終戦前後のこと

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9月・10月と2号にわたって5人の識者が書き残した昭和20年の日記について書いてみました。その中では書きませんでしたが、書いているうちに、どうしても書いておきたかったこと、そして、自分の記憶に残る終戦前後のことについても、今のうちに残しておきたいという気になり、今月、補足することをお許しください。
はじめの、どうしても書いておきたかったことは、識者のうちの一人、山田風太郎氏の日記の8月14日(終戦前日)に書かれたつぎの記述についてです。「飯田の町に鬼気が漂いはじめた。これは半ば取壊した疎開の建物から発するものに相違ない。しかし飯田全市民、二里外に退去せよという命令のために、そうでない町にも名状しがたい鬼気が流れている。灯のない町に凄みのある半月だけが美しくあがる」。これを読んだだけでは、大方はべつにたいして意識することもなく、そのまま先へ進まれてしまうことでしょう。しかし、わたしには、「はは〜ん、あのことか」、と思いあたるふしがありました。ご存知の方も多いかと思いますが、戦争が終わる1年ほど前、日本政府は本土爆撃そして本土決戦が現実味を帯びてくることを予想し、天皇の御座所を信州松代に移すとともに政府機関の移転計画、いわば日本の遷都計画の実施に踏み切りました。それに基づき、信州(長野県)では「一業一社」の制度が導入されたのです。簡単にいえば、軍の主要工場はむろんのこと、各種業界の技術に優れた一企業に声をかけ、信州に疎開させることにしたのです。端的にいえば、そうすることによって自給自足ができるようにし、本土での持久戦に耐えうるように考えたわけです。この話は、拙著『陸軍員外学生』執筆中に、知人のお父上からお聞きし、かつその方の著『不撓不屈の魂』で詳細を知ったのです。この施策に沿って、戦後になってから巷間でも知られるようになった陸軍登戸研究所もその一部は御座所の松代に近い北安曇郡松川町へ、一部は伊那谷に分かれて疎開しています。おそらく、飯田市へも何らかの軍の施設の疎開が考えられていたのかも知れません。そのために、山田が記したように飯田全市民が退去するよう命令を受けたのでしょう。市民の住宅撤去が始まったのは8月9日のことで、彼はこのように書いています。「飯田市内にもついに建物疎開始まる。白日の町に埃まき上げ、各所に嵐のごとき家屋除却作業始まる。学生皆動員さる」*1。本土防衛という美名のもとに、現に生活している家屋の住民を退去させ、強制的に疎開という名目で家屋の取壊しをする。それも、大都市でもなく軍事工場もあったわけではない飯田市で、どうして住民が町から追われなければならないのか、そんな不条理なことが許されていいものなのか。それでも住民は、「お国のため」に泣く泣く飯田をあとにして散って行ったのでしょう。その口惜しさは怨念となって、その地にしがみつくように残ったに違いありません。もとより一医学生にすぎない山田が、「一業一社」といった秘密裏に進められた軍の施策を知りようはずもありませんが、鋭い感性をもった彼は、家も住人もいなくなった飯田の町に名状しがたい鬼気を感じ取ったのだと思います。

