隠れバスケファン

このようなことを書いても、大方の皆さまは恐らく信じないかも知れませんが、私は中学・高校と約4年半、バスケットをやっていました。高校では関東甲信越大会へも出場したのです。東京から16校は出場していましたから、決して東京代表だということではなく、さほど自慢できる話しではありません。しいて自慢できるとしたら、高校では、当時全日本代表メンバーだった羽柴之司さんの指導を受けたということでしょうか。もっとも、わたしが入部したときには、すでに教育大学を卒業され、実業団の熊谷組へ入られていましたので、実際に指導を受けたのはそう長いことではありませんでした。それにしても羽柴さんの指導は、いま思い出しても厳しいものでした。大体は、練習中に誰かが倒れこんで、そこでようやく終了というような有様でした。羽柴さんが勤めの関係でコーチを辞められるとき、ご自分の代わりにと推薦してくださったのが小林慧歩さんでした。長野県のご出身で、県下では名の通った選手だったようですが、惜しいことに身長がさほどなく、大学でプレーするには不利だと自覚されたのでしょうか、教育大学ではバスケット部のマネージャーをされていました。小林さんの練習もむろん厳しく、ずいぶんいろいろなことを教えてもらいました。今でもはっきりと覚えているのは、上背がないのでガードだったわたしに対して、「この位置からならば絶対にゴールを決められる自分のポジションをつかめ」と口すっぱく言われ、その位置からのミドルショットを徹底的に練習させられました。したがって、フリースローならば、今でもかなりの確度で決められると思っていますが、たんに思い込みだけで、実際にはリングまで届かないかもしれません。バスケをやっていたからといって、背こそ伸びませんでしたが、猛練習のおかげで、太股(ふともも)だけは発達していました。南米で吊しのパンタロンを注文した際、足の短さは丈を縮めることで何とかカバーできたのですが、太さだけは股で引っかかってしまい、難儀したものでした。その太股も今では筋肉は落ち、風に当たろうものならパタパタと音をたてそうなのですから、歳は取りたくないですね。

 

そのころ、アメリカからプロのバスケットチームが来日しました。ハーレム・グローブトロツターズで、同じプロチーム、ニューヨーク・セルチックスを伴っていました。野球ならまだしも、バスケットのプロチームが日本へ来るなんて、戦前を含めて初めてのことだったと思います。対戦する日本チームのメンバーにコーチだった羽柴さんも入られていたので、その応援もかねて、かなり高額の入場券にもかかわらず観戦しました。日本でプロバスケットの試合を観戦した者としては、おそらく最も古い部類に入るのだと思います。会場は後楽園球場でした。煌々と照らし出されたコート上で繰り広げられたプロ選手のプレーに魅了され、しばらくは興奮が収まらなかったことを覚えております。それはもう、バスケットボールを手玉にしての、いわば魔法の世界でした。今でこそ、アメリカのプロバスケットといえば、NBA(National Basketball Association)などは、野球やアメフトなどとともに国民的なプロスポーツとして知れ渡っています。しかし当時はそのような知識はまったくなく、プロバスケットというのは、観客を前に曲芸みたいなプレーを披露することなのか、と思っていました。後になって知ったのですが、同チームはプロといっても、マッチ・ゲームよりエキジビション・ゲームを主体にしたチームで、冒頭のパンフレットで選手が旅行カバンを手にし、もう片方の手の指先にボール代わりに地球儀を乗せた姿からもお分かりのように、グローブトロツターズ(地球上を駆け巡る馬の意か)という名前そのままに、世界中を親善のために巡業しているようです。そのような特殊なプロチームですが、バスケットの実力そのものは相当なもののようでした。一緒に来日したセルチックス(NBA所属で、現在はボストンが本拠地)などは彼らが繰広げるショーの相手役で、軽くあしらわれていましたし、まことに古い話ですが、1951年の世界選手権で全米選抜チームを相手に14勝4敗という成績を残したほどの実力なのです。チーム創設(1927年)以来、負けた試合は全欧州選抜チームや全米大学選抜チームとの対戦など、数えるほどしかないといわれていました。正直なところ、わたしはアメリカのプロバスケット事情には疎いのですが、野球が大リーグを頂点に、レベルの違いによるマイナーなリーグ、あるいは地域の特色を出したリーグなど、その数はたくさんありますが、バスケットも同様で、NBAを頂点に10数リーグはあるようです。グローブトロッターズはそういったリーグには加盟しない独立した、独特な存在なのだと思います。ご存知のように、NBAは人気・実力ともに抜きん出ており、わたしが観戦した当時とは様子がまるで異なっているのかも知れませんが、現在でも、グローブトロッターズはNBAの名門チーム、たとえばロサンゼルス・レイカーズとも互角の戦いをするようですから、ショーマンであると同時に実力も兼ね具えた選手たちの集まりだといってもよいのでしょう。彼らの中には、アメリカ・スプリングフィールドにあるバスケットボールの殿堂入りした選手もおり、同チームの出身で、現在はNBAで活躍している選手もいるようです。

