昭和20年の識者の日記(2)

山田風太郎『戦中派不戦日記』

8月15日の詔勅は、識者それぞれの思いで受け止めています。この日、荷風は谷崎潤一郎が疎開していた岡山県・勝山から自身の疎開先であった岡山に戻る車中にいました。それでなくてもラジオの嫌いな彼のこと、正午の放送のことまったく知らなかったようです。「駅ごとに応召の兵卒と見送人小学生生徒の列をなすを見る。(中略)農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る」と、まだ戦争継続中であるかのような、あるいは戦時中だったとは思えないような、いたってのんびりとした記述が見受けられます。彼が終戦を知ったのは、2時過ぎに岡山の宿に着いてからでした。荷風はこう記しています。「今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。いかにも荷風らしく、戦の終わったことを祝う気持ち行間からあふれています。
高見の日記は5ページにわたっての記述ですが、感情を抑えて淡々と小説風に記されています。彼は放送を聞いたあと、戦火の下でもよく出かけていた東京へ出ていますが、この日の記述から、いくつかを拾い出してみます。「夏の太陽がカッカと燃えている。眼に痛い光線。烈日の下に敗戦を知らされた。蝉がしきりと鳴いている。音はそれだけだ。静かだ」、「電車の中も平日と変わらなかった。平日よりいくらかあいている」、「新橋の歩廊に憲兵が出ていた。改札口にも立っている。しかし民衆の雰囲気は極めて穏やかなものだった」。終戦の日、いたって平穏な様子だったことが知れます。この日の前日から、宮中、陸軍上層部、海軍厚木基地などで内乱ともいえる一大騒乱*1の起こっていたことなど、国民は知るよしもなかったのですから。
山田はこの日、学校が疎開していた長野県・飯田で暑いのを我慢して、制服の上着をつけ、12時の放送を待ちました。ちょうど皮膚科の講義中でしたが、教授に頼んでやめてもらったようです。じつはこの日の日記には、「帝国ツイニ敵ニ屈ス」としか記されていません。感極まってしまったのでしょう。代わりに、翌日になってから、あらたまって「八月十五日のこと」として18ページにわたる長文を記載しています。その中で、詔勅を聞いての彼の気持ちの高ぶりが感じられるところを、何か所か引き出してみます。「『〜その共同宣言*2を受諾する旨通告せしめたり。…』真っ先に聞こえたのはこの声である。その一瞬、僕は全身の毛穴がそそけ立った気がした。万事は休した!顔が白み、唇から血がひいて、顔がチアノーゼ症状を呈したのが自分でも分った。『〜戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また吾に利あらず。…』何という悲痛な声であろう。自分は生まれてからこれほど血と涙にむせぶような人間の声音というものを聞いたことがない。『〜かくの如くんば、朕何を以てか億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。…』のどがつまり、涙が眼に盛りあがって来た。腸がちぎれる思いであった」。わたしは、いままで詔勅を聞いた感想をここまで赤裸々に述べた例を知りません。

