わたしと世界遺産(3)
―ヨーロッパ(2)・北アメリカ編―

ローマ・コロッセオ

世界遺産一覧 登録年度
イタリア:  
21)ローマ歴史地区 1980年
22)フィレンツェ歴史地区 1982年
23)ヴァティカン市国 1984年
24)ヴェネツィアとその潟 1987年
25)サン・ジミニャーノ歴史地区 1990年
26)シエーナ歴史地区 1995年
27)ナポリ歴史地区 1995年
28)ポンペイ遺跡 1997年
29)ヴェローナ市街 2000年
チェコ:  
30)プラハ歴史地区 1992年
31)チェスキー・クルムロフ歴史地区 1992年
32)クトーナ・ホラ 聖バルバラ教会 1992年
ハンガリー:  
33)ブタペスト・ドナウ河岸 1986年
アメリカ:  
34)グランド・キャニオン国立公園 1979年
35)ヨセミテ国立公園 1984年
注記)アメリカ国立公園は自然遺産を示す  

ポンペイの遺跡

ローマ歴史地区:
ヴァティカン市国:ローマへ行ったのは2003年秋のこと、阪急交通社の「オリエント急行と五つ星ホテルに泊まるゆったりイタリアの旅」ツアーに妻と参加しました。「ゆったり」という言葉に魅かれたのか、参加者は高年齢のペアが多かったようです。世界遺産中の遺産の宝庫ともいえるフォロ・ロマーノは、バスで通るていどでしたが、コロッセオではゆっくりできました。闘技場はその3年前にエル・ジェムで観ていますが、エル・ジェムでは風雪に耐えてきた孤高な感じを受けたのに対し、コロッセオはなんと言ってもローマ第一の闘技場、すぐ近くにはコロッセオにかしずくように建つコンスタンティヌスの凱旋門もあり、気品さと優雅さを備えたようでした。
ナポリ歴史地区:
ポンペイ遺跡:日本人にとっては、ナポリといえばやはり民謡です。世界遺産である歴史地区はバスで素通りしただけで、ベスビオ山を背景にした風光明媚なナポリ湾岸で眺望を堪能し、その後の行く先は、ナポリの郊外ともいえるポンペイの遺跡でした。ポンペイは西暦になって間もなくのこと、ベスピオ火山の大噴火による火山灰によって一瞬にして埋もれた町で、その後、遺物が見つかり、さらに19世紀になって発掘が始まったということ、ずいぶん昔に教科書で学んだか、子供向けの本で読んだものでした。町民は生きたまま火山灰の下に埋もれてしまったのだと知って、子供心にも怖ろしく感じたものの、しょせんは遠い西洋の昔話の域を出ませんでした。それでも、いざその町に行けるのだと思ったときは、ローマからのバスの中で興奮してくる気持ちを押えられなかったものでした。ポンペイの遺跡にいる間は、まさに2000年前にタイムスリップそのものでした。石膏化されたとはいえその瞬間の姿そのままの犠牲者は哀れを誘いますし、壁画やブロンズ像のもつ芸術性の高さは感動を呼び覚まします。何よりも感じたのは、人々の暮らしの営みというのは、いまも2000年前もその基本の姿はそんなには変わっていないのだな、ということでした。町にはパン屋や洗濯屋、居酒屋や靴屋もある。商店街や食品市場、ソース工場もあれば、劇場や体育館、それに共同浴場や宿屋や春をひさぐ場所まであるのには驚かされました。

サンジミニャーノの塔

フィレンツェ歴史地区:
サン・ジミニャーノ歴史地区:フィレンツェは国をも動かしたといわれるメディチ家の財力に支えられたルネサンス文化の中心地。英語名フローレンス(花の都)の名にふさわしく、街全体が美術館と称してもいいようなところでした。大聖堂、ヴェッキオ宮殿、ウフィッツィ美術館などなど、街を歩くだけでボッティチェッリ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロなどの巨匠に声をかけられるようで、その香りにむせてしまうような思いでした。その点では、トスカーナの丘に囲まれた塔の町サン・ジミニャーノは対照的で、しっとりした感じの街中に居るだけで中世のまま時が止まったかのような思いになったものでした。同盟国であったはずのナチスドイツが町に数多く建つ塔を軍の防衛拠点にしようとしたのに対し、町の老人たちがピケを張って塔を守る、といったストーリーの映画を観たことがありましたが、よくぞ守ってくれたの思いをつよくしたものです。