アメリカのプロバスケットといえば、わたしは、もう一試合観戦したことがあります。それが、なんと南米エクアドル、それも最果ての町エスメラルダスでしたから驚きです。もうメモも何も残していないので、定かなことは覚えていないのですが、アメリカから来て、南米の各地を転戦していたチームのようでした。メンバー全員が黒人でしたから、エクアドルの中でも、黒人が集中している太平洋沿岸のグアヤキルやマンタ、エスメなどを回っていたのでしょう。エスメラルダスの選抜チームとの対戦では、上背にも差があり結果は一方的でしたが、せっかくのチャンスとばかりにコートサイドで観ていたわたしの目に入ったのは、彼らの履いていた綻びた粗末なバスケシューズでした。プレーヤーにとってシューズは何にも増して重要なものですから、これにはびっくりしました。プロのバスケットチームだとはいえ、こんなチームもあるのかと驚きの反面、野球のみではなく、アメリカの人気スポーツを支える底辺というか、すそ野の広さを感じたものでした。いつかはNBAのコートに立てることを夢見て、このような底辺に近いチームでプレーしている選手もいるのです。わたしは、NBAの試合というのはまだ一度も見る機会がありませんが、一度は、華やかなその雰囲気を味わってみたいもの、と考えています。

そこで、日本のプロバスケットのことです。わたしがプレーしていた頃は、まだ大学チームが強く、実業団とほぼ互角の戦いをするだけの実力があったと記憶しております。他を寄せ付けないほど強かった慶応・立教に代わって、日本で初めてといってよい長身プレーヤー糸山選手を擁し、上級生羽柴さん達にしごかれた後輩の柏原・野口選手などがその糸山選手の力を存分に引き出していた教育大が、関東学生選手権で連続優勝するなど全盛時代でした。ラグビーの世界もそうですが、ある時期まで大学・実業団が互角に戦っていたのが、いつの間にか実業団に歯が立たなくなったように、バスケットの世界でも、学生時代からのスタープレーヤーが実業団へ入っていきましたので(ちなみに糸山選手は日本鋼管へ)、そのご長いこと実業団が君臨していました。日本でも数年前からバスケットのプロ化の声が大きくなり、2007年に実業団チームを主体に、日本リーグ(JBL)が始まっています。ところが、実業団からの発足ですから、完全なプロチームはわずかで、大半は企業名を冠したプロ・アマの混成チームなのです。それでいて、選手の多くはプロ契約という変則的な運営形態を採っています。その中途半端な形態に満足できないのか、JBLとは別に、完全なプロチームから成るjbリーグが一足先に発足しています。両リーグはまったく独立した運営ですから、どちらが上ということはないのですが、実力的には、長いあいだ日本のバスケット界を牽引してきた実業団チームを主体にしたJBLの方が上ではないかと思われます。実力はともかく、jbリーグの方は、元締めである日本バスケットボール協会から脱退という形をとっているため、国際試合の代表選手には選ばれないという、ねじれた形態となっているのが現状のようです。

 

