― 道 ―
道といえば、すぐさまラテン語の格言 omnes viae Roman docunt―すべての道はローマに通ず―が頭の中をよぎるほどに、ローマの道は有名です。「インフラのローマ」といわれるローマ帝国ですが、数多く建設されたローマのインフラストラクチュア(社会基盤あるいは土木構造物といってもよい)の中でも、ローマの道は、まさに白眉だといえます。

いうまでもありませんが、ローマの道は軍事目的にありました。
国の発展とともに、地方あるいは属州の統治のために、いったん事が起きた場合の軍隊の移動に供することが、何よりも求められたからです。ローマ軍団の移動ともなれば、重装備の歩兵それに騎兵をともない、その数は時には数万単位の大軍であり、戦闘用の馬車、そして数多くの荷車も通るわけですから、その通行に支障を来たさないだけの道路幅員と強度が必要でした。道には大雨による冠水がないよう側溝などの排水施設も求められたし、橋も、
場合によっては隧道(トンネル)も必要になりました。以下は、文化功労賞を受賞した塩野七生さんの大作『ローマ人の物語』からの引用ですが、ローマの街道はしっかりとした技術仕様が定められていて、道路の表層には石が敷きつめられ、表層を受ける路盤は三層から成っていて、その厚さは1から1.5メートルにも達したといわれています。現代の道路仕様と比較しても遜色がないといえるでしょう。
ローマの道は軍事目的ではありましたが、同時に交易のためでもあり、旅行者のためでもありました。したがって、旅人が安心して歩けるための歩道の併設が原則であり、この点が他では見られないローマの道のすぐれた特長でした。ローマの道とともに名だたる道として、南米アンデスの山中にインカの古道があります。ローマと同様に軍事目的の道でしたが、こちらの方は一般人民の使用が許されていなかったようです。許されなかったというよりは、言語の発達のなかったインカでは、旅行そのものの概念が存在していなかったのでしょう。技術者としてインカの遺跡を見るとき、まず驚かされるのは、同じ石の文化であるヨーロッパには見られない、具体的にはローマの土木技術には見られない精細な石積み技術と、そして帝国全土に張り巡らされた「インカの古道」の存在です。

インカの道は、インカ帝国の領土拡張にともない整備され、
15世紀半ばに完成したようです。現在のパン・アメリカン・ハイウエイとほぼルートを同じくする海の道と、アンデス山中を走る山の道とに分かれ、山の道は、すべてが帝国の首都クスコに通じるよう計画され、総延長は2万キロメートルにも達していました。むろん、部族数や外敵の多かったインカ帝国のことですから、広大な領土を支配するためには、あらゆる情報がクスコに集まり、すみやかに軍の移動が可能な道が必要だったのです。そのために、道は、峻厳な山中でも、幅員が1.5メートルはあり、敷石で舗装した道にしなければなりませんでした。
インカには文字がありませんでしたが、その代わりにインカを征服したスペイン人が詳細な記録(クロニクル)を残していますので、「インカの古道」についても、かなりのことがわかっています。それによりますと、「道の端には、遠くから引かれた水路が流れており、一日の行程ごとに旅人用のタンプと称する宿舎があった」と記録されており、かなり充実した道であったことがうかがい知れます。もっとも、旅人といっても、観光や信仰目的としての旅人ではなく、クスコと地方とを結ぶ情報・通信の重要な伝達者として旅であり、あるいは必要な場合は軍の移動が目的であったことは、いうまでもありません。
年代を考えますと、インカ古道の建設はローマの道からみれば、はるか後世になります。また、南米ペルー最南端に興ったティアワナコ文明(BC200~AC1300)の遺跡の中に、ヨーロッパをはじめ、アフリカあるいは東洋系の人と思われる人頭像のはめ込まれた石壁の遺跡のあることを考えると、その時期、大陸間の交流が皆無だったとはいえませんが、文化の面を含めて、ヨーロッパと南米との交流はかなり後世になってからですから、インカの道がローマの影響を受けたとは考えにくく、独自に建設されたと考えるべきでしょう。だとすると、アンデスの、海抜4000を超える山中に、いったいどのように建設したものなのか、技術者のロマンを駆り立てるものを感じさせます。
ローマの道、インカ古道と、世界にはすばらしい道が存在していました。その他にも、砂漠の中には、シルクロードに代表される「交易の道」、あるいはイスラムの聖地メッカ(正式にはマッカと表示)があり、ヨーロッパの山中には、キリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の道もありました。すべてが過酷な道ばかりです。それに引き換え、日本の道となると、照葉樹林帯に属す、日本の恵まれた自然環境の中で、せいぜい「東海道膝栗毛」や芭蕉の歩いた「奥の細道」を連想してしまいます。あるいは大名行列のゆっくりした歩みのための道ということで、たしかに大名の宿泊する本陣や宿場は整備されていましたが、道そのものは、石畳みの敷かれた道は少なく、いわゆる「道普請」された上を踏み均した程度で、排水もほとんどなかった道だったのではないでしょうか。
しかし、じつは日本にも、それも平安期以前に、軍事を目的とした人為的な高い仕様の道があったのです。そのことを、前月のトピックに書いた網野義彦先生の著『「日本」とは何か』で知ったときには、目からウロコが落ちる思いでした。驚きでした。

