南都 大安寺

奈良の大安寺といっても、ご存じない方が多いのではないでしょうか。がん封じのささ酒がふるまわれる1月の光仁会と6月の竹供養はTVで放映されることもありますので、もしかしたら、知っている方もいらっしゃるかも知れません。その日ばかりは観光バスが列をなすほどの盛況となります。
 今でこそ東大寺や興福寺ほどの名はありませんが、大安寺の歴史は古く、聖徳太子が建立した熊凝(くまごり)精舎に始まるとされています。のちに藤原京の大官大寺などを経て、平城京遷都の際に国を鎮護する官寺ということで「大安寺」と改称、14年の歳月をかけた大伽藍が現在地に建立された奈良でも由緒ある寺なのです。弘法大師をはじめ、仏教史上著名な名僧・高僧とのゆかりの深い学林、いわば仏教大学大学院的な存在でした。しかし壮大な伽藍を誇った大安寺も、室町期以降、相次ぐ天災で鳥有(うゆう)に帰し、今は、灰燼の中で残ったことが奇跡だといわれる9体の仏像(大安寺式と称される天平期の檜の一木造り)だけが、往時の盛観を偲ばせるだけです。

南都大安寺との出会いは、まったくひょんなことからでした。まだ学生だった昭和35年(1960年)3月、わたしは春休みを利用して単身で10日間ほど関西を旅しました。京都では、高校時代の絵画の先生にお聞きしていた京都の智積院に泊めていただくつもりでしたが、寺の都合で泊まれず、西本願寺前の古ぼけた宿「魚岩」(現在は「安らぎと寛ぎの宿」で評判となっています)で、小さな火鉢に手をかざして京の底冷えに耐えた3日間でした。
奈良では、3月なら宿はガラガラと安易に考えていたのですが、予定していた日吉館では空部屋がないと断わられてしまいました。あとで知ったことですが、女将の田村きよ さんの気さくで、面倒見のよい性格から、同館は美術や建築史の研究学徒の間で著名であり(のちにNHKでドラマ化されたほどです)、3月の春休みは学徒にとっては書き入れ時、予約なしで泊まれるはずはなかったのです。夕闇が迫る中、途方に暮れましたが、道一つ隔てた博物館前の茶店に写真家永野太造氏を訪ねました。氏も、若い学徒のために宿の紹介をしてくれると耳にしていたからです。永野氏はあいにく外出していましたが、応対してくれた夫人が、秋篠寺がいいだろうと電話機を手にしたとき、永野氏がもどって来られ、「秋篠さんもええけんど、学生さんなら大安寺のほうがええ」と、すぐさま電話してくれました。不安な面持ちのまま大安寺に着いたとき、日はとっぷりと落ちていました。寺では家族総出で温かく迎えられ、ちょうど居合わせた二人の学生さんと一緒になって、さっそく話の輪に加えていただきました。奥様手づくりの心づくしの夕食、体の芯から温まる五右衛門風呂、その夜は、苦難から救われたような至福の思いで一杯でした。
翌朝、明るくなってから気づいたのですが、大安寺は境内を囲む塀もなく、庫裏のほかは、小さな堂宇二つほどのお寺でした。わたし自身、そのときはまだその名を知りませんでした。したがって、南都の大寺であるという格式ばったところがなく、貫主の河野清晃師もその奥様久子さまも、偉ぶるところなく、気さくにわたしたち学生の世間話の輪に加わって下さいました。永野太造氏はそんな雰囲気をよく知っていて、学生であるわたしに対して秋篠寺ではなく、大安寺を紹介してくれたのでしょう。その後、海外へ出張でもしていないかぎり、毎年のように訪山するようになったのは、ある意味、師そして奥さま(3人のお嬢様も含めて?)に惹かれての、当然の成り行きだったといえます。

