わたしと世界遺産(2)
―北アフリカ・ヨーロッパ(1)編―

チュニジア・エルジェム闘技場外観

世界遺産一覧 登録年度
アルジェリア:  
10)アルジェリア・カスバ 1992年
チュニジア:  
11)カルタゴ遺跡 1979年
12)チュニス旧市街 1979年
13)エル・ジェム円形闘技場 1979年
フランス:  
14)ヴェルサイユ宮殿・庭園 1979年
15)パリ・セーヌ河岸 1991年
スペイン:  
16)コルドバ歴史地区 1984年
17)グラナダ・アルハンブラ宮殿 1984年
18)アントニ・ガウディの作品群 1984年
19)古都トレド 1986年
20)セビージャ・アルカサル 1987年
注記)特記なきは文化遺産  

チュニス・カルタゴの遺跡

アルジェリア・カスバ:アルジェリア行きの話しがあったとき、昭和30年代にエト邦枝が唄ったヒット曲『カスバの女』、「ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く」という歌詞に魅かれて行くことを決めてしまったわたしは、根がおっちょこちょいなのかもしれません。それほど魅かれていたカスバでしたが、じつはそこへは足を踏み入れていません。はじめてアルジェリアに入国した1998年当時は、同国はまだテロの嵐に見舞われていました。91年の議会選挙に勝利したにもかかわらず、軍の介入によりイスラム原理主義者の政治団体FIS(イスラム救国戦線)は政権につけず、FIS は翌年カスバを舞台に市街戦を展開し、やがて地下にもぐり、全国的に大規模なテロを起こすようになっていたのです。カスバへ行くなんてこと、とんでもないことで、大使館内に閉じこもったままアルジェ市内へ出るのも必要な時だけ、それも防弾車で警備つきの外出でした。ただ1度だけ、防弾車が通れる道からカスバの雰囲気がわかる横丁をまさに垣間見ただけ、とても世界遺産を見たというわけにはいきませんでした。カスバだけではありません。同国には3か所の大規模なローマの都市遺跡、建築家ル・コルビジェがこよなく愛したという「ムザブの谷」、サハラ砂漠の険しい岩山「タッシリ・ナジェール」に残された20000点もの古代人の岩絵(「ハリウッド映画『イングリッシュ・ペイシェント』を思い出してください)などの優れた遺産があるのです。そのいずれも、見ることができなかったこと、かえすがえすも残念なことでした。とくに、7世紀に侵入してきたイスラム軍がそのあまりの美しさに息をのみ、思わず口走った「ジェミラ!(アラビア語で「美しい」の意味)」が都市の名になったと伝えられる「ジェミラの考古遺跡」、いまでも夢にでてくることがあります。
チュニス・カルタゴ遺跡:チュニスが旧カルタゴの領土だったということはなんとなく知っていましたが、自分がその地に足を踏み入れるまで、ローマを攻めるために象の大軍を率いてアルプスを越えたハンニバルのあのカルタゴの地に立てるなんてこと、想像すらしていませんでした。その感動とは裏腹に、ローマのスキピオ軍によって完膚なきまでに破壊され尽くしたカルタゴの遺跡は、ピュルサの丘に残る住居跡、丘を下った海岸沿いの港跡・ドック跡など、正直に申して、つまらないものでした。「国破れて何も残らず」、と評したのでは失礼かも知れませんが……。

チュニス・アントニヌス浴場遺跡
2本残った柱は冷水浴場を支えた柱

チュニス旧市街:チュニス市内には、カルタゴの後に統治するようになったローマ時代の遺跡として「アントニヌスの浴場」跡があります。五賢帝の一人、ローマ帝国にあって最も平穏の時代だったときの皇帝アントニヌス・ピウスの浴場は地中海のまばゆい青い空の下にあり、往時は帝国内で3番目の規模を誇ったそうです。しかし、怒涛のように侵攻してきたイスラム軍によって破壊され、いまは海岸に沿ってわずかに残った遺構から、ローマ時代の栄華の跡をしのぶだけです。イスラム化されたチュニスは19世紀になってフランスの保護領となり、かつては強固だった城砦は撤去され、旧市街で現在目にすることができるのはフランス門や旧市街の大モスク、オスマン帝国時代の太守の館(現在は博物館、ただし先般テロのあったバルドー博物館とは別)などが世界遺産となっていますが、わたしには、何となく物足りなさが感じられました。むしろ世界遺産ではありませんが、チュニスでわたしが感銘を受けたのは、全長132キロで帝国内最長と言われる水道橋でした。アントニヌスの浴場をはじめ、国内の4つの都市を支えた貴重な水道でした。

