わたしと世界遺産(1)
―中南米・アジア編―

キト旧市街 ラ・コンパーニア聖堂

南米に長期赴任することになったとき、帰国の際には、そのころすでに雑誌などで知っていたガラパゴス諸島、そしてマチュピチュへはぜひ行ってみたいと思っていました。1975年のことで、その3年前のユネスコ総会で「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約(世界遺産条約)」が満場一致で成立し、アメリカなど20か国が条約を締結し、正式に発効した年のことでした。その3年後の1978年に世界遺産第1号としてガラパゴス諸島など12件が登録リストにのりましたが、そのころは世界遺産のことなどまったく知りませんでした。日本が条約を批准したのは1992年のことで、こと世界遺産に関してはまったく後進国だったわけで、あまり関心がなかったのでしょう。その意味では、世界遺産を意識してその地を訪問したということはほとんどなく、わたしの場合、そもそもが仕事で訪問した国で、たまたま訪れた所が世界遺産に登録されていたか、されることになったということなのです。それでも結果として30ヶ所を超える世界遺産を訪れることができましたので、3回にわたって、ご紹介することにいたします。とは申せ、意図して訪ねたわけでないので、準備不足であり、回ごとに訪問先一覧を挙げ、写真数葉と印象に残った遺産についての寸評を書くだけにとどめることでお許しください。

クスコ郊外・サクサイワマン城址にて

世界遺産一覧             登録年度
エクアドル:
1)キト旧市街            1978年
ペルー:
2)クスコ市街            1983年
3)マチュピチュ歴史保護区      1983年
複合遺産
メキシコ:
4)メキシコシティ歴史地区      1987年
5)古代都市テオティワカン      1987年
6)メキシコ国立大学キャンパス    2007年
サウジアラビア:
7)ジェッダ歴史地区         2014年
ウズベキスタン:
8)サマルカンド文化交差路      2001年
9)ブハラ歴史地区          1993年
(注記)特記なきは文化遺産です。

テオティワカン・太陽のピラミッド

キト旧市街:世界遺産リスト第1号登録12件にはエクアドルから2件が入っています。同国の条約批准が早かったことが大きな理由なのでしょうが、素人考えからも、ガラパゴス諸島は、しごく当たり前の気がします。しかし、もう1件のキト旧市街も、古くから開けた街であり、街の中央に位置する独立広場を囲むように、カトリックの主要な修道会(イエズス会、ドミニコ会、フランシスコ会など)の聖堂・修道院が建ち並ぶ姿は互いにその壮大さを競っているかのようであり、壮観そのものだと言えます。会派によって建築様式もルネッサンス、バロック、そしてムデハル(イスラム・キリスト教の融合様式)と多彩であり、まさにスペイン人移住後の南米におけるキリスト教布教の中心地として、また、アンデスの険しい山並みを走るインカ道を歩く巡礼者の最終目的地として世界遺産にふさわしいところだと言えるでしょう。
南米最古のサン・フランシスコ聖堂(16C半ば)は、わたしにとって海外最初の寺院で、のちに知ったヨーロッパの最終巡礼地サンディアゴ大聖堂を彷彿とさせるものがありました。たまたまエクアドルへ来られた会社の上司を案内したラ・メルセー聖堂ではちょうど昼のミサが見られ、パイプオルガンの演奏と聖歌も聴くことができた上に、案内人と屋上まで上がり、パティオ(中庭)を見下ろせたというラッキーな経験をしました。行きたいと思っていたガラパゴス諸島へは、当時は船が予約制の不定期便であり、宿泊は船だけという不便さで日数がかかり、日本への帰国途上に寄れるような環境ではなかったために断念しました。同じ現場の仲間うちで行けた人は皆無だったのではないでしょうか。
クスコ・マチュピチュ歴史保護区:ガラパゴスへ行けませんでしたが、念願のマチュピチュへは帰国時を利用して行って来ました。ロスまで家族を呼んでいましたので、それに間に合わせねばならず、ほんとうに慌ただしい旅でした。マチュピチュへ行く前日にクスコ郊外のサクサイワマン城址を見学しましたが、巨石の石積み技術には驚愕しました。近くで「寅さん」こと渥美清さんがTV撮影をしていましたが、マチュピチュへの車中でも一緒になり、「寅さん」の、周囲を和やかに包み込む人柄は印象的でした。マチュピチュは感動の一言で、他の言葉は出てきません。同じ感動は、のちになってアメリカのグランド・キャニオンで味わうまで経験できませんでした。

