吹奏楽にはまって 明治の初年、有栖川宮熾仁(わたるひと)親王率いる官軍(東征軍)は、映画やテレビドラマでおなじみのように、洋服姿の鼓笛隊を先頭に東海道を江戸に向かいました。その際演奏されたあの軽快なリズム、メロディは、もう立派な行進曲でしたね。ほんの少し前までは、京都の街を舞台に殺伐とした斬りあいを演じていたのに、いつの間に西洋式の軍楽隊が誕生していたことを、わたしは長いこと不思議に思っていました。調べてみましたら、じつは幕末、幕府がフランス兵式の陸軍を設立した際に鼓笛隊の編成を考えたようです。幾つかの藩でも幕府を見習ったようですが、薩摩藩の場合は、戊辰戦争中にイギリス製の楽器まで入手し、本格的な軍楽隊を編成したようです。これが本邦における軍楽隊あるいは吹奏楽の嚆矢(こうし)だとされています。 桜丘高校の演奏を聴いたことがきっかけで、わたしは吹奏楽の虜(とりこ)になりました。地元コミュニティ紙で得た情報で一度でも演奏会へ足を運びますと、会場で類似のパンフレットがごっそりと入手でき、自宅近傍で行なわれる演奏会へ足を運べるようになったわけです。もっともわたしは、吹奏楽の演奏を聴くのが初めてというわけではありません。実はそれまでほとんど忘れかけていたのですが、もう50年以上前の一時、春から初夏にかけてでしたが、日比谷公園の小音楽堂で催されていた「都民のつどい・水曜コンサート」をほとんど毎週のように聴いていたのです。何度も大学受験に失敗し、受験勉強にすっかり倦んでいたわたしにとっては、公園の緑陰の下での読書と警視庁音楽隊の演奏する吹奏楽が唯一といってよい楽しみでした。戦後まだ間もない頃のことですから、吹奏楽団といっても、旧軍の音楽隊の流れを汲んでおり、警視庁音楽隊はたぶん陸軍音楽隊のメンバーが中心になって編成されたのだと思います。指揮は岡田与租治(日本ビクターから幾多の行進曲をレコーディング)でした。ちなみに、当時吹奏楽界で著名だった内藤清五は東京消防庁音楽隊の指揮をとっていましたが、戦前は海軍音楽隊でした。余談になりますが、軍楽隊の音楽レベルはたいそう高く、たとえば團伊玖麿や芥川也寸志は陸軍戸山学校軍楽隊の出身ですし、『憧れのハワイ航路』で知られる江口夜詩、「シャープス&フラッツ」の原信夫(本名塚原)などは海軍軍楽隊の出身でした。 いささか脇道にそれましたが、話を元にもどします。吹奏楽のコンサートというのは、注意してフォローしてみますと、ずいぶん多いことに驚かされます。わたしが演奏会に通うようになった8月以降、11月末までに通ったコンサートを書き上げてみますと、ざっとこんな感じです。
8月29日
「え!そんなに、ずいぶんひまな人」、と思われるかも知れません。
たしかに、自分でもいささかあきれてはいますが、一方で吹奏楽団の数の多いことに驚かされました。わたしが聴いたうちでは、県警音楽隊のような半ばプロ化した楽団、東芝のように企業内広報の一環で演奏している楽団、それにファンファーレバンドのような、音楽大学内で編成された大掛かりな楽団もありますが、多くは、ブラバンの好きな者が集まって活動している同好会的な楽団のようです。同好会とはいっても、楽団構成員は中学・高校から指導者について演奏活動をしており、中には音楽大学で楽器を専攻した人たちもいるでしょうから、その腕前は確かなものがあります。わたしごとき耳の不確かな者にとっては、十分満足できるメロディを奏でてくれるのです。それに何よりも、吹奏楽といえば、だいたい入場無料ですから、そのことは何よりも嬉しいことです。 (2010年 12月) |
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