役者の顔

鬼平絵図

わたしは、わが家では「テレビっ子」といわれているほどテレビ好きです。ニュースや報道番組ものが主ですが、ドラマでは時代劇、刑事もの、とくに「鬼平犯科帳」が大好きで、いまでも欠かさずと言ってよいほど観ています。むろんドラマとして好きなわけですが、と同時にここ数年来、江戸探訪を主宰している立場から、江戸の古地図とドラマに出てくる地名とを結び付ける楽しみがある点、そして鬼平が実在の人物だということ、さらには鬼平を演じる役者に興味があるためです。

平蔵の旧居の碑

テレビ番組としての「鬼平犯科帳」は、池波正太郎原作のドラマですが、主人公は皆さまもご存知のように、長谷川平蔵という実在の人物です。ということで、「役者の顔」という主題から離れて、はじめに平蔵という人物像、そして彼が演じる役である「火付盗賊改方長官」という役職について説明することをお許しください。まず、長官だということで、平蔵はさぞかし高禄の旗本のように思われるでしょうが、じつはわずか400石、小普請(こぶしん)の中でもかなり下の方の旗本ではあったものの、元々が書院番にはつける家柄だったようです。旗本といえば将軍へのお目見えが可能の身分だとはいえ、平蔵の将軍への「初御目見」が23歳の時と遅く(通常は10歳台)、それ以降はたぶん将軍とのお目見えはなかったのではないでしょうか。ただ、平蔵の父宣雄ができた人物で真面目に勤務していたせいか、京都西町奉行に抜擢されたため、父の死後、その跡を継ぐ形で、江戸へもどったのちに30歳ほどで書院番として「番入り」(武官として役が付くことで、たいへん狭き門であった)し、次いで40歳前後で徒頭(かちがしら)、御先手組弓頭などになり、火盗改の長官に就いたのは42歳のときでした。旗本として大名にまで上りつめた有名な大岡越前は、書院番になったのが27歳であまり違いはないのですが、徒頭に29歳でなっており、40歳台には奉行職に就いているので、大きな隔たりがあったことが分かります。北の丸公園にある国立公文書館には幕臣たちの実像を示す面白い古文書がたくさん残されていますが、湯島の昌平坂学問所(昌平黌)での各種吟味(試験のこと)結果を記した『多聞櫓文書』などでも、彼らや遠山の金さんのようなテレビの主役は総じて成績優秀者だったようです。その他にも『流芳録』といった幕府の名だたる旗本・御家人などの言行や逸話などを記した文献集にも、平蔵の名はしっかりと残されているようですから、数多い旗本の中でも逸材だったのでしょう。大岡越前は1700石の旗本の四男という冷や飯食いだったのが、2000石ちかい旗本の養子になったことで出世の道が開けたのでしょうが、400石という小禄だった平蔵は、さすがにこの点では勝てなかったに違いありません。ところで、ドラマでは、鬼と呼ばれた平蔵、結構な屋敷に住み、美しく聡明そうな奥方がよく出てきて職住一体の感がありますが、そのあたりのことはどうだったのでしょうか。じつは、意外に思われるかもしれませんが、火付盗賊改方というのは江戸幕府が設けた役方(役所勤務的な文官組で目付とか奉行など)、番方(書院番や御先手組といった武官組)に組み込まれた正規の役職ではないのです。よくご存知のように、江戸の治安は南北の町奉行所が担っていましたが、定員数がきびしく定められていた奉行所だけでは手がまわらないため、幕府が発足して間もなく、補助的な機関として設けられた組織なのです。したがって長官はじめ要員は、番方の御先手弓組や鉄砲組の中から選ばれたものが兼任(加役と称した)の形で勤務させられたわけです。そのために役宅も幕府から正規に拝領されることはなく、自分の屋敷を役宅として使用していたようです。むろん400石ていどの小禄で火盗改のような大所帯を賄うことはできません。そこは幕府もうまく考えており、平蔵がつとめていた御先手組弓頭は役高1500石格に加えて役料が出ましたので、まあ結構な収入はあったのです。さらに役宅についても、平蔵の場合、護国寺近くの目白台にあった本宅というのは、どうやら御先手組弓頭の役宅だったもののようでしたし、清水御門外にあった御用屋敷(雉子橋御門横?)も役宅として使うことができたようで、幕府のお偉方も存外柔軟性があったようです。