井上太郎『旧制高校生の東京敗戦日記』

識者の中でもっとも若かった井上はどうであったか。彼は4、5人の友人と学校近くの家へ行き、その家の家族と共にラジオの前に正座して聞いたようです。「開け放たれた茶の間には油蝉の声が遠慮会釈なく入ってくる。天皇の声が聞こえて来た。それは通常の人の声のようには思えない不思議な抑揚を持つ、甲高い声だった」と記しています。そして、 山田と同様に、共同宣言を受諾と聞いたところで、「読み上げられた内容は極めて重大なものであり、結論は明快であった」と断じています。じつは、彼の日記を読んでいてはじめて知ったのは「五内(だい)*3為に裂く」という言葉です。「苦しみのあまりに体が裂ける」という意味だそうですが、詔勅の中では「〜帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉し非命に斃れたる者及其の遺族に想いを致せは五内為に裂く……」と読まれていたそうです。この時代でのこの言葉、重いですね。戦時中、軍からこんな言葉が発せられたなんてこと、一度でもあったでしょうか。彼の日記は、「ここに来て誰かが体を震わせて慟哭し、それにつれて何人かが鼻をすすった。私は涙よりも額に吹き出てくる汗を感じた。私の心には「五内為に裂く」という言葉が刃のように突き刺さり、うずいた」と記されており、「あゝ一切は終わった。しかし見えざる戦、祖国再建への戦は今より始まったのだ。泣け、涙の尽くる迄泣かう。その後には湧然として新たなる力の湧き出づるを知るだろう」で締めくくっています。さすが現役の旧制高校生、若者らしい純粋さが感じられる素晴らしい日記です。
以上が、詔勅を聴いた識者の、いわば民間人としての記です。これに対し軍人はどうであったのでしょうか。たまたま自分の執筆の関係で存じ上げていた元陸軍中佐の十川透氏*4の日記をご遺族から見せていただきました。市販の日記帳に毎日こまめに書かれていましたが、8月15日は詔勅について一切ふれておらず、16日になって「平常通リ登庁セルモ薩張リ張合ナシ」と書かれているだけです。いまだ経験したことのない旧日本帝国の敗戦にあたり、技術系の軍人ではありましたが、その気持ちはこれ以上書きようがなかったのでしょう。

