南都 大安寺 奈良の大安寺といっても、ご存じない方が多いのではないでしょうか。がん封じのささ酒がふるまわれる1月の光仁会と6月の竹供養はTVで放映されることもありますので、もしかしたら、知っている方もいらっしゃるかも知れません。その日ばかりは観光バスが列をなすほどの盛況となります。
南都大安寺との出会いは、まったくひょんなことからでした。まだ学生だった昭和35年(1960年)3月、わたしは春休みを利用して単身で10日間ほど関西を旅しました。京都では、高校時代の絵画の先生にお聞きしていた京都の智積院に泊めていただくつもりでしたが、寺の都合で泊まれず、西本願寺前の古ぼけた宿「魚岩」(現在は「安らぎと寛ぎの宿」で評判となっています)で、小さな火鉢に手をかざして京の底冷えに耐えた3日間でした。 河野清晃師は、その頃すでに50歳代半ば、痩身で上背があり、お見受けしたところでは、頑強なお体とは思えませんでした。しかし十歳で高野山へ入寺、翌年得度、以来高野山諸道場で修行の連続、その後は四国霊場の徒歩遍路を続けられ、ご高齢になられてからも毎年のインド仏跡巡礼をなさるなど、そのお体は、常人とは異なる強さをお持ちでした。福岡県のご出身で高野山大学に学ばれ、卒業論文「高野山根本大塔の研究」で高野山座主賞を受けられ、その論文はベルリン大学のトラウツ博士によって独訳出版されるほどの学僧であらせられ、出版されたご本の中の写真(ドイツ語訳はまったくわかりませんでしたので)をベースに、研究の大要を説明していただいたものです。そのような関係もあって、師とドイツとの関係は深く、日独親善・文化交流に尽くした功で、同国から「一等功労十字章」、ついで「功労勲章大功労十字章」(日本での文化勲章に匹敵する)などを受賞され、またドイツからの要人が関西へ来られた折には、必ずといってよいほど、大安寺を表敬訪問されたものです。 はじめて大安寺を訪れた夜、紹介の電話を入れていただいたとはいえ、ただの宿を訪ねるのとは異なり、それは不安なものでした。その不安を一瞬にして払拭してくれたのが、玄関にお出迎えくださった貫主夫人 久子さまの「ようおいでやした」のお一言、そして優しげな笑顔でした。いま数えてみますと、40歳代半ばにはなっていたと思いますが、たいへんお若く、美しく、それでいて、物に動じないどっしりと落ち着いた雰囲気をお持ちでした。また、久子さまにまつわりつくように、恥ずかしげに顔を覗かす3人の可愛らしいお嬢さん方(その中に、次女で現貫主良文師夫人の恵美子さまもいらっしゃいました)の笑顔も、緊張していたわたしの気持ちをさりげなく解してくれたのでしょう。 昭和61年(1986年)は大安寺にとって、おめでたが続いた年でした。貫主がドイツの大功労十字章を受賞され、11月初めに奈良ロイヤルホテルでその授賞式・祝賀パーティが開かれました。ついで奥さまが、永年にわたる公衆利益に対する貢献により藍綬褒章を受章されたのです。その授賞式出席のためにご夫妻上京の機会をとらえ、わたしが音頭をとって何人かの方に声をかけ、パレスホテルで「大安寺在京友の会」的な集まりを持ちました。はじめてお寺へ訪ねた際、同宿していた2名の学徒のうちの1人大坪正義さんをはじめ、美術史家 安藤更生氏のお弟子さんの森川さん、千葉美術館の島津さんなど数名が集まったようです。大坪さんは、大安寺境内発掘の指導をされていた横国大の大岡実教室(日本建築史)のご出身で、現在でもご懇意にしております。「集まったようです」、なんてアイマイな表現にしたのは、じつは、当日、インドネシアへの出張が急に入り、連れ合いに後を託して、ご夫妻にはたいへん失礼ながら、わたしは欠席したため、集まりの様子はよくわからないのです。連れ合いはそつなく会をまとめ上げ、奥さまは、そのことをたいそう褒めてくださり、それ以降、わたしより連れ合いの方への評価が高くなったことは、ある意味嬉しいことでもありました。 昨年(2009年)正月、アメリカから帰国中だった娘の発案で、 久し振りに大安寺を詣でました。奥さまは思っていた以上にお元気の様子で、こちらが案ずるほど長時間にわたってお話する時間をいただきました。あまつさえ、市内菊水楼でのゆっくりと時間をかけた夕食のお招き。その間、いままでの長いご交誼を一つひとつ思い出されるかのように話されることに、わたしはある種の感銘を受け、嬉しく思ったものでした。たとえば、わたしの初訪問時にいた学徒は大坪さんと北村さん(岡山県大安寺町のお寺の住職)で、「石井さんは、あのとき北村はんと、室生だか、浄瑠璃寺へ行きはったんですね」と言われ、その記憶力のよさにびっくりしました。実際には、室生寺へは、高野山大学の学生だった北村さんから近鉄の無料パスをお借りし、1人で行ったのですが、浄瑠璃寺へは北村さんと行きましたので、そのようなことまで覚えていてくださったことは、まさに驚きでした。連れ合い共々、奥さまのお元気な姿に一安心したにもかかわらず、10月にお亡くなりになったこと、返すがえすも残念なことで、わたしは、母を亡くした思いでおります。
昨年5月、わたしは仕事の関係で奈良県明日香村へ行く機会がありました。 良文師に対しても、わたしは深い尊敬の念をいだいております。それは、平成15年(2003年)4月10日朝日の夕刊に、「憤怒の仏」と題したコラムが載ったことによります。記事によれば、アメリカ・ニューヨークのジャパン・ソサエティー・ギャラリーで催された日本の仏教文化の発展への朝鮮半島の影響をテーマとした美術展へ、日本側の窓口となった奈良国立博物館からの依頼で、大安寺も楊柳観音と多聞天像を出展することになっていたそうです。仏像を積み出そうというときに始まったアメリカのイラク攻撃、仏は本来 平和の使者のはず。師は、梱包の済んだ仏様の差し止めを考慮されたようですが、ギャラリー側の都合もあり、仏と平和への祈りを込めたメッセージを掲示することを条件に展示するようになったそうです。師のお許しを得てはいませんが、すでに公開された内容なので、そのメッセージを掲載された記事そのままに記します;
「この仏像の憤怒(ふんぬ)の表情は、大義がいかなるものであれ、愚かしい戦争を怒るものである。その悲劇を憤り、嘆くものである。
仏の怒りと悲しみをあえてお伝えするべく、開陳を認めた。 わたしは深い感銘を受けました。ノーベル平和賞の受賞演説の中でさえ「正義の戦争」を口にするアメリカ人。それでもわたしは、貫主の思いを理解していただきたい、そう願わずにいられません。 合掌 (平成22年 1月) |
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