長谷川家菩提寺戒行寺にある平蔵碑

テレビドラマ「鬼平犯科帳」シリーズでの平蔵役は八代目松本幸四郎に始まり、丹波哲郎、萬屋錦之介、そして1989年からは2代目中村吉右衛門と、いずれも日本を代表する名優が演じつづけております。スぺシャルと称した単発ものでは、ほかにもいたかもしれません。幸四郎、吉右衛門と親子2代にわたって同じ役をこなしていたということは稀有なことで、それだけこの作品、長期にわたって放映されたことを意味しているのだと思います。さてそこで本稿の主題である役者の顔のことですが、ほぼ同じストーリーで同じ役柄を演じていながら、わたしには4人が4人、まったく異なった人物、あるいは異なった人柄に思えてしょうがないのです。むろん監督の違い、演出の違いもあったかもしれませんが、いやそれ以上にわたしの好みがあるのかも知れませんが、どうしても鬼平にはふさわしくない顔、あるいは風格、演技力の差といったものがあるように思えるのです。わたしの勝手な評ですが、松本幸四郎は歌舞伎役者としての風格がつよすぎて平蔵ではないように思えます。丹波哲郎は気っ風がつよすぎて、平蔵というより、テレビドラマ「三匹の侍」のめっぽう強い浪人者・柴左近のイメージと重なってしまいます。萬屋錦之介にいたっては、もうお殿様の顔付きです。むろん400石でも旗本ですから、世間一般の呼称として平蔵はりっぱな「殿様」ですが、錦之介の場合はそんな小禄な殿ではなく、何千石という高禄の身分の高い旗本、あるいは大名のような立場の殿です。立派過ぎるのです。それと、剣の立ち回りでも、悪者・やくざ相手に正眼の構えなのです。正直なところ、しっくりいきません。その点、吉右衛門は平蔵そのものです。わかい頃は本所入江町住まいで、「本所の銕」といえばやくざ・ゴロツキも逃げ出そうというほどに暴れ回ったようですから、多少はくずれたところがあってもおかしくないし(東山の金さんも同じです)、それだけに市井に生きる人たちの人情の機微を知り、善も悪をも飲み込む度量の深さ、さらには奥方(小禄ゆえに周りに女中たちもはべらせずに登場)に対するくだけた優しさなどなど……、平蔵そのままだと言えます。彼らを観ていますと、役者にとって演技はむろんですが、やはり顔が大切なのだ、とつくづくそんな気が致します。たとえば、顔を見れば「ああ、彼か」、というほどによく知られた個性的な俳優がいます。舞台、例えばシェークスピアの作品などを演じさせればうってつけだとは思うのですが、テレビドラマなどに出演しますと、どんな役を演じても同じ顔にしか見えないのです。役者としては、これはたいへん不利なことと言えるでしょう。時代劇ではなく、現代劇でも同様なことが言えると思います。わたしの好きな刑事ものとして、西村京太郎のドラマ「十津川警部」シリーズがあります。主役の警部役は、昔は三橋達也(わたしは観た覚えがありません)、高橋英樹、渡瀬恒彦といったいい役者が演じております。わたしが気にしているのは、脇といっても主役に準ずるほど重要な役である亀井刑事(通称亀さん)の役です。高橋警部には愛川欽也がつき、渡瀬には伊東四朗がついています。警部を支え、部下を取り仕切る重々しい役を、二人はいぶし銀のような渋い好演技で警部を支えています。それが、最近、どちらかといえば三枚目の役者が演じるようになってしまい、亀さんのイメージがまるで壊れてしまったように思えます。役者をけなす意図はありませんが、選んだ方も選ばれた方も、その役柄に応じた顔をし、演技しなければいけない、とわたしは思うのです。
昨年暮に、吉右衛門演じる「鬼平犯科帳スぺシャル 浅草・御厩(おうま)河岸」が放映されました。久しぶりの新作でした。吉右衛門もすでに71歳になったようで、50歳台で亡くなった平蔵を演じるには年老いた気がしますが、逆に枯れた味合いの中で時たま見せる鋭い眼光、平蔵らしさを出した好演で、随所で江戸の市井の人情がじんと伝わってきました。この作品で149作目だそうで、この夏に150作目を撮って終幕にするようです。新作のなくなること、淋しいと言えば淋しいのですが、テレビ番組はまったく消えてしまうわけでもなく、まだいかようにも旧作を観ることができますので悲しむことはないでしょう。最後に、蛇足になるかもしれませんが、平蔵の初御目見は10代将軍家治のとき、火付盗賊改方就任は11代家斉になってからでした。それから逝去するまで、平蔵の将軍への御目見えはなかったと思われます。とはいえ、平蔵の噂は老中首座の松平定信、あるいは若年寄京極備前守などを通じて耳にはしているはずで、平蔵の病が重くなったとき、病床に将軍家に伝わる高貴薬が届けられたそうです。二の丸あたりで番務めをしていた頃、もしかしたら家斉の目にとまっていたかも知れない平蔵、忘れられてはいなかったのですね。

(注記1)「鬼平絵図」は、池波正太郎を特集した雑誌からの引用で、目白台の本宅、清水門外の役宅が記載されています。
(注記2)平蔵の旧宅跡は、現在、東京メトロ新宿線菊川駅のそばに碑が建っています。たいへん分かりにくいところです。碑には遠山金四郎と併記されていますが、平蔵が父に伴って京都へ行く際に返上したのを、のちに遠山の金さんが拝領したのでしょう。
(注記3)長谷川家の菩提寺は四谷の戒行寺ですが、平蔵の墓は不明になっているようです。碑はその代りに建立されたのでしょう。

  

(2016年01月)

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