神田神保町

御茶ノ水橋から下の神田川をのぞきますと、東京にもこんな谷川みたいな川があったのか、と驚かされます。家康が江戸へ入ったころ、この辺りはまだ神田山でした。山は切り崩されて日比谷の入江が埋め立てられ、家光のころには、さらに東西に開削されて神田川が通じ、北の本郷台と南の駿河台とに分断されました。北側には幕府直轄の学問所、いわば江戸時代の大学ともいうべき昌平坂学問所(昌平黌)ができ、南側の駿河台には江戸城北の備えのために数多くの旗本屋敷が並びました。旗本・御家人といった多くの幕臣は昌平橋や水道橋を渡って学問所へ通ったことでしょう。幕末になると水道橋の南詰には幕府講武所ができ、江戸城竹橋門近くには洋書調所(洋学の研究機関)が開設されるなど、この界隈は江戸時代から学徒の集まるところでした。その伝統は明治になってからも引き継がれました。学問所や洋書調所はいくどかの変遷を経て東京大学になり、神田界隈には数多くの私立学校が創設され、それが今日みる私立大学となって現在の学生街が形成されています。神田神保町は駿河台下に位置しています。神保という旗本の屋敷があったのが名の由来だとされていますが、たしかに江戸の古地図に、ちょうど現在のすずらん通りに面した辺りにその名は見出されます。学生街と本屋、神田神保町に本屋が軒を連ねるようになったことには必然性を感じます。
だれ言うでもなく、学生街に支えられた神田神保町は世界一の古書街だといわれています。真偽のほどは定かではありませんが、わたしも世界一だと思っています。東京が焼け野原になった東京大空襲で、ふしぎなことに、この一角だけは焼け残っています。作家司馬遼太郎は『本所深川散歩神田界隈』(街道をゆく36)の中で、こんなことを書いています。「米軍による日本本土への爆撃がはじまったとき、エリセーエフ教授(漱石門下だった白系ロシア人で東京帝大文科に学び、欧米における日本学を確立。ライシャワー元駐日大使はハーバード大学での教え子だった)はマックァーサー(ママ)将軍に進言して、神田神保町を目標から除外するよう忠告したといわれているのである。むろん証拠はない」。わたしは、日本を相手に戦ったアメリカのゆとりを考えれば、十分あり得ることではなかったか、とこの説を信じています。
神田神保町へはじめて行ったのは、小学校5年だったか、あるいは6年生になってからだったか、当時無二の友人だったKと一緒でした。ラジオの部品とか真空管などを売る「ジャンク屋」と呼ばれた露天商が靖国通りにびっしりと店を出していたようですが(この「ジャンク屋」がのちに進駐軍命令で秋葉原の方へ移って行き、その後の秋葉原電気街となる)、ラジオの組み立てといった方面にまったく興味のなかったわたしはその記憶がなく、2,3覘いた古本屋で、店内いっぱいにひろがった天井にまでとどく書棚に、書物がぎっしりと詰まっていたことに圧倒されたことだけは鮮明に覚えております。まだ戦後間もないころのこと、食べること、住むことに精いっぱいで、本になど目も向けられなかった時代でしたから、入口にまでうず高く積まれた古本・古雑誌の類は、おそらく二束三文の値で売られていたのでしょう。わたしが書物、というより自分の懐で入手できる古本に興味を持つようになったのは、そのころからのことです。
生地品川にも、北品川から大井町にかけて数軒の古本屋があり、小学生のころからよく通ったものでした。正式なタイトルは忘れてしまいましたが、「明治偉人伝(元勲伝だったか?)」的な書物数冊を無理して購入したまではよかったのですが、どうしても小遣いが足りなくなり、別の店で引き取ってもらったことがありました。「こういう本はアメさんがうるさくて、今どき売れないよ。それに全部そろっていないし……」、そういわれて安く買いたたかれた本屋で、翌日には3倍ほどの値がついていたのにはびっくりしました。それ以来、「本は絶対に処分しない」をわたしのモットーにしています。中学、高校、そして浪人中と、古本屋通いはつづきました。大体が品川・大井町界隈でしたが、浪人中の一時期、御茶の水の湯島聖堂(前述の学問所跡)とか文化学院などに通ったことがあり、また神保町に友人がいたこともあって、憂さ晴らしを兼ねて古本屋へはよく顔を出したものです。面白そうだということで、豊田武の『概説日本歴史』(上下)、津田栄の『無機化学』といった、どちらかといえば大学の一般教養で使われるような本を買っては積ん読していましたので、およそ受験勉強にはなりませんでした。そのころ買った本に坂崎担の『ドラクロア―芸術と生活』(アルス刊)があります。紙質がわるく、美術書とはいいがたい本でしたが、たまに購入した悠久堂の前を通り、当時まだ若かった3代目店主の姿を見ると、懐かしさを覚えます。