末延芳晴『荷風のアメリカ』

8月15日以後の戦後のことについて識者はどんな思いでいたでしょうか。ただし、終戦の日に東京に住んでいたのは若い井上だけ、この日を含めてその後の1、2か月の東京の空気を実際に感じ取っていたのは、高見もしばしば上京はしていましたが、厳密には井上だけなので、彼の日記から引用いたします。皆さんもよくご存知のように、連合軍総司令官マッカーサー元帥が厚木へ降り立ったのは8月30日、その日のうちに横浜へ入りました。しかし、その2日前に先遣が厚木に入ったことについては、新聞には報道されたものの、一般には知られていません。井上は先遣隊という言葉こそ使ってはいませんが、28日に「愈々進駐の日である。朝から戦闘機の他大型機も多数飛ぶ。あのB29が超低空で盛んに飛び廻るのを見て全く感無量であった。C54も見た。望遠鏡で見ると乗っている奴まで見えた」、としっかり書き残しています。その彼は、終戦とともに、好きな読書、音楽・映画鑑賞など、待っていましたとばかり活動を始めています。8月の記述だけから引いても、読んだ本、倉田百三『愛と認識からの出発』、R.ロラン『ジャン・クリストフ』(第6巻、第7巻)、藤岡由夫『物質の究極』(友人から借用)など、音楽鑑賞として日響(日本交響楽団 現N響の前身)の切符を銀座で購入、映画鑑賞は『戸田家の兄妹』、『暖流』を観に行ったりで、驚くほどの活動ぶりです。鬱積していたものが一気に吹き出たのでしようが、あの混乱していた中で、「えっ音楽会へ!」の思いもします。9月1日(土)の日記には「月更まり新日本建設の新たなる歩み始まる」と、敗戦国日本の新たなる建設の始まることを高らかに宣言しております。そこには、これからの日本を担うのは「我ら若人だ!」と言わんばかりの自負心が感じられます。日記ではそれに続いて、「今日から放送も戦前に帰へり第二放送が再開された。さっそく名曲鑑賞をきいた。まづベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、次に日響がモーツアルトの『ジュピター』をやる。腹わたにしみわたるやうだ」。音楽好きの井上にとってはたまらない思いであったのでしょう。その後も入手したチケットで日比谷公会堂での日響のコンサート(尾高尚高指揮)を聴きに行ったり、クラシック以外でもスウィングなども聴いており、三根耕一(ディック・ミネ)の名前も出てきます。だ、ジャズは低俗な敵性音楽だという意識から抜け出せなかったようでした。知識人の一人だった彼のこと、ミズーリ艦上で行われた降伏文書調印式についても触れ、「〜しかし(敗戦の)最大のミスは、アメリカの挑発を見抜けなかったことと、日本は神国だから絶対に負けることはないという精神主義に凝り固まって、国民を犠牲にしてもそれを押し通そうとしたことである」と結論づけています。そして、戦争犯罪人のうわさがちらほら出てきている時節柄、開戦時首相だった人物の自殺未遂に対して、「死しても虜囚の辱を受くるなかれと兵士に強いた当の本人ではないか」、とそのぶざまさをはげしく断じています。日記を読んでいて「ふん、ふん」とうなずけたのは、戦後ひどかった例として、?電車の混雑、?夜の停電、?食糧危機、を挙げていたことです。たしかに公共交通の混雑はひどく、彼は通学に利用していた井の頭・小田急線を例に「殺人的」とか「座席は座る場所ではなかった」と記しています。停電もあたりまえ、通電されていても電圧不足で電灯は暗く、読書好きな井上は不自由したことでしょう。それと食べ物のこと、育ち盛りだったわたしにとっては、「戦後イコール空腹」の思いでいますが、そんな中でもどうしても口にするこ]とのできなかったのが、「みかんの皮入りのご飯」、給食に出されたサメの一種なのでしょうか、臭くてくさくて、どう考えても人間の食べるものとは思えなかった魚でした。その他で井上日記に記されたキーワード、あるいは印象的なフレーズなどを書き出してみますと、こうなります。「特攻(予科練)くずれ」、「冠水いも」(わたしも茨城一号のまずさが記憶にのこります)、「インフレ」(貨幣価値の下落などウソみたいでした)、「交換本」(本購入のためには代わりの本を用意する必要があった)などがあります。本に関しては、「神田巌松堂で交換ではなく『化学実験学反応編』を見つけた時は嬉しくて胸がドキドキした」という、いかにも本好き、それも自分の専攻する専門書を手に入れた井上らしい記述があります。10月末になると、はじめて迎えた旧制の東京高校生の記念祭(前年は戦時下で中止)の記述が多くなり、彼もまた白線入りの学帽、朴歯(高げたのこと)をはいて黒のマントをひらめかす、といったいで立ちをしたようです。バンカラと称された、旧制高校生の象徴的なこのスタイル、わたしも小学校上級生のころ、学校に訪ねてきた先輩のこのスタイルにえらくあこがれたものでした。その他、彼の記述の中で興味ぶかいのは、1月18日(日)、神宮球場に4万5000人の観衆を集めて早慶戦が行われたこと。よくぞ集まり、よくもまあ収容できたな、の思いをつよくします。わたしもご多分にもれず野球少年で、早稲田の岡本投手(残念なことに早逝)が大好きで、また、のちに中日の大投手になった杉下が、明治の1年生のころはスラッガーとして注目されていたと雑誌で紹介されていたことなど、いまでもよく覚えています。同じ日の日記に、相撲は国技として戦時中も保護されていて、戦後の初場所は羽黒山が全勝(10勝)で優勝したことが記述されており、このこともわたしはよく覚えております。戦時中は、あるいはもっと前からだったか、双葉山の全盛時代で、悪役だった横綱男女(みな)ノ川も小憎らしいほどつよかったですね。大晦日、彼の日記は「いよいよ昭和二十年の最後のゴールだ。(中略)皆で年越しそばをたべる。互に無事あの空襲の地獄を切りぬけて来たのを喜ぶ」と書き初め、「この年は暮れたが、戦後の混乱はようやく始まったばかりであった。敗戦の痛手が深刻になるのは、年が明けてからである」、さらには「電圧が低い中、ラジオで紅白音楽合戦をきき、歴史はじまって以来の多難な波瀾万丈の昭和二十年は鳴り渡る百八つの鐘と共に過ぎて行く。又之は新日本のあかつきを告げる鐘である」と記し、締めくくっています。井上太郎の日記は、次世を担う若者として、あくまでも明日の日本を見すえていたようです。
(注1)大宅壮一(半藤一利)編『日本のいちばん長い日・運命の八月十五日』にくわしい。
(注2)共同宣言とはポツダム宣言のこと。
(注3)五内とは五臓のこと。
(注4)十川透元中佐は陸士42期・員外学生として東京大学卒 戦時中はスマトラ島・パレンバン陸軍第2製油所長を経て終戦を府中の陸軍燃料廠で迎えた。ちなみに中佐は、わたしが社会人になったとき、会社の上層部におられた。

    

(2017年10月)

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