畏友西和夫君を悼む

『松江城再発見』など3冊

畏友西和夫君の訃報に接したのは学友T君からの電話でした。松の内が過ぎて間もなくのことで、聞いた瞬間は、信じられない思いでした。この年に受けた賀状には「身体の動くうちは各地へ出かけて行って、歴史と文化を大切にするお手伝いをしたい」、と書かれていましたので、例年のように今年も元気で、国内各地の街づくり、文化財の調査・保護といった活動で忙しいのだろうな、と思っていました。それだけに、信じられない思いだったわけです。賀状を読んだ時点ではまったく気づかなかったのですが、よくよく読んでみると、例年なら、前年に関係した仕事の列記と、新しい年の抱負について希望に満ちた文面で書かれていたものでした。それなのに、今年は、書き出しで「7月で77歳になります。ここまで来られたのは先輩、仲間たちなど大勢の方々のお陰ですので、とても有難いことと感謝しています」、と感謝の気持ちだけが述べられ、今年の抱負も「お手伝いをしたい」、と一歩引いた書き方をしています。君自身、なにか感じるところがあったのでしょうか。ご長男のお話では、年末までは忙しかったようで、元旦はふだんと変わらない様子だったのが、2日に胸の痛みを訴え、3日に亡くなられたそうです。お身内の方は、それこそ信じられない、断腸の思いだったに違いありません。葬儀は1月の半ば、無宗教葬で行われました。祭壇は数多くの供花で飾られていましたが、送り主は、わたしが今まで経験したことのないようなお名前が多く見受けられました。お身内、関係したいくつかの大学まではごく当たり前でしたが、その他は、鎌倉建長寺・浅草寺・護国寺・日光二荒山神社といった寺社関係、文化財保存や街づくりに関係した京都・長崎・小田原・松江・唐津といった都市や横浜三溪園などの施設の名、そして出版社が連なっていました。無宗教葬だというのに二、三僧形の方がおられたのはその関係だったのでしょう。いかにも君らしい葬儀でした。

博士論文『建築積算技術の研究』

正直に申して、わたしは学生時代の西君はよく知りませんでした。100人からの学生がいましたから、一般教養科目などはアイウエオ順に2クラスに分かれることが多く、必然的に顔を会わす機会が少なかったのです。それに君は卒業後に東京工大大学院に進学するほどの秀才であり、ボンクラ学生だったわたしにとっては気安く口をきける存在ではなかったのです。口をきくようになったのは卒業後です。日本建築史、とくに東大寺再興を成し遂げた重源上人の「大仏様式」に興味を持ち、素人なりに資料を集め、研究をしていたわたしにとっては、大学院で日本建築史を学ぶ君はまばゆいばかりの存在でしたが、たまにクラス会などで顔を合わせたおりに、専門分野の話しをするようになったのです。もっとも重源上人に関しては、ささやかなテーマで一文をまとめ、世田谷・芦花公園の団地に住んでいたころから懇意にさせていただいていた歴史家の網野善彦先生に目を通していただき、懇切丁寧なコメントの陰に、「これでは学術論文になりませんね」というきびしい指摘のあることを感じ、その道に進むことを半ばあきらめていました。ところが君は覚えていて、学会の機関誌『建築雑誌』昭和47年11月号に発表した小論『環境問題を考える―生態学によるアプローチ序説』の別刷を送ったことに対して、さっそく自分の博士論文『近世日本における建築積算技術の研究』を返礼として送ってくれたのです。同封されていた手紙には「(環境に関して)エコロジカルな視点からの論、雑誌に載ったときから大変興味深く拝見させていただいておりました。(中略)会社勤務の中で研究し、論としてまとめたことに感服させられた」と誉めていただき、さらに「重源の研究もお続けのことと思います。今後ますます研究が発展されますよう期待致して居ります」と書かれており、わたしは汗顔の至りでした。このとき君は、すでに日本工大で教鞭をとっていましたが、「機会を得て会いましょう」という言葉もむなしく、わたしは海外勤務のために日本を離れたために、長いこと無音で過ぎました。