シエーナ歴史地区の競馬場

シエーナ歴史地区:
ヴェネツィアとその潟:フィレンツェの五つ星ホテル、ヴィラ・メディチに2泊し、フィレンツェ市内、近郊のサン・ジミニャーノ、市中の広場で催される競馬で知られるシエーナを観光し、三日目の夕方にフィレンツェ中央駅から、「オリエント急行復活20周年記念号乗車券」であこがれていた同急行に乗り込み、ヴェネツィアに向かいました。わずか5時間あまりの短い乗車時間でしたが、陶酔した気分にひたりました。「イタリアのベニス(こちらの表現のほうがなじみます)へ行ってみたい」、というのが妻の長年の希望でしたから、それが実現したことで大喜びでした。わたしも自身も、ベニス滞在中、自分の周囲の景色と、それまでに何度もくり返し観た映画『旅情』の中の忘れ得ぬシーンひとつひとつとの重なりに、感激しました。すぐ横をキャサリン・ヘップバーンが歩いているような幻想にとらわれたものでした。

オリエント急行サロンにて

ヴェローナ市街:ヴェネツィアには2泊しましたが、実質は1日の滞在にすぎず、3日目の朝にはヴェローナ経由で、ミラノに入りました。ヴェローナはローマ時代の遺跡がのこる古都ですが、それよりかロミオとジュリエットの舞台となった町ということで世界中から人が集まるようです。それにしても、最後の町ミラノの大聖堂をはじめ、イタリアという国、どこへ行っても「ドゥオーモ(イタリア語で大聖堂のこと)、ドーモ」の連続でした。ミラノ市中の世界遺産としてはサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に付設されたドメニコ修道院のダ・ヴィンチの「最後の晩餐」のみ、この絵あまりにも有名なために事前予約がないと入館できないとのこと。結局、日本で予約してきたグループ、コモ湖からスイス国境を越えたマジョーレ湖へのバスツアー組、そしてミラノ残留組と三つに分れ、妻とわたしは残留組でミラノのファッションを楽しみ、その夜の便で帰国の途につきました。6年前のスペイン同様、世界遺産を十分に楽しんだ旅でした。

プラハ歴史地区

プラハ歴史地区:
クトーナ・ホラ聖バルバラ教会:2006年6月のこと、ふだんから家族ぐるみで付き合っている3家族で、珠玉の中欧3国(チェコ・ハンガリー・スロバキア)を旅することになりました。同じメンバーとはそれ以前に、砂漠のまほろばデュバイ(ドバイ)を旅したこともある気のおけない仲間で、訪れた国々もよかったせいか、楽しい海外の旅でした。プラハといえば、ボヘミア地方の中心地、14世紀には神聖ローマ帝国の首都にもなったところです。ヨーロッパ最古・最大の名家ハプスブルグ家の遺産ともいうべき「黄金のプラハ」の名にふさわしく、ヴルタヴァ川(ドイツ名モルダウ)西岸にそびえる広大なプラハ城をはじめ、聖ヴィトー大聖堂、旧市庁舎、カレル橋など、おびただしい数の世界遺産に埋めつくされています。そして何よりも、町全体がじつに清潔感にあふれているのです。この町、愛称としていろいろな名で呼ばれていますが、わたしは「建築の博物館」と称すのがもっとも適しているな、と思っています。ロマネスク様式にはじまり、ゴシック、ルネッサンス、バロック、ロココ、アール・ヌボーと、さながらかつて学んだ西洋建築史を復習しているような気分になったものです。さらに陶酔させてくれたのは、旅の提唱者である友人の現地知人の好意で、同国の国民的作曲家スメタナの生誕地リトミシルのスメタナ記念オペラ劇場で催されていたオペラの鑑賞(じつは、内容をよくは理解できませんでしたが)でした。また、「黄金のプラハ」を支えた銀山の町、プラハの西60キロほどのところにあるクトーナ・ホラへも行ってみました。静かなたたずまいの町で、そこの聖バルバラ教会は後期ゴシック様式の代表的な建築として、建築史上でも知られた建物です。

