サン・マルティン橋

先月は「道」について書きました。今月は、道にかならず伴う橋、それもスペイン・トレドのタホ川に架かるサン・マルティン橋にまつわる逸話について書きます。

この話は、スペインの著名な建築家アントニ・ガウディを日本へはじめて紹介した人として夙に有名な今井兼次教授が、大学時代の建築計画の授業中にお話し下さったものです。
その際、今井先生は「この話をだれか戯曲にして残してくれるといいのだが」と、ふだんガウディの話をなさる際と同様、細身のお体のどこにそのような力がこもっていたのか、と思わせるほど、渾身から溢れんばかりの熱意で講義なさっておりました。
先生からサン・マルティン橋の逸話をぜひ戯曲に、というお話しを聞いた時、正直なところ、「よし、ぜひ自分が戯曲化してやる」という思いがふつふつと湧き上がったものでした。
とは申せ、その当時、もう半世紀も前になりますが、今日のように世界の各地へかくも簡単に行けるようになろうとは、夢にも思いませんでしたから、トレドが、あるいはタホ川がどんなところなのか、橋の設計をしたのが誰なのか、そのような基礎的なデータもなく、戯曲化に取り組むにはすべてが、あまりにも茫々としたものでした。それに、会社に勤務する身として時間がそう簡単に取れるものではなく、この話は長い間棚上げにしておりました。とはいえ、決して忘れたわけではなく、頭の片隅にはスペインのトレドの名はいつもこびりついておりました。

トレドはイベリア半島のほぼ中央に位置しています。町は海抜530メートルの小高い丘の上にあり、丘のふもとは北を除く三方をタホ川の深い渓谷が切り込むように取り囲んでいます。いわば町自体がタホ川に守られた自然の要害といえます。たいへん古い町で、紀元前からすでにローマ帝国の属国となっており、町へ入るにはアルカンタラ橋とサン・マルティン橋という2本の橋のいずれかを渡らなければなりませんでした。4世紀に始まったヨーロッパでの民族大移動の結果、イベリア半島はゲルマン民族の西ゴート王国に支配され、トレドはこの国の首都として、強固な城壁が築かれました。しかし、西暦622年に誕生したイスラム教のサラセン帝国はまたたく間に全アラビアを統一し、北アフリカを席捲、イベリア半島へ進出した翌年の712年にトレドは陥落して、西ゴート王国は滅びました。イベリア半島はコルドバに興ったコルドバイスラム国(後ウマイヤ朝)の支配下におかれたのです。
しかしキリスト教徒たちは、だまって手をこまぬ(ね)いていたわけではありません。9世紀がまさに終わろうとしていた年に、イベリア半島北西部にサンチアゴ・デ・コンポステーラ(巡礼寺院で、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教の三大聖地といわれている)を完成させ、ここをキリスト教国復活の拠点として、半島の奪還をめざしたのです。いわゆるキリスト教徒による国土回復運動(レコンキスタ)が始まったのです。カスチラ(お菓子のカステーラの語源となっている)王国、アラゴン王国などキリスト教国が誕生し、イスラム教徒とキリスト教徒との間で激しい争奪戦が繰広げられましたが、カスチラ王国アルフォンソ6世は1085年にトレドをイスラム教徒モロ人(ムーア人ともいい、アフリカ北西部の原住民でアラブ・イスラム化された人たちを指す)の手から奪い返しました。
トレドの攻防戦が終わったのちも、半島での両教徒間の争いは長くつづき、イスラム教の王国は13世紀にははるか南に追いやられ、アルハンブラ宮殿で有名なグラナダを首都に、かろうじて王国を維持したのです。
こうしてトレドは長期にわたって戦乱の渦中にあり、ローマ時代に建設されたサン・マルティン橋は激しい戦乱の中にあってよく耐えていましたが、11世紀初頭の大洪水で流されてしまいました。復旧にあたったモロ人は、得意の石積み技術を駆使し、橋はむろんのこと、町に通じる門やその周りの城壁すべてをムデハル様式*と呼ばれた強固な石造りで建設しました。モロ人が建設した強固な橋、そのモロ人はキリスト教徒によって遠く南へ追いやられてしまったのですから、もうサン・マルティン橋は戦乱にまみれることなく、安泰だと思われていました。その橋が、こともあろうにカスチラ王国内の戦乱で破壊されるという事件が起こったのです。

(*)イベリア半島においてキリスト教統治下、 改宗しないでイスラム教徒のままでいた建築家の守っていたイスラム様式を指す。
逆に、イスラム教統治下でのキリスト教建築様式をモサベル様式と称している。