一つの目的をもって専門書店をさがすようになったのは大学へ入ってから、好きだった日本建築史の研究、具体的には、平重衡によって炎上された東大寺を再興した俊乗坊重源の研究をしようか、と考えたころからです。そのための種本の一つ吉川弘文館の『俊乗坊重源史料集成』はすでに所有していたのですが、もう一冊の『重源上人の研究』(南都仏教研究会刊)は稀覯(きこう)本に近く、それを何とか入手したいと、神保町界隈の本屋を片っ端から歩き、何回目かでようやく東洋堂書店で見つけ出しました。それは嬉しかったですね。なんだかその本の方で、「探し出してくれること待っていましたよ」と名乗り出てくれたようでした。古書店街の厖大な書籍の中からたった1冊の本を見つけ出す奇跡みたいなことも、こちらが必死になれば案外思いが通じるものなのですね。先の悠久堂の創業が大正4年に対し、東洋堂も大正13年という老舗で、宗教関係の古典籍を得手としたお店です。現在と異なり、当時は古書店街の案内書などありませんでしたから、結果として、求めていた専門書店に偶然ぶつかるという幸運に恵まれたわけです。
社会人になってからも神保町中を歩いたことがありました。スマトラ島パレンバン(先の大戦時、石油資源獲得のために陸軍の落下傘部隊が降下し、そのあと多くの民間人が派遣された)のことを書物にしようと思い立ったときです。すでに『パレンバンの石油部隊』(正続)という立派な種本が刊行されていたのですが、そこに書かれた記述を紡いで一冊の本にまとめるには、いわゆる裏を取るべき資料が必要だったのです。一軒一軒歩いて行くうちに出会ったのが、さほど大きくない文華堂書店でした。神保町で唯一の軍事専門の古本屋で、店内にはそれこそ立錐の余地もないほどぎっしりと、軍事関連の書物が詰め込まれていました。三島由紀夫もここで資料を集めたそうですが、作家が立ち寄ることの多い店で、わたしも関係する本をずいぶん購入しました。昭和に入ってから創業した店で、2代目店主と顔見知りになりましたが、まさにその道のプロでした。購入した中の1冊に、謄写版(いわゆるガリ版)刷りの粗末な本『インドネシア方面部隊略歴』(厚生省援護局刊)があります。これは、終戦時パレンバンにどのような部隊が駐屯していたのかをわずか2行ほど書く上で必要だったのですが、店内で書き写すわけにもいかず購入したのです。大枚1万2千円でした。買うと決めるまでずいぶん躊躇し、苦慮しました。一生懸命値切り交渉をした挙句、やけっぱちになって「こんな本買う人はいないでしょうに」と捨てゼリフしたところ、「あなたがいるではありませんか」と即答するのです。その巧妙さ、洒落っぷりには降参でした。そのご何年かして、『技術中将の日米戦争』を書く際も、泰緬鉄道(例の映画『戦場にかける橋』の舞台となった)の資料がほしいという希望に対して、「はいよつ!」とばかり本の山をもぞもぞ探していたかと思ううちに、3冊ほど取り出してきたものです。驚きました
買いたい本にうまく出会う反面、躊躇して買わなかったために二度とお目にかかれなくなったこともあります。一度は、明治の創業で古本店の最大手一誠堂書店で、正式名は忘れましたが三浦一族を扱った本でした。わが家の先祖が三浦一族の支流のうちの傍流ていどの関係があることから、是非にと思いつつ次の機会にしたところ、もう姿はありませんでした。もう一度は、白山通りのJR水道橋駅に近かった本屋でしたが、本棚の上の方に、なんと九条兼実の『玉葉』が出ていたのです。それも、わたしの手に届く程度の値段だったのです。とはいってもやはり躊躇して、いったんは見送り、つぎに行ったときにはもうありませんでした。兼実というのは九条家の始祖で太政大臣にまでなった人物で、先に述べた重源の檀那筋ともいうべき貴族です。その日記は貴重な1次資料になる書だっただけに、いまでも悔しい思いでおります。もう何年前になるのか、ちょうど雨後の筍のように大学が出来たころで、文部省通達によって大学の図書館はどんな本でもいいから数万冊以上の書物をそろえ、設置される学科によってそのうち専門書は何冊という規定があったらしく、大学の関係者は古本屋で、それこそ「ここからここまでの棚の本すべて」、といった買い物をしたようです。もしかしたら、『玉葉』もわけのわからぬまま、その中に混じっていたのかもしれません。だとしたら、なおさら悔しいですね。作家司馬遼太郎なども、1冊の本を完成するために、それこそ本屋の棚一つ分ぐらいの同一ジャンルの書物を購入したといわれています。彼ほどの大作家ともなれば、然るべき本屋を通し、内容を吟味した上で購入したに違いありません。そんな本屋の一つが、明治の初めに創業した老舗中の老舗高山本店で、この本屋のことを、彼は『本所深川散歩神田界隈』(前述)で紹介しています。