河野清晃師は、その頃すでに50歳代半ば、痩身で上背があり、お見受けしたところでは、頑強なお体とは思えませんでした。しかし十歳で高野山へ入寺、翌年得度、以来高野山諸道場で修行の連続、その後は四国霊場の徒歩遍路を続けられ、ご高齢になられてからも毎年のインド仏跡巡礼をなさるなど、そのお体は、常人とは異なる強さをお持ちでした。福岡県のご出身で高野山大学に学ばれ、卒業論文「高野山根本大塔の研究」で高野山座主賞を受けられ、その論文はベルリン大学のトラウツ博士によって独訳出版されるほどの学僧であらせられ、出版されたご本の中の写真(ドイツ語訳はまったくわかりませんでしたので)をベースに、研究の大要を説明していただいたものです。そのような関係もあって、師とドイツとの関係は深く、日独親善・文化交流に尽くした功で、同国から「一等功労十字章」、ついで「功労勲章大功労十字章」(日本での文化勲章に匹敵する)などを受賞され、またドイツからの要人が関西へ来られた折には、必ずといってよいほど、大安寺を表敬訪問されたものです。
来日したヴイルヘルム・ケンプが大安寺でピアノ演奏した際は、奈良市内では大きな話題になったようです。師は戦前に、京都仁和寺石堂恵猛管長のご推挙で大安寺住職になられ、戦時中は朝鮮へ応召、昭和21年に復員されてからは、大安寺の伽藍復興一筋に力を注がれており、第一次の伽藍整備が完了し、その報告法要が執り行われたのは平成12年(2000年)11月で、齢94歳のときでした。奈良市内の主だった諸寺から錚々たる猊下(げいか)が参列した荘厳な式でしたが、その時はもう、車椅子で導師を務められるという痛々しいまでのお姿でした。そして、永年にわたる伽藍復興の責を果たされた安堵からか、ちょうど1年後の平成13年11月16日、遷化されました。高野山真言宗大安寺貫主・傳燈大阿闍梨「大僧正清晃大和尚」の本葬儀は同月20日、しめやかに行なわれました。わたしは悲しみに打ちひしがれました。

はじめて大安寺を訪れた夜、紹介の電話を入れていただいたとはいえ、ただの宿を訪ねるのとは異なり、それは不安なものでした。その不安を一瞬にして払拭してくれたのが、玄関にお出迎えくださった貫主夫人 久子さまの「ようおいでやした」のお一言、そして優しげな笑顔でした。いま数えてみますと、40歳代半ばにはなっていたと思いますが、たいへんお若く、美しく、それでいて、物に動じないどっしりと落ち着いた雰囲気をお持ちでした。また、久子さまにまつわりつくように、恥ずかしげに顔を覗かす3人の可愛らしいお嬢さん方(その中に、次女で現貫主良文師夫人の恵美子さまもいらっしゃいました)の笑顔も、緊張していたわたしの気持ちをさりげなく解してくれたのでしょう。
奥さまは大阪中津のご出身、作家 井上友一郎のお妹さんで、河野貫主とのご結婚が、井上の文壇デビュー作『残夢』が芥川賞候補になったのと同時期のことで、その当時の文壇、とくに「早稲田文学」関係者のことをよくご存知でした。わたしがはじめてお会いした折も、もう記憶は薄れてはいるのですが、丹羽文雄が新聞(たしか朝日か毎日だったと思います)に連載中だった恋愛小説の中で、主人公が京都府加茂の浄瑠璃寺三重塔を舞台にした場面を記述の最中で、そのことが話題になり、「石井さんもぜひ、浄瑠璃寺へ行かはったらよろしいわ」と仰ってくださり、奈良滞在中に同寺を訪ね、阿弥陀の世界そのままの境内に魅かれたものでした。作家のお妹さんだからというわけではありませんが、そのことに加えて、貫主夫人というお立場から、各界名士とのお付き合い(わたしの滞在中も、大安寺の旧境内の何次にもわたる発掘作業が続けられており、各界の錚々たる方々が寺を訪れていました)に裏付けられた宗教、芸術、文化、関西のみならず東京も含めて全国各地の風物などにも長(た)けておられ、奥さまとの話題は、学ぶことの多い、楽しいものでした。訃報が、北は岩手から南は長崎までの数多くの地方紙に載ったということは、奥さまの幅の広いご活躍を示す証左だと申せます。