『わが数寄なる桂離宮』

西君の大学院での専攻は日本建築史です。それも建築様式論ではなく、建築生産史、とくに建築積算技術の研究での第一人者です。そして、神奈川大教授となり学者として働き盛りともいえる40歳台半ばに「日本近世建築技術史に関する一連の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞しています。そんな難しい学問的なことはよくはわかりませんが、わたしは、君のすごいところはその著作力、言いかえれば文筆家としてのすばらしさにあると思っています。君にひさしぶりに会ったのは、もう記憶がうすれてしまったのですが、昭和60年頃のこと、クラス担任だった松井源吾先生の何かのお祝いの会だったと思います。君が「最近こんな本を上梓した」というので、さっそく購入したのが『わが数寄なる桂離宮』(彰国社刊)でした。一読して、わたしは舌をまきました。その洒落たタイトルもさることながら、その内容、というより、文章の構成とまとめ方がすばらしく斬新だったのです。江戸時代初期に創建された桂離宮は、建物と庭園とが一体となった数寄なる精神を伝えるものとして今もなお高く評価され、愛されています。その桂の建築と庭園の美がどこから生まれたのかを建築史家としての君は、創建に係わった人、背景にあった時代、技術、さらに思想について、当時の七人の賢人を通して語らせるという手法で桂離宮を論じているのです。時代はまさに天下分け目の関ヶ原の戦のころ、そこに公家や文化人が絡み合うのですから登場人物には不足がなく、桂誕生のかげに隠れた神秘性、まさにミステリー小説を思わせるほどに君の筆致は冴えにさえているのです。並みの小説など、足元にもおよばぬ面白さです。この本の出版から20年ほど経ってから、松井今朝子さんが『吉原手引草』で直木賞を受賞しましたが、選考委員が絶賛したというこの作品、この種の受賞作品はめったに読まないわたしも面白く拝読いたしました。姿を消した売れっ子花魁(おいらん)について、引手茶屋の内儀(おかみ)から始まり、店の番頭、やり手婆、幇間、船宿の船頭、女衒(ぜげん)など多くの人たちを登場させ、語らせることで花魁失踪の謎に迫り、同時に吉原そのものをたくみに描き出したミステリーです。ひょっとすると、松井さんは西君の本を参考にしたのでは、と思わせるほど手法は似ています。とは申せ、テーマはまるで違いますし、参考にしたからといって彼女の作品の価値が何ら落ちるものではありません。ただ、そう思いたくなるほど、君の『わが数寄なる桂離宮』はすばらしく、もし入手可能なら、皆さんにお読みすることをおすすめいたします。

『二畳で豊かに住む』

『わが数寄なる桂離宮』に字数を取りすぎたかもしれません。いったん著作からはなれて、君とわたしとの今までの係わりについて、2,3ふれてみます。その第一は、網野先生のことです。何かの折に、先生に君の名前を出したところ、「西さんには神奈川大の常民文化研究所でたいへんお世話になっていますし、奥能登の原(げん)時国家の研究でご一緒しています」と語り、君とわたしとが大学同期だということに、奇遇ですねとおどろかれていました。君も、たまたま会った際、「網野先生と懇意になさっているんですって」、とびっくりしたものです。1980年ころ先生は名古屋大学から、常民文化研究所を引き取ることになった神奈川大へ移られましたが、常民研を引き取るにあたって、君は学内の招致委員だったようです。第二は、皆さんご存知のようにNHK大河ドラマには、よく本格的なセットが組まれます。中には、それを長期にわたって博物館的に使用することもあるようです。そうした場合、勝手にセットを組むわけにいかず、正式な「建築確認申請」が必要となるわけで、わたしが所属していた会社が、「奈良・海のシルクロード博」でNHKと組んだ関係から、1級建築士事務所設立に協力していました。たまたま君がドラマの時代考証を担当したとき、わたしは挨拶のため横浜・六角橋の大学構内の薄暗い研究室を訪ねたことがありました。物静かな感じの君が、分厚い図書や史資料類に囲まれて机に向かう姿はいかにも君らしく、わたしは、つい羨望の眼で見つめたものでした。最後は3年前の冬のこと、わたしは君の仲介で、『泉清一著作集』を常民文化研究所に引き取ってもらうため神奈川大を訪ねました(2012年3月号『書籍受難時代』参照)。大学キャンパス内はすっかり更新されていて、すでに名誉教授になっていた君は門のところで待っていて、研究所へ案内してくれました。本の寄贈に対しては佐野所長がわざわざ礼を申し述べられ、後日、丁重な受領書を送付くださいました。自分の蔵書が少しでも活かされるならば、とうれしく思ったものでした。
さいごにまた君の著作のことです。門外漢のわたしが言うのもおこがましいのですが、君の著作で際立っていることは、長年の研究や発掘作業、あるいは実地調査など専門の建築史がらみで、その内容をかみくだくようにわかりやすく書かれた一般向けの本を、数多く出版していることだと思います。その数はおそらく10数冊を超えるのではないでしょうか。いちいちその名を挙げることは差し控えますが、そのうちわたし自身が読んだのは、『海・建築・日本人』(NHKブックス)、『三溪園の建築と原三渓』(有隣堂)、『二畳で豊かに住む』(集英社新書)などです。その他、自分は持ってはいませんが、タイトルを見ただけでも面白そうなのは『図解 古建築』(彰国社)、『フィクションとしての絵画』(共著 ぺりかん社 小泉八雲賞受賞)、『京都で「建築」に出会う』(彰国社)など、ひじょうに多彩です。その中で、ぜひ皆さんにおすすめしたいのは『二畳で豊かに住む』です。ふだんはわたしの言うことに耳をかさない連れ合いが、この本だけは「面白い」と一気に読んでくれました。君の最後の著『松江城再発見』(松江市ふるさと文庫)は、わたしの近作『陸軍員外学生』を呈したことへの応えとして送ってくれた書です。付けられた手紙には、「内容は結構重いのに、とても読みやすく、さすがと思いながら拝読させていただきました。(中略)それにしても実に詳細に調査を重ね、資史料を分析し、事実を掘り起こした本書は本当に貴重だと思います」、と書かれていました。ジャンルの異なる分野であり、君からみればおよそ興味をそそることのない内容だったと思いますが、いつもと変わらぬやさしい心遣いをうれしく思いました。その西君も、いまはもういません。

(2015年3月)

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