先生は、その著の中で「日本国」の成立は7世紀末で、弘仁14年(823年)には66カ国2島から成る国郡制を確立し、その制度は、明治以降、現代に至るまでほとんど変わっていないと書いています。そして、「日本国」は国を畿内(京都を中心に、今でいう首都圏)と七道の制度によって区別し、畿内を起点に東へ東海道、東山道、北陸道、西へは、山陰道、山陽道、南海道、九州の西海道の七道を計画的に造成したそうです。「道」は、国の広域的な行政区分であると同時に、実際の道でもあったというのです。しかもこの道は、計画的に造成され、道幅10数メートルに及ぶ直線道路で、一定の距離で駅を設置し、排水のための側溝があり、場所によっては路床をつき固めた、技術仕様でいえば、いわば重量物の往来に耐える道路であったようです。まさに、ローマやインカのクスコ同様、すべての道は首都である畿内へ結ばれる軍事的な目的で敷設された道だったのです。
さらに驚くことには、網野先生からの孫引きになりますが、木村良氏の研究によれば、道路は直線志向で計画され、山に突き当たると、その山の向こう側にも、こちら側の道路の延長上に道があったのだそうです(木村良『道と駅』)。山中の部分がどのような仕様になっていたのかについては、確証はありませんが、たいへん興味を惹くところです。この当時、日本国が対象とした軍事といえば、東方への諸道は東北人―「蝦夷」との戦争のためであり、西方への道は新羅と戦うために朝鮮半島への進攻を前提にしていたと、網野先生は書かれています。戦争のために人員や物資を迅速に輸送、移動させるには、天候に左右される不安定な水上交通は避け、道路そのものも最短距離を選んだというのも、しごくもっともなことだといえるでしょう。しかし、8世紀前半になって、軍事的に安定してくるとともに、こうした国家意識に基づく人為的な道路は100年も保ち得ないで、いつの間にか姿を消してしまったのです。平和な時代にあっては、重量物の輸送が必要となる経済活動のためには海上を利用した方が効率よく、日本列島の自然を考慮すれば、生活の道として多用された河川交通も加えて、交通体系の基本は一貫して海上・河川の交通となり、陸上の交通は主として人馬のみによる補助的な交通路としての存在でしかありえなかったのです。
10数メートルもあった道路の幅員は、平安期には、すでに6メートルほどにせばまり、道路側溝もなく、締め固めもされていない、いわば江戸時代の道中膝栗毛や芭蕉の奥の細道に見られるような道に変じてしまったのですが、今でも、平安以降あるいは江戸期の古道に並行して、それ以前の道とおぼしき石畳の遺跡が発見されるようです。道一つとっても、古代へのロマンを駆り立てられます。
(平成21年 11月)
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