昭和61年(1986年)は大安寺にとって、おめでたが続いた年でした。貫主がドイツの大功労十字章を受賞され、11月初めに奈良ロイヤルホテルでその授賞式・祝賀パーティが開かれました。ついで奥さまが、永年にわたる公衆利益に対する貢献により藍綬褒章を受章されたのです。その授賞式出席のためにご夫妻上京の機会をとらえ、わたしが音頭をとって何人かの方に声をかけ、パレスホテルで「大安寺在京友の会」的な集まりを持ちました。はじめてお寺へ訪ねた際、同宿していた2名の学徒のうちの1人大坪正義さんをはじめ、美術史家 安藤更生氏のお弟子さんの森川さん、千葉美術館の島津さんなど数名が集まったようです。大坪さんは、大安寺境内発掘の指導をされていた横国大の大岡実教室(日本建築史)のご出身で、現在でもご懇意にしております。「集まったようです」、なんてアイマイな表現にしたのは、じつは、当日、インドネシアへの出張が急に入り、連れ合いに後を託して、ご夫妻にはたいへん失礼ながら、わたしは欠席したため、集まりの様子はよくわからないのです。連れ合いはそつなく会をまとめ上げ、奥さまは、そのことをたいそう褒めてくださり、それ以降、わたしより連れ合いの方への評価が高くなったことは、ある意味嬉しいことでもありました。

昨年(2009年)正月、アメリカから帰国中だった娘の発案で、 久し振りに大安寺を詣でました。奥さまは思っていた以上にお元気の様子で、こちらが案ずるほど長時間にわたってお話する時間をいただきました。あまつさえ、市内菊水楼でのゆっくりと時間をかけた夕食のお招き。その間、いままでの長いご交誼を一つひとつ思い出されるかのように話されることに、わたしはある種の感銘を受け、嬉しく思ったものでした。たとえば、わたしの初訪問時にいた学徒は大坪さんと北村さん(岡山県大安寺町のお寺の住職)で、「石井さんは、あのとき北村はんと、室生だか、浄瑠璃寺へ行きはったんですね」と言われ、その記憶力のよさにびっくりしました。実際には、室生寺へは、高野山大学の学生だった北村さんから近鉄の無料パスをお借りし、1人で行ったのですが、浄瑠璃寺へは北村さんと行きましたので、そのようなことまで覚えていてくださったことは、まさに驚きでした。連れ合い共々、奥さまのお元気な姿に一安心したにもかかわらず、10月にお亡くなりになったこと、返すがえすも残念なことで、わたしは、母を亡くした思いでおります。

昨年5月、わたしは仕事の関係で奈良県明日香村へ行く機会がありました。
その折 時間の余裕をみて、北に香具山を望む田畑の中に残る大官大寺跡を訪ねました。大安寺の前身といわれる寺跡であり、大安寺はかつてここにあったのかと思うとき、半世紀ちかく経っての機会到来に、感慨深いものがありました。「大安寺へ行こう」という娘の一言、大官大寺跡へ行けたこと、そして奥さまのご逝去、わたしは、何か目に見えない糸に結ばれたような、不思議な縁を感じないわけにいきません。河野清晃貫主そして久子さま、お二方と永のお別れをした以上、これからは法嗣現貫主良文師、そしてお血筋である令夫人恵美子さまと、従前と変わらぬ交誼をつづけられればと願っております。

良文師に対しても、わたしは深い尊敬の念をいだいております。それは、平成15年(2003年)4月10日朝日の夕刊に、「憤怒の仏」と題したコラムが載ったことによります。記事によれば、アメリカ・ニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーで催された日本の仏教文化の発展への朝鮮半島の影響をテーマとした美術展へ、日本側の窓口となった奈良国立博物館からの依頼で、大安寺も楊柳観音と多聞天像を出展することになっていたそうです。仏像を積み出そうというときに始まったアメリカのイラク攻撃、仏は本来 平和の使者のはず。師は、梱包の済んだ仏様の差し止めを考慮されたようですが、ギャラリー側の都合もあり、仏と平和への祈りを込めたメッセージを掲示することを条件に展示するようになったそうです。師のお許しを得てはいませんが、すでに公開された内容なので、そのメッセージを掲載された記事そのままに記します;

「この仏像の憤怒(ふんぬ)の表情は、大義がいかなるものであれ、愚かしい戦争を怒るものである。その悲劇を憤り、嘆くものである。 仏の怒りと悲しみをあえてお伝えするべく、開陳を認めた。
                   大安寺住職 河野良文」

わたしは深い感銘を受けました。ノーベル平和賞の受賞演説の中でさえ「正義の戦争」を口にするアメリカ人。それでもわたしは、貫主の思いを理解していただきたい、そう願わずにいられません。

           

合掌

(平成22年 1月)

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