バルドー博物館

館内の建築様式

3月の半ば、北アフリカ・チュニジアの首都チュニスで武装集団が市内のバルドー博物館を襲撃し、多数の死傷者を出すテロが発生しました。皆さんも、またかの思いをされたことと思います。チュニジアといえば、2011年のジャスミン革命を成功させたことで、まだ記憶に新しいところですが、そのときも一文をまとめましたので(2011年3月号『チュニジアという国』参照)、今回は2回目となります。同じような内容を避けるために、今回は事件発生の現場、国立のバルドー博物館について書き下します。

天井装飾のすばらしさ

バルドー博物館は、チュニジアがフランスの保護領となった19世紀末、市内ほぼ中心部のラグーン近くに建つ旧バルドー 宮殿を利用して、それまでに集められた考古学コレクションを展示するために開館されました。そして1956年に同国の独立とともにバルド−の名前を取った国立博物館となったのです。オスマン・トルコ帝国・チュニス太守の館だった建物が利用されていますから、館の内部はすばらしく、アーチと柱の形態、そして漆喰の白壁、アラベスク(壁面装飾)に使われた上質のタイルなど、隣国アルジェリアなどでよく見受けられたイスパノ・モレスク様式(イスラム勢力が北アフリカからイベリア半島へ進出したころの様式)そのものであり、天井装飾などの煌びやかさはトルコ様式の影響を色濃く受けています。

カルタゴ遺跡内にあった彫像が館内に移設・展示

館内の展示品は、カルタゴをはじめ、ドゥガ、スースなど国内の遺跡から集められたギリシャ時代のブロンズ像・大理石の彫刻、そしてローマ時代のモザイク遺品などで、とくにローマ時代のモザイク収集に関しては世界一だと称されています。彫像に関しては、市内北方のカルタゴ遺跡にはいまでも相当数が遺されていますが、現在はその一部が写真に掲示したように博物館内で展示されています。その特徴はほとんどすべての像の頭部が破壊されている点です。カルタゴ遺跡へは2度訪問しておりますが、その時は、3次にわたるローマとのポエニ戦役でカルタゴが壊滅した際、ローマ軍は破壊の限りを尽くし、彫像については頭部を切断することで魂の甦りを断つと信じたからだと説明されました。しかし、それだけでなく、のちにこの地へ侵入してきたヴァンダル族(ゲルマンの一族)、そしてアラブ人も偶像崇拝を禁じていたことから、今日見られるように、頭部の残った像はほとんど見られなくなってしまったのではないでしょうか。

モザイク画「ユリシーズと人形」

同館のモザイク画は、その数の多さ、大画面の作品の多いこと、そして何よりも作品のすばらしさに感嘆させられます。イタリア・ポンペイの遺跡へ行かれた方は、1900年もの間、火山礫の中に埋もれていたモザイク画が掘り出され、再現されたそのみごとな姿に接し、驚かれた方が多いと思います。バルドー博物館では、まさにローマ時代の数多くの作品に接することができるのです。本稿では「ユリシーズと人形」、「ネプチューンの勝利」と題された2作品を紹介しますが、ともにギリシャ神話、ホメロスの『オデュッセイア』が舞台になった作品のようです。主人公であるギリシャの英雄オデュッセウス(英語名ユリシーズ)がトロイ戦争後に故郷のイタケ島へ帰還するにあたって、海の神ポセイドン(ローマ神話ではネプチューン)の怒りを買って苦労したという話をモチーフとした作品なのでしょう。しかし、その背景を全然知らないわたしのような者にとっては、やはり作品から受ける印象は、おそらく欧米人などと比較すれば、そうつよいものがありませんでした。その点では残念だったとしか言いようはありません。

モザイク画「ネプチューンの勝利」

ウェブサイトのトピックの中でしばしば書きましたように、北アフリカのマグレブ3国のなかでは、チュニジアは「マグレブの乙女」と称されていたように、どちらかと言えば温和な国であり、国民だと言えるでしょう。わたしが好きな国の一つです。しかし、よくよく考えてみますと、わたしがサウジに滞在していた1979年に発生した「メッカ事件」(2012年1月号 『幻におわった談志寄席』参照)が、いわゆるイスラム原理主義者(最近のテロは「原理主義者」というより「過激派」であり「狂信主義者」です)が起こした最初の事件だといわれていますが、原理主義者たちは、そのあとエジプト、さらにはチュニジアへ移ったといわれていました。現に1997年にはエジプト・ルクソールで日本人観光客が巻き込まれた事件が発生し、2002年にはチュニジア有数の観光地であるジェルバ島で自爆テロが発生するなど、治安は必ずしも安定していたわけではないのです。「ジャスミン革命」の成功は、同国の政治・社会情勢の安定を意味していたわけではなかったのでしょう。それにしても、観光資源に恵まれたチュニジアは、まさに観光立国と言える国で、わたしが訪れた当時は、空港では数名単位で日本からの観光客の姿を見るていど、わたしはこれからの観光の穴場として、会う人ごとにこの国のすばらしさを口にしたものでした。そのご団体ツアーも増えていたようですし、他人事ながら喜ばしいことと思っていましたが、まさか現在では地中海をめぐるクルーズで訪れていたなんてこと知りませんでした。こんどの事件でどうなってしまうのか、残念に思い、また懸念もしています。

(注記1)カルタゴ遺跡内の彫像写真のみ観光案内書に載っていたものを使用しました。
(注記2)TV画面では博物館の入口・エントランスホールは近代的になっていましたが、わたしの訪問後に増・改築されたものと思われます。

(2015年4月)

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