小学校低学年時の通知表・通知簿

つぎは終戦前後のことに関してのわたしの記憶についてです。とはいっても、たかだか8歳の少年の記憶ですから、たいしたことはありません。いままで幾度かにわたって記しましたが、わたしは戦時中に群馬県の安中に疎開をしていました。安中は3万石の城下町であると同時に中山道の宿場町で、西に妙義の、高さこそないものの峨々とした山容を見、北には榛名のなだらかな稜線、その右手に赤城山と、上州三山を仰ぎ見、さらに妙義の右手にはいつも煙をたなびかす浅間山、左には軍艦を思わせる荒船の奇形と、毎日見ていてもあきない眺めでした。そして、町に並行するように、南に碓井川、北に九十九(つくも)川が流れる美しい自然にめぐまれた町でした。終戦を迎える年のはじめ頃からだったか、通っていた国民学校へも100名ほどの兵が校舎に駐屯するようになっていました。それとは別に、春先になってからは、わたしの疎開していた大泉寺*2の本堂へ3人の兵隊さんが宿泊するようになりました。1人の士官と2人の下士官でした。まことに奇妙な兵隊さんたち*3で、軍刀以外に武器らしいものは所持しておらず、どちらかといえば、戦時下なのにただ部屋でぶらぶらしていたような感じでした。わたしが覚えていることは、夜になると、灯火管制された町中を、彼らについてよく歩いたことでした。どこを歩こうがとがめられる心配はなく、おもちゃの刀を軍刀まがいに腰につるして兵隊さんについて歩くことは、たまに学友に見られようものなら、まさに得意がったものでした。もう一つ覚えていることは、学校が引けたあと、よく近くの山へ連れて行ってくれたことです。安中駅のちょうど北にあたる天神山(海抜323メートル)の周辺だったと思います。古い廃坑と思しき場所へ何度も足を運んでおり、子供心にも何かを調べているのかなとは思いましたが、むろん実態は知りようはずもありませんでした。今にして思えば、米軍の上陸を許し、関東平野を制せられたとしても米軍を山岳地帯へ引き込み、要塞化した長野県と一体になって戦うための陣地づくり、そして一大作戦を展開する上で必要な物資の隠匿場所の確保、などを調査していたのだろうと推測しております。
8月15日、この日がどんな天気だったか、わたしは記憶にありません。それにこの日の朝、ぐうぜん父が東京から来ておりました。寺の本堂に置かれたラジオの周りには、3人の兵隊さん、寺のご家族や身を寄せていた人たち、それにわたしを交えて10人ほどの人がいたでしょうか。父母は2階から降りては来ませんでした。とうぜんのことながら、詔勅の内容はわたしにはまったくわかりませんでした。兵隊さんたちが、「負けたか。もう少し何とかなると思っていたがな」、と口にしたのを聞いて、日本が戦争に負けたことだけは理解しました。部屋にもどってそのことを口にすると、「そんなデマにまどわされちゃいけない」と、東京で銃後を護る警防団長を務めており、やや頑な性格だった父はわたしを叱りつけました。同じ屋根の下に住んでいた3人の兵隊さんは、翌日には姿を消していました。もともとたいした荷物は持っていませんでしたが、それにしてもすばやい行動でした。父も、おそらくすぐに東京へもどったに違いありません。東京には終戦の混乱の中、姉が留守居していたのですから。
終戦になったからといって、疎開生活は戦後もまだ続きました。生活していく上でもっとも困ったのは、やはり食糧の確保でした。このことは、戦後になってからさらに厳しくなったこと、子供心にもよくわかりました。父の生まれ故郷とはいえ、幼年期の貧しさから親しくしていた身内・親戚は少なく、どちらかといえば歓迎されざる者として冷たい仕打ちを受ける中で、まだ乳飲み子だった弟と食べ盛りの男の子をかかえた母はさぞやたいへんだったことと思っています。食料を求めて、秋間村(現安中市)や、町はずれの山間部である野殿方面への買い出しによく連れて行かれました。母にしてみれば、東京から持参した着物はほとんど手放したのでしょうが、それでも食べるものを確保できたときは、さぞほっとしたことでしょう。食糧難とともに今でも忘れられないのは、銭湯(公衆浴場)のことです。茶色に汚れ、およそ清水を沸かしたとは思えない浴槽の湯、その異様な臭さ。一人が湯から上がる際に生ずる間げきねらってわが身を湯船にすうっと潜らせるコツの習得、ほんとうにいやで、自家で入浴できる寺の人たちをうらやましく思ったものでした。後年わたしが、大きな浴槽でひとりのびのびと体を浸せる温泉好きだというのも、少年期のこのいやな経験のせいだったか、と思っています。