メキシコ・大学都市中央図書館

メキシコ旧市街・古代都市テオティワカン:南米への行き来の途中で、中継地メキシコシティには何回か立ち寄りました。南米へ向かう便、日本へ帰国する便それぞれの接続の関係で、1泊するか、ときには2泊ということもありました。その時間を利用して旧市街地をぶらりとしたり、観光バスでメキシコシティから50キロほどの古代都市テオティワカンの遺跡へ行ったりしました。当時はまだ知識は皆無でしたが、紀元前から6世紀ごろまで栄えた都市国家で、壮大な神殿・宮殿が立ち並び、その大きさ、人口共に、ローマ帝国の都市を上まわるものだったようです。高さ65メートルの太陽のピラミッドへ登り、その頂部で、これだけの大都市がどうして廃墟になったのか、古の謎にしばし思いをはせたものでした。
メキシコ国立大学キャンパス:学生時代にこの大学の建築学の教授が来学した折、その講演を聴いたことがありましたが、まさか自分がそこへ来られるとは夢にも思っていませんでした。大学創立は1551年(上杉・武田の川中島の戦いのころ)で、ペルーのサン・マルコス大学と同年、米大陸で最古の大学です。トランジット利用での訪問なので時間がなく、壁画で有名な中央図書館の周辺だけを歩いただけでしたが、そこが世界遺産に登録されるとは、思いもよりませんでした。

ジェッダ旧市街に残る古い建物

メッカへの玄関・ジェッダ歴史地区:イスラムの聖地メッカへの入口ということで、ジェッダ旧市街が世界遺産に登録されたのはつい最近、2014年のことです。わたしが同市に滞在したのは、もう30年以上も前のこと、世界遺産といわれてもピンとはきません。ただ、同市は古来「紅海の花嫁」と称された古い都市であり、現在でもなお、トルコの影響を受けた古い木造の格子窓を残した建物が残っており、それが評価されたのでしょうか。アラビアのロレンスは自著『知恵の七柱』の中で、この街についてこのように書いています。「それは本当にすばらしい町であった。(中略)家屋は四階建てか五階建ての石灰岩造りで、地面から屋根まで各階ごとに灰色の羽目板を張った大きな弓形窓が突き出て、立派な格子の窓がたいへん多く、窓框の鏡板には丹誠をこめた浮彫りが見られることもある」(東洋文庫)。世界遺産登録にふさわしいジェッダ旧市街の姿がおぼろげながら伝わるのではないでしょうか。

サマルカンド・レギスタン広場にて

文化の交差路・サマルカンド:中央アジア・ウズベキスタンという国を一言で表現する場合、「青く煌めく」という修飾語をつけます。空の青さ、ドームの青、壁タイルの青など、ウズベキスタンという国、まさに青く煌めいています。青の都サマルカンドは、さらに「東方の真珠」という枕詞がつきます。1906年4月、そのサマルカンドの中心であるレギスタン広場に立ったときの、胸を締めつけられるような感動は、マチュピチュで味合った感動そのもの、アメリカ・グランドキャニオンで受けた感動以来18年ぶりのことでした。広場から北へ1キロのところの、モンゴル軍によって徹底的に破壊されたアフラシャブの丘、その茫漠とした丘の南麓に11の廟から成るシャーヒズインダ廟群の聖地があります。その中でも、イスラムの預言者ムハンマドの従兄クサム・イブン・アッバ―スの廟は、さほど大きな空間とは言えませんが、中にいるだけで宗教の有する「荘厳」を感じさせるものがあり、身が引き締まる思いでした。宗教の違いはあれ、「荘厳」には共通するものがあることを実感した瞬間でした(2010年6月号「サマルカンド」参照)。
聖なるブハラ歴史地区:首都タシケントに近いサマルカンド(それでも車・列車ともに約4時間)へは2回行きましたが、ブハラとなると、やはり飛行機ということになります。最後の5回目の訪問時にようやく実現しました。それも、通訳としてタシケントでお世話になっていたDurbek博士の案内、現地ブハラでは博士の奥さんの学友だという医者のUmar博士のサポートつき、2人の博士という豪華なメンバーに付き添われた旅でした。ブハラ市内では雲一つない40℃の炎天下を水なしで10数キロも歩かされましたので、ウマル博士の病院にたどり着いたときには熱中症で完全にグロッキー、医者が付き添ってくれたのは、そのことを予期しての通訳の配慮だったのでしょう(2010年9月号「熱中症」参照)。ブハラには、中央アジアのモスレムにとっては大切な聖人バハウッディンの廟があることからメッカに次ぐ聖地とされ、そのため訪れる巡礼の姿が絶えないと言われております。空港ではパキスタンからの巡礼の姿が多く見られましたが、ジェッダと異なり、白衣より平服姿が多く、それでもモスレムの巡礼団を見るのは久しぶりのことでした。
(注記)掲載した写真のうち、キトのラ・コンパーニア聖堂は市販の絵葉書から、ジェッダ旧市内の古い建物は公刊の写真集から引用しています。

  

(2015年10月)

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