14世紀中頃のカスチラ王国では、ペドロ1世が統治していました。
たいへん気があらく、うたぐり深い王で、自分が気に入らないと、むやみにまわりの者を殺してしまうので、残虐王ともいわれ、恐れられていました。その結果、異母弟のエンリケ公との間で激しい戦争が繰広げられ、1368年ペドロ1世は敗れ、逃れる最中にサン・マルティン橋の真ん中のアーチが破壊してしまったのです。2本の橋で町を支えられていたその1本が使えなくなるということは、トレドにとってたいへんな痛手となりました。争いに勝って王位についたエンリケ2世は、さっそくテノリオ大司教に橋の再建を命じました。トレドの大司教は、スペイン・カトリック教会を統治する最高の司祭職であり、最高の権威者でした。
市内のカテドラル(大聖堂)はすでに12世紀はじめから建設に取りかかっていましたが(完成は15世紀末だったといわれています)、いまだ建設途上で、テノリオ大司教は多忙をきわめていました。当然のことながら、カテドラルはフランス・ゴシック様式で建設されていました。その大司教のことですから、サン・マルティン橋もゴシック様式で再建されることと、王も教会関係者も、それに市民いずれもが思っていましたが、大司教が選んだ建築家はユセフ・アルザイドというモロ人でした。
モロ人特有の浅黒い肌、物静かではありましたが、芸術に対する熱い思いを秘めた建築家でした。レコンキスタによりモロ人の多くが南に追われた中で、トレドに留まることを許されていた数少ない技術者でした。しかもキリスト教への改宗もしていませんでした。大司教がモロ人を選んだことに対して、王をはじめとしてつよい反対の声が上がりました。しかし大司教は、何百年あるいは何千年ももつ強固な橋にするためには、モロ人の有する技術が必携であり、周りの建物とも調和の取れた美しい橋の設計にはモロ人の建築家でなければならないという信念から、王を説得しました。王もモロ人の技術の高さには一目置いていました。南への遠征中に見たセビリャのヒラルダの塔(モスクのミナレット)の美しいことはよく知っていましたし、グラナダのアルハンブラ宮殿(アラビア語で「赤い城」の意)の壮大さもよく耳にしていました。ユセフはすぐに設計に着手し、ムデハル様式による橋の姿図に王も大司教も大満足でした。ユセフは工事に取り掛かりました。川底にしっかりと食い込んだ橋台(橋の基礎、橋脚ともいう)が造られ、工事中の橋の重さを受けるしっかりした仮設の木組みも出来ました。その上に、大きな重い石を積み重ねていくのです。ユセフは朝早くから現場へ行き、家へ帰るのも夜が更けてからでした。帰ってからも、目を輝かしながら、その日の仕事の様子やら、橋が出来上がったときの姿について、妻のイサベルに語りました。イサベルもそんな夫の姿を頼もしく思い、橋の完成を心待ちにしていました。橋はだんだん出来上がり、木組みの上の、馬蹄形をしたムデハル様式のアーチの美しい姿がよくわかるようになりました。それはすばらしい姿でした。

