマへ移し、最盛期を迎えました。来たるべき新しい時代を迎える爛熟期でした。15世紀末から16世紀にかけての頃で、時代を支えたのは、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロといった巨匠たちで、レオナルドを除く2人は、「アダムとエヴァの原罪」を描いております。イタリアへ行かれ、ローマ市内のヴァティカン宮殿内のシスティナ礼拝堂で天井画をご覧になった方は多いことと思います。その天井画のほぼ中央部に、ミケランジェロの「アダムとエヴァの原罪」があります。じつは、多くの方もそうだったと思いますが、わたしはまったく知らずに、また知っていたとしても、探すことは難しかったに違いありません。画集によれば、蛇に化身した悪魔が渡す禁断のリンゴを、疑うこともなく受けとろうとするエヴァの邪気のない清純な顔を中心に、全体が力づよいタッチで描かれています。また、同じヴァティカン宮殿内の教皇の署名室にはラファエロが描いた天井画があります。むろんわたしは、原画を観ていませんし、絵のもつ宗教的な意味合いも理解不能なのですが、描かれた四つの命題のうちの一つである「神学」に対して、それとなくほのめかす寓意像として「アダムとエヴァの原罪」が描かれていいます。キリスト教におけるアダムとイブの位置づけが、なんとなくわかる気がします。ところで画集を通して知るその絵、構図こそまったく異なりますが、描かれた内容そのものはミケランジェロとほぼ同じで、ただ絵そのものは、へんに生々しさを感じさせるものがあります。

ヴァン・エイック「アダム」

イタリアで開花し発展したルネッサンスは、当然のようにヨーロッパの他国へも伝播しました。その顕著な例がフランドル地方で、アダムとイブを描いた画家としてはヴァン・エイックとフーゴ・ヴァン・デル・グースとが挙げられます。また、ドイツ・オランダでは、わたしが好きな画家の一人アルプレヒト・デューラーと、彼と同世代のルカス・クラナッハがいました。ちなみに、クラナッハの「アダムとイブ」はロス近郊のパサデナの美術館に展示されています。ところで14世紀末から15世紀にかけて、多くのフランドル出身者がフランスで活躍したと言われていますが、その中で著名なのは中世芸術の完成者と称されているヴァン・エイックです。彼の「アダムとエヴァ」の絵は、ベルギーのセント・バーフス大聖堂の祭壇に描かれています。祭壇の扉を開いた両翼の上段中央部に主キリストを中心に左に聖ヨハネ、右に聖母とが並び、下段に黙示録に記された「子羊への礼賛」が上下段が対になるように描かれています。さらに、創世記に従い、左扉には聖ヨハネ隣にアダムが、右扉の聖母隣りにエヴァが描かれており、ここでもキリスト教創世期における二人の立ち位置がよく理解できます。わたしの手元にはスペインで刊行された作家別の画集(南米で購入)があり、その中のヴァン・エイック集に祭壇画のアダムとエヴァ各々の拡大画が載っています。アダムは人類の祖にふさわしく、ふかい面差しを備えており、エヴァの方は身ごもったスタイルで、やや沈痛な面差しに描かれた素晴らしい肖像画です。最後になりましたが、ドイツ・ルネッサンスのデューラーです。この人の描いたエヴァの明るく、まだあどけなさを残した表情、これはまたどう評価していいものなのか、戸惑ってしまいます。わたしは、他の画家が描いたアダムとイブの作品には見られない、デューラーの宗教から解き放たれたその明るさが大好きです。デューラーはドイツ・ルネッサンス絵画の開拓者であり、完成者でもあると言われています。若い頃2度にわたってイタリアに滞在していますが、巨匠たちの去ったフィレンツェや、巨匠たちの活動の拠点だったローマではなく、北のヴェネツィアでした。彼はイタリア・ルネッサンスの絵画が古代への復帰をざし、教会に縛られている点に嫌気がしていたのでしょう。また、マルティン・ルターの宗教改革にも深い関心を寄せた一方、その時代の宗教間の抗争が続く中で、このような時にこそ「聖書にかえるべきだ」とアダムとイブを画題に撰び、その他にも、「マヒワの聖母子」(ベルリン国立美術館)や「4人の使徒」(ミュンヒェン ピナコテーク)などの宗教画を描いており、そのいずれもが明るい表情で、イタリア・ルネッサンスの画家の作品からでは見られなかったものです。なお、彼の「アダムとエヴァ」はスペイン・マドリッドのプラド美術館にあることを付記しておきます。
*1(注記1)信者数の多さからキリスト教とイスラム教を二大宗教としていますが、信者数ははるかに少ないものの、歴史の深い仏教を加えて三大宗教とも言われています。信者数だけでいえば、ヒンズー教徒は仏教徒よりはるかに多い数です。
*2(注記2)わたしの書架にある画集は、『世界名画全集』(平凡社)と“MAESTROS DE LA PINTURA” (スペイン刊)です。どちちらも豪華本ではなく一般書並みの本です。
*3(注記3)本文中、基本的には「イブ」表示にし、参考にした画集で作品表示が「エヴァ」になっている場合はそれに従いました。

    

(2020年01月)

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