エル・ジェム闘技場内部

エル・ジェム円形闘技場:チュニスでの世界遺産に、必ずしも満足をしたわけではありませんが、エル・ジェムの闘技場には大満足で、感銘を受けました。エル・ジェムはチュニスの南160キロほどに位置する町、案内してくれるというチュニス在住の日本人女性を紹介され、彼女の夫であるチュニジア航空のパイロットの運転する車でそこへ向かいました。町に入り、道路一面をおおうように迫ってくるその姿を目にしたときは、これがローマの闘技場だと興奮しました。世界遺産、それもチュニジアを代表する観光地だというのに、訪れていた人の数は数えるほど、記憶では10人未満だったでしょう。闘技場内を自由勝手気ままに見て回ることができました。ここの闘技場の規模はローマ帝国内でも、大きさからいえばローマのコロッセオ、カプアの闘技場につぎますが、カプアは損傷がひどいことを考えれば、エル・ジェムはコロッセオにも匹敵する円形闘技場だといえるでしょう。外観の損傷が目立ちますが、2度の大きな戦いを経験したためです。はじめは、7世紀のイスラム軍の侵攻時でした。ベルベルのジャンヌダルク、カヘーナ女王がここを要塞化して立てこもったとき。2度目は16世紀に、オスマントルコ軍によって激しく砲撃をされたようです。闘技場内、いたるところにその跡が生々しく残されていました。

スペイン・アルハンブラ宮殿
シエラネバタ山脈を背に朝日を浴びた城

フランス・ヴェルサイユ宮殿:
パリ・セーヌ河岸:ヨーロッパでは、フランスだけは仕事で行った関係で、訪れた所が世界遺産だということは全く意識していませんでした。とくにヴェルサイユ宮殿は、はじめてサウジアラビアへ行った際、トランジットの時間を利用して友人家族のエスコート役として訪問しました。これからサウジへ、と考えると気持ちが重く、とてもルンルン気分にはなれませんでした。その後パリへは仕事で数回訪問しており、その都度時間をつくっては市内の目ぼしいところへ尋ねることができました。おなじみのルーヴル、ノートル・ダム、エッフェル、コンコルド広場、あるいはオランジュリー美術館、ボン・ヌフ橋やナポレオンが眠るアンヴァリッドなど、世界遺産として指定されたセーヌ河岸の中に含まれた数多くの世界遺産を目にすることができたこと、楽しかったし、何よりもラッキーなことでした。

タホ川対岸から望んだ古都トレド

スペイン・ガウディの作品群:私が敬愛した建築家に今井兼次先生がおります。日本へのガウディの紹介者として知られていますが、大学での先生の講義の大半はガウディの話しに費やされたような気がしています。当時、自分がそのガウディの建築にふれることができようなど、夢にも思っていませんでした。スペインは、わたしが仕事以外で訪れた最初の国でした。南米にいた頃から、宗主国のスペインへは行ってみたいという思いがつよく、サウジアラビアから引き揚げの際、妻を誘ってみたのですが実現できず、20年ほど経って、ようやく願いが適ったのです。バルセロナでは、おなじみのサグラダ・ファミリア、グェル公園、そして市内のミラ邸・バドジョ邸と歩くことができ、今井先生の講義が活きることになったことに大満足でした。いま考えれば、80年ほど前にガウディの建築に接せられた先生が感銘を受けられ、日本に紹介されたことの先見性、他方、サグラダ・ファミリアはなお建設が継続中であり、世界でもっとも人気のある観光スポットだということに、黄泉の国の先生はどのように思われていることか、感慨深いものがありました。
古都トレド:トレドもまた、今井先生のお話に感銘を受けたものでした。とくに、サン・マルティン橋にまつわる逸話は感動的で、わたしはそのことを自分のウェブサイトに書きました(2009年12月 『サン・マルティイン橋』参照)。じつは、スペインへは旅行社のツアーに妻と参加しての旅だったのですが、トレドは予定に組み込まれていませんでした。それが残念で、マドリッド滞在中にいくつかのオプションがあり、10人以上の人数さえそろえば実施可能だと言うことで、旅行中、わたしは必死になって参加メンバーを口説きました。幸い、締め切りまでに11人の参加者が集い、わたしの夢は実現しました。タホ川対岸の展望台(ミラドール)から望んだトレドは先生が話された通りで、わたしは帰国後、講義中に写した、タホ川に囲まれたトレドのスケッチを改めて見直したものでした。同調してくれた9名の女性たちも、口々に「来てよかったわ」と言ってくださり、わたしは今でも彼女たちに感謝の気持ちでいっぱいです。
グラナダ・アルハンブラ宮殿:アルハンブラ宮殿も有名な人気スポットの一つで、この宮殿に関しては、“Quien no ha visto Granada no ha visto nada”(グラナダを見たことのない者は、美しいものはまだ何も見ていないようなもの―日光を見るまでは結構と言うな)という言葉があるように、アルハンブラ宮殿のすばらしさは他と比較できないとされています。そう言えば、グラナダがレ・コンキスタで立ちあがったキリスト教徒によって陥落する際、ときのイスラム・ナスル朝の王ボバディルは、馬上で涙し幾度も宮殿を振り返りながら南へ落ちて行ったと伝えられています。そんな著名な宮殿のこと、わたしがどうこう語るまでのことはないでしょう。
コルドバ歴史地区:
セビージャ・アルカサル:石材が主体のスペインの建築では、内壁に使用されたモザイクタイルのすばらしさには圧倒されました。アルカサル(スペイン王室の宮殿のこと)はいずこもイスラムの影響をつよく受けており、コルドバ、そしてセビージャのアルカサルは典型的なムデハル様式(イスラムの影響を受けたキリスト教様式)の宮殿で、わたしの印象はアルハンブラよりつよいものがありました。
(注記)一部の写真は公刊の写真集から引用しております。

  

(2015年11月)

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