学校生活は、どうだったでしょうか。終戦の日がちょうど夏休み中だったこともあり、休み中の生活そのままに2学期に入ったせいか、わたしは自然の中で楽しく遊んだこと以外、学校生活のことについての記憶はあまり定かではないのです。遊びの中でとくに楽しかったのは川遊びでした。碓氷峠(群馬・長野の県境)近傍を水源とする碓井川、九十九川は安中の町はずれで合流し、高崎市内の烏川に流れ込む利根水系の河川で、碓井川は流れがはやく、荒々しさがあったのに反し、九十九川はゆったりと流れる、といった対照的な違いがありました。どちらの川でもよく遊びましたが、寺から近く、流れのはやい碓井川のほうが子供の冒険心をくすぐったものでした。台風でも来ようものなら、流れは激流に変じ、前日まで架かっていた橋も姿を消してしまい、本来なら近づくべきではないのでしょうが、そこは遊び慣れた川だということで、流れに乗って興ずるような無謀な遊びもしたものでした。川遊びと並んで、薪採りという実用面をかねて近くの山へも戦時中からよく入っていました。戦時中は見合わされていた遠足も復活し、秋間の梅林へ遠足したことを覚えています。それと運動会も経験しました。町に唯一の小学校でしたから児童数は多く、荒船・妙義・榛名・赤城・武尊といった近傍の山々の名を取った組に分かれて競い合い、にぎやかな応援合戦だったことを覚えております。
戦後になって、町中の様相は明らかに変わったように記憶しております。8月中から9月にかけては、近くの学校・寺に分散・駐屯していた陸軍の下級将校自裁のうわさが耳に入るようになり、どこから流出したのか、軍の装備品が街で見受けられるようになりました。進駐軍の姿を見るようになったのは2学期の始まったころで、学校に駐屯した1分隊ていどの兵士だったと思います。井上の日記では、9月になってはじめて銀座で見たと記していますから、時期としてそんなには変わらないことになります。内陸部へ一斉に進駐したのでしょう。はじめて見たジープの軽快さにはびっくりしましたし、何もかも米軍の姿はスマートでした。将校が野暮な軍刀(サーベル)を下げていなかったことも驚きでした。その頃の日本の警官はまだサーベルの音をジャラジャラさせていたと思います。戦時下で自由が束縛されていた暗い世相が、秋に入ると、その呪縛から解き放されたかのように活動を始めたかのようでした。目立った動きがいくつかありました。上州という土地柄からか、学校の講堂などで、『八木節』の町対抗の演奏会が開かれるようになりました。あの歌声を聞いただけで、「平和だな」という思いがつよくしたものです。歌声といえば、町にどさ回りの劇団が来たとき、母が近くの劇場(だったか?)へ連れて行ってくれました。舞台の内容は覚えていないのですが、女性歌手が唄った『長崎物語』、例の「赤い花なら曼珠沙華 阿蘭陀屋敷に雨が降る ……」という歌だけはよく覚えています。透き通るようなきれいな声で、子ども心にも、「なんてすばらしいのだ!」、とうっとりしたものでした。屋台囃子*4が街中を練り歩いたことも、よく覚えています。2,3台の屋台が2晩ほど出たと思うのですが、太鼓と笛のにぎやかな囃子、わたしは二晩屋台について練り歩きました。疎開してきたよそ者は引き手の中に入れなかったのか、ただ見ていただけのような気がしているのですが、安中での生活の中で、あんなに浮かれて、楽しかったことはなかったように思えます。平和を迎えた喜びが満ちあふれていたようでした。軽快な囃子のリズムは今でも耳に残っており、口ずさむことができます。
安中から東京へいつ戻ったのか、家財などはどうしたのか、わたしの頭の中はまったく空っぽで、覚えがありません。自分では年内に戻ったような気がしていたのですが、手元に残っている通知簿(表)では、翌年の第3学期まで安中に在籍していたことになっているのです。この稿を記しているとき、ふと高崎・少林山*5の「だるま市」のことを思い出しました。たいへんにぎやかな市だと聞いていましたので、ぜひ行きたいと思っていたのですが、連れがいないという理由で行きそびれ、悔しい思いをしたことをいま頃になって記憶がよみがえったのです。だるま市は正月七草のときですから、やはりわたしは学年終了時まで安中にいたのでしょう。こう記述しながらでも、いまなお信じられない思いです。帰京の日、列車が東京へ近づくにつれ、目に飛び込む無残な焼け跡、上野駅構内にたむろしていた同世代の浮浪児たちの、目を覆いたくなるような姿、そして新橋・品川と自宅に近づくに連れて目にした闇市の見慣れぬ光景など、今なお目に焼き付いております。
(注1)建物の疎開命令は13日になって突然中止命令が出されたようです。山田は原爆投下のせいだと記述しています。
(注2)安中藩は、いまテレビで話題の井伊直政の庶子直勝の立藩で、わたしの疎開先だった大泉寺には直勝と生母東梅院の墓があるそうです。
(注3)この兵隊さんについては、企業OBペンクラブの同人紙『悠遊』(第2号1995年刊)に掲載しました。
(注4)このときの屋台囃子について安中市観光機構へ問い合わせたところ、9月に催される熊野神社の祭礼で、現在は隔年で催される「あんなか祭り」に引き継がれているそうです。
(注5)少林山は、ドイツの著名な建築家ブルーノ・タウトが住んだ「洗心亭」のあることでも知られています。

    

(2017年11月)

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