ところで、多少でも運動に興味をお持ちならば、田臥勇太というバスケット・プレーヤーの名前をご記憶の方も多いのではないでしょうか。もう10年以上前に、「連戦連勝を重ねている秋田県・能代工高のスタープレーヤー」、と全国紙でも騒がれていた選手です。わたし自身、高校生ばなれした彼の卓越したプレーに注目し、ぜひ一度この目で見てみたいと思っていました。彼は高校卒業後ブリガムヤング大学ハワイ校へ留学し、全米大学2部リーグで活躍した後、2004年にNBA所属のフェニックス・サンズでプレーしたこともあるのですが、なにせ173センチと上背がないためにNBAでは存分に力を発揮できず、傘下のチームでプレーすることが多かったようです。本人はNBAでのプレー継続を望んでいたようですが、結局、2008年に日本へもどり、リンク栃木というプロチームに所属し、その年は優勝できなかったのですが、2009年度の日本リーグではプレーオフで常勝アイシンシーホースを破って優勝し、田臥は最優秀選手に選ばれました。同チームには2年連続してリーグの得点王になった川村という花形センターがいますが、その活躍の陰には、田臥が思う存分に川村を動かしていたからだ、と思っています。それはちょうど、かつて教育大で糸山という花形のセンタープレーヤーを、コート上でうまく活かしていた野口という名ガードの存在があったから、というのと同じ関係を思い起こさざるを得ません。そんなこともあって、田臥選手がどれほどすごい選手なのか、今春、プレーオフの最終戦観戦のため代々木第二体育館へ出かけました。行けば何とかなる、という軽い気持ちだったのですが、なんと、指定席はむろん、自由席も発売開始してすぐに売り切れてしまったとのことでした。事情を知らなかったわたしは、認識を新たにしました。

そこで、今年度のリーグ戦の緒戦に、たまたまリンク栃木が代々木で日立サンロッカーズと対戦ということで、早々に前売り券を購入し、観戦に出かけました。じつは、同チームはフランチャイズが栃木(宇都宮市)ですから、首都圏では2、3程度しか試合せず、それを見られるということは、たいへんラッキーなことなのだそうです。開場は6:00、試合開始は7:15、まさかとは思いつつも、念のために開場40分前には体育館に行きましたが、もう長蛇の列でした。何もわからないままに座った席は日立応援席の真っ只中、試合が始まると、まあ、その応援のすさまじいこと。隣席の若い女性がたたくスティック・バルーンが振り子のようにわたしの目の前まで来るのには辟易させられました。代々木の第2体育館のスタンド席数は3200余と聞いていますが、その8割強は日立のフアンでしょう。総じて若い年齢層の女性が多く、どう見ても、わたしに近い年齢層の姿は見当りませんでした。「物好きな、へんな爺さん」、とでも思われていたでしょう。たしかに、自分でも、相当な物好きだと思います。それも、わたしは田臥選手見たさに行ったので、どちらを応援するわけでもないし、プレーだってそれほどの関心はなく、いたって冷めた見方をしているのですから。その田臥ですが、事この日の試合に関しては、まったく失望させられました。無得点、フリースローは2本ともはずすし、ドリブルもパスもいたって平凡、まったくの期待はずれだったのです。新聞の報道によれば、前年度のリーグ戦終了後の春先、海外遠征中にウイルス性疾患に感染し入院していたとのこと。しかもリーグ戦開始直前に左足首を捻挫したとかで、本調子にはほど遠かったのでしょう。リーグ戦中に調子を取り戻した頃、たとえば来年の春頃、改めて観戦の機会をつかみたいと考えております。

これも新聞報道ですが、現在、わたしの地元神奈川県にはプロ のバスケットチームはないのですが、来年度からbjリーグへの新規加入が正式に承認されたそうです。たぶん、かつて実業団で活躍していた「いすゞ自動車」が母体になるのではないでしょうか。そうなれば、横浜でのプロの試合も増えるのではないか、と楽しみにしています(現在は、横浜文化体育館で年間2試合ていどです)。それと、日本リーグとbjリーグの運営一体化も話し合われているようで、そうなれば、bjリーグの選手は日本代表に選ばれないというような不合理はなくなることでしょう。サッカーのJ1、J2のように、入れ替えを前提にしたリーグ戦形式にすれば、競い合いも激しさを増し、切磋琢磨の結果、日本のバスケットの力ももっとついてくるのではないでしょうか。せめて、アジアではトップレベルの力を維持し、アジア大会での銅メダル以上を期待したいものです。かつては考えられなかった2メートルを超えるプレーヤーもずいぶん増えてきているのですから、隠れ一 ファンとしては、是非がんばって欲しいと願っております。

 

(追記) 10月23日の新聞報道では、県内初のプロバスケットチーム名は「横浜ビー・コルセアーズ」に決まったようです。ちなみにコルセアー(Corsair)とは海賊のことですが、地中海を荒らしまわった海賊「赤ひげ」のように、キリスト教国の船を襲うようオスマントルコ皇帝から命じられた公認の海賊を指すようです。

(平成22年 11月)

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