わたしの古くからの友人に、「神保町の生き字引」といわれていた神田神保町の老舗カバン店の3代目がいます。戦後の「ジャンク屋」のことは、じつは彼から聞いた話です。神保町界隈の土地が都市開発のために大規模に地上げされたとき、町の世話役として書店主たちの意見をうまく取りまとめ、何とか開発の嵐から130年の歴史ある古書店街を守った人物です。たいへんな功績者だと思っています。たんに生き字引だというだけではなく、神保町界隈に関する郷土史家であり、また神保町界隈のみならず、千代田区あるいは東京の古地図の収集家でもあって、資料提供を求めて大学・役所やTV局、ときには図書館からも声がかかるほどです。そんなことで店に腰を据えていることは少なく、商売はほとんど4代目の息子に任せていたのですが、たまに姿を見たときなど、「今日は研究社の大英和辞典が所望だ」といえば、「う〜ん、たしかあそこの店にきれいなのが出ていたな」と案内してくれたので、わたしにとって貴重な存在だったのです。今は病に臥しており、会えなくなってしまったのが残念です。
わたしも齢(よわい)古希をとうに過ぎ、本屋を見て歩くことが億劫になったことは事実です。むろん好きな本ですから、見たりすること自体がいやだというのではありません。ただ、わたしは、本は手元においておきたいという性分から、図書館での読書、あるいは借り出して読むことができないのです。したがって、本屋に入ると、うっかり手が伸びてしまい、またまた本が増えてしまっては困るので自重しているのです。昨年来、いくら読みたい本でも、新たな購入は基本的に避け、自分の書棚に死蔵されている本、あるいは一度は目を通したけれど内容を忘れてしまった本の中から、面白そうなものを選んでぼちぼち読んでいるのが実情です。そんなわけで、最近は懐かしの神田神保町へもなかなか足が向きません。映画『森崎書店の日々』は、映画として面白そうだということで入ったのではなく、多少でもスクリーンから神田神保町をしのぶ縁(よすが)を求めて観に行ったのです。

(2011年 4月)

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