チェスキー・クルムホフ歴史地区

チェスキー・クルムホフ歴史地区:
ブタペスト・ドナウ河岸:中欧3国をまわる旅では、チェコのプラハから空路でハンガリーへ入国し、スロバキアを経由してプラハへもどるという計画でした。プラハから出国する前、短時間でしたが、チェコの西南端、オーストリア国境に近い町チェスキー・クルムホフへ立ち寄りました。蛇行して流れるヴルタヴァの清流を取り囲む待並みは、16世紀のルネッサンス都市の特徴が色濃く残っており、プラハで感じた清潔感に加えて、世界で最も美しい街の一つなのではないでしょうか。街中にたたずむだけで、しっとりとした雰囲気が伝わり、何日も滞在したい思いに駆られたものでした。ハンガリーのブダぺストもすばらしい街でした。世界遺産となっているドナウ河岸に迫ってくる建物群の迫力は息づまる思いで、大学・会社で後輩だったハンガリー人からかつて聞いたことのある熱のこもった説明を思い出し、「なるほど!なるほど!」、とあらためて合点(がてん)がいったものでした。ドナウ右岸(ブダ側)の高台のレストランでジプシー音楽を聴き、ハンガリアン舞曲を観ながら見た夜景も情緒的で、旅情を感じさせるものがありました。ブダペストに2泊した翌日は隣国スロバキアの首都ブラチスラバまで、水中翼船(ハイドロフォイル)でドナウ川を遡る4時間の船旅でした。名曲『ダニューブ川(ドナウの英語名)のさざなみ』から思い描いたイメージとはだいぶ異なりましたが、四囲を海で囲まれた日本人にとって、川船で隣国へ入国するというのは、ものすごく斬新に思えたものです。ちなみに、ドイツに端を発し、中欧諸国、スラブ諸国を流れて黒海へそそぐ大河ドナウはドイツ語名で、スロバキアではドゥナイ、ハンガリーではドゥナ、ルーマニア語ではドゥナリアですから、いったいどうなっちゃうのという気がします。やはりユーラシア大陸、国と国とが互いに接しているのですね。ブラチスラバではドナウに浮かぶ船上ホテルの船室で『ダニューブ川のさざなみ』にゆられた心地よさで夢見るいとまもなく、翌日は国際列車でプラハへもどりました。空路・川船・列車と、旅行社の企画するツアーでは味合えない手づくりの旅でした。

ヨセミテ国立公園

グランド・キャニオン国立公園:
ヨセミテ国立公園:トランジットを含めれば、アメリカへの入国もかなりの数になります。一時、ロサンジェルス近郊のパサデナに業務で延1ヶ月近く滞在しましたが、楽しみといえば、休日を利用してロスや市内の美術館・映画館をまわるていどのことでした。アメリカ国内の世界遺産に初めて接したのは1988年、神戸の病院改修のために病院の先生方と病院見学ツアーに参加した際に、ロスから遊覧飛行機でグランド・キャニオンを訪ねました。日本では見られない雄大な自然景観には圧倒されました。その10年ほど前に南米ペルのマチュピチュで受けた感動以来の、息をのむような感動でした。コロラド川の侵食によって形成されたようですが、その侵食は4000万年前に始まり、現在の姿は200万年前に形成され、断崖の平均高さが1200mという雄大な景観は筆舌につくしがたいものがありました。その後、娘がサンフランシスコの大学で学ぶことになり、在学中に一度はということで2004年に訪問した際に、ヨセミテ国立公園へ行きました。たまたま空いているバスがなかったので、オンボロで小さなバスでの3時間半の旅はつらいものがありました。しかしヨセミテの底抜けに明るい壮大な景観は旅の疲れを忘れさせるに十分でした。グランド・キャニオンとヨセミテとはまったく異なる景観で、わたし流に表現すれば前者は「上から見下ろす雄大な景観」、後者は「下から見上げる壮大な景観」とでもいうべきでしょうか。甲乙つけがたいものがありましたが、「息をのむ」といった感動は、ヨセミテからは受けませんでした。その差が、世界遺産の認定がグランド・キャニオンより5年遅れた理由のような気がしますが、しかし、わたしの場合はグランド・キャニオンを先に見たからにすぎなかったのかもしれません。順序が逆でしたら、ヨセミテの景観に息をのんだかも知れません。
(注記)写真の一部は公刊の出版物・絵葉書から引用しました。
また、シエーナの写真は2003年8月16日に朝日新聞に掲載されたものです。

  

(2015年12月)

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