さて、ここからが逸話です。 ところが、石積みが進むにつれ、ユセフの口数が少なくなり、家へ帰ってきても、疲れてきった様子で、そのまま床につくようになりました。妻は、はじめのうちは仕事に疲れただけなのか、と 思っていましたが、そのうち、夫の様子にただならぬものを感じました。ユセフは、妻に心配をかけまいと「疲れただけだ」と逃げていましたが、やがて隠し切れずに重大な告白をしました。それは、設計を急ぐあまり、タホ川が増水したときの流れの強さを間違えてしまい、川が一気に増水したときには橋台がゆるんでしまう、というのです。橋台がゆるむと、となりどうし支え合っているアーチの石がゆるみ、橋はやがて崩れてしまうのです。
しかし、ここまで建設が進んでいるのに、いまさら大司教に打ち明けたら、自分はとがめを受け、建築家としての今までの名声はなくなってしまう。ユセフは心痛のあまり、食事ものどを通らなくなりました。ユセフが妻に重大な秘密を打ち明けてから数日経った風の強い深夜、橋の建設現場で火の手が上がりました。仮設の木組みが真っ赤な炎を上げて燃えているのです。多くの人が駆けつけましたが、手のほどこしようがなく、木組みは大きな音をたてて焼け落ち、建設中の石の橋もろとも川の中へ落下しました。いつもは騒がしい建設現場は、一瞬、不気味な静けさにつつまれ、ふだんなら聞こえないタホ川の流れが音をたてていました。 妻のイサベルは橋の落下を見届けたのち、大司教のもとへ自首しました。放火は重罪です。イサベルはカテドラル地下の一室に 幽閉されました。ユセフにも逮捕の手がのび、別の場所に監禁されました。彼は自分がキリスト教に改宗していないモロ人だということで、死を覚悟していました。大司教テノリオも、王から再建を命じられた橋が失火で消失してしまったことで、二人に重罪 を科すだけではなく、自分も許されることはないと思っていました。しかし、大司教は、なぜイサベルが自分の夫が精魂込めて建設している橋に火をかけたのか、どうしても理解できず、イサベルを死刑にする前に、なんとしても放火の理由を確かめたいと 思っていました。
死刑執行の日、いつもは青空の広がるトレドはどんよりした空でした。カテドラル広場をおおう重苦しい雰囲気の中で、大司教の問いに対して、イサベルは答えました。「あの橋は見た目にはよく出来ています。さすがにわが夫です。しかし、夫は設計を間違え、川が増水した時に壊れる恐れがあるというのです。川の増水さえなければ、橋はいつまでももち、黙ってさえいれば、夫の名声は失わないで済みます。しかし、名声などどれほどの価値があるのでしょう。それよりか、壊れるかもしれないと分かっている橋の建設をこのまま進めるわけにいきません。いまなら、橋が完成すれば毎日のように行き来するに違いない多くの人の命を救えるのです。たとえ夫がこのまま黙っていようとも、妻としては、人として守るべき道に反するようなことを夫にさせるわけにいかないのです」。涙ながらに、しかし最後にはさばさばした明るい表情で語るイサベルの話に、大司教は雷にでも打たれたかのように、しばらくは声もなくイサベルを凝視していました。自分の命を投げ出すことで、人の命をあずかる建築家の責任の重さを伝えようとするイサベルの命をこのまま奪ってしまうことはできない、大司教は彼女の命をなんとか救いたいと考えました。大司教は、王の許しを得て、モロ人の建築家ユセフに、キリスト教への改宗、橋の再建を新たにゴシック様式で設計する、という二つの条件を出して、それに従えばイサベルとユセフの命を助け、あまつさえ橋の設計をはじめからやり直すことを許そうとしたのです。イスラム教徒としてキリスト教に改宗することには、心の中で大きな抵抗がありましたが、それで妻の命を救えるのならと、ユセフは条件をのみました。
橋はゴシック様式で無事に完成しましたが、完成を心待ちにしていたエンリケ2世は、橋を一度も渡ることなく亡くなってしまいました。橋の完成から100年ほど経ってグラナダ帝国は滅び、アルハンブラ宮殿を後にした帝国最後の王ムハンマド11世(ボアブジル)は、Quien no ha visto Granada no ha visto nada.(グラナダを見ずして結構というなかれ)とまでいわれた絢爛にして華麗なる宮殿を涙ながら振り返りつつ、アフリカへ逃れて行きました。両教徒間の争いはなくなり、カスチラ王国はのちにイスパニア王国となって、世界の覇権を握るまでの強国になったのです。

以上が、今井先生からお聞きした話を、私なりに大きく脚色したサン・マルティン橋の秘話です。学生たちから、「ガウディの今井兼次教授」とまでいわれた今井先生のガウディへの傾倒ぶりは、すごいものがありました。先生のお話によく出てきたバルセロナの「サグラダ・ファミリア(聖家族教会)」は、スペイン観光の一大スポットになっています。さて、黄泉の国で、今井先生はどう思われているでしょうか。私の感じでは、おそらく苦笑いされているに違いありません。「サン・マルティン橋」、「グラナダのアルハンブラ宮殿」も、ともに世界遺産に登録されており、世界中からの観光客に親しまれています。最近の観光案内のガイドブックには、サン・マルティン橋の逸話も紹介されています。しかし、驚くことに、増水などめったにないのだから、こっそり火をつけて橋を落としてしまい、不慮の事故だとしてだまってさえいれば夫の名声に傷がつかないと、夫を救った賢い妻として紹介されているのです。これでは、何年か前に頻発したマンションの偽装問題と同じですね。許しがたいことと申せます。最近の人はこういう考えしかしないのか、と悲しくなりました。今井先生が建築学科の学生たちに伝えたかった崇高な精神を冒涜するものだといえます。

これからは内輪話、本当は隠しておきたいのですが、以上の話を 「サン・マルティン橋」の題名で、某新聞社が募集していた「児童文学賞」に応募したことがあります。大学で日本文学を専攻した自分の娘や小学生の孫たちの意見を聞きつつ、そして児童図書館で小学生の生徒が学ぶ漢字を調べつつ、書き上げたものでした。自分としては、かなり自信のある作品だったのですが、物の見事に落選しました。第一次審査にも通らなかったのです。おそらく選考委員の先生の目にふれることもなく、編集担当者レベルでふるい落とされたのでしょう。小学生向けとしては内容が難しいし、「子供たちに夢を与えるような明るい作品」という募集要項からみても、ふさわしくなかったのでしょう。仕方ないので、自分のウエブサイトに残しますが、本音をはけば、まだ戯曲化をあきらめたわけではありません。

(平成21年 12月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む