ベルベル人(2) カビリーの乙女

カビリーの乙女

                              イスラムの教えでは、女性は家庭を守ることこそが本分だとされており、イスラム諸国、とくに中東諸国での女性の就業はかなり限られています。わたしが滞在していたサウジアラビアなどは、その最たる国でしたが、最近ではコンピューター・ソフト会社に女性経営者が出現する例など が出てきているようです。とはいえ、そんなケースはまだ例外的で、女性の就業が限られている実情にはさほど変わりはないようです。それとの比較でいえば、北アフリカ・マグレブ三国での女性解放の度合いははるかに進んでいます。10年ほど前のデータですからやや古いですが、アルジェリアでの女性就業率は24パーセントで、 他の2国チュニジア、モロッコはさらに高い数字です。高等教育を受けた女性も増えており、アルジェリアの場合、中・上級管理職や、大学・研究職に占める女性の割合は全体の30%と高く、この数字を見る限り、日本より高いような気がしております。独立戦争当時、イスラム教徒としてすべてに控えめなアルジェリア女性が、 ベールをかなぐり捨てて、カーキ色の軍服を着て戦場を駆け巡ったその果敢さが、あるいは、今日の女性の地位を勝ち取ったといえるのかもしれません。

作業中のサミアさんと彼女の同僚

アルジェでは、わたしのまわりに何人かの働く女性がいました。システムエンジニアのサミヤは、カビリー地方・ジュルジュラ山系のふもと、ア・エル・ハンマーム(トルコ風の蒸し風呂のこと)の出身者で、美人というよりは、愛くるしいファニー・フェイスで、笑顔が何とも素敵でした。 彼女は、カードリーダーでドアの開閉をコンピューター管理するシステムを担当していたのですが、なんとも頼りなく、発注者としては不安を感じ、なんだかんだと口出していたところ、一度はプイッと外へ飛び出したことがありました。外へ出た彼女、ノートを片手に、空を見上げるつぶらな瞳にうっすらと涙を浮かべていました。 何日かして、トラブルを解決し、システムは順調に作動しましたが、カビール女性の優秀さ、そして粘り強さには舌をまいたものです。もっとも解決の影には、同じカビール出身の熟練の電工ナセルの豊かな経験の手助けがあったわけですが、会社こそ違え、カビール同士のつよい結束力を感じたものでした。 それにしても、愛くるしい顔をしていても、後述するようなきびしい掟の中で育ったカビリーの乙女の芯のつよさは、さすがなものでした。サミヤの同僚のシステムエンジニアも女性でしたが、4〜5人の男性作業員を顎で動かしていましたし、国際的な配送会社DHLの警備部門の営業主任だったフィレさんも、たまに現場へ顔をだした折など 、散弾銃を手にしたむくつきガードマンたちを叱咤激励していったものです。アルジェリアでのキャリア・ウーマン、大活躍でした。

フィレさん(本人はイタリア系と言っていた)

こんなことを書きますと、アルジェリアでの女性解放は相当に進んでおり、職場でさっそうと働いているように思われそうですが、じつは、そうでもないのです。何かの本で、「ベルベル人の女性は現代世界に残された農奴だ」、と書かれていたのを記憶しているのですが、たしかに、なるほどな、と感じさせる一面はあるようです。 隣国チュニジアは他のイスラム諸国に先んじて一夫一妻制を定めた稀有な国で、他国からは「あの国はイスラムの異端者だ」、と称されます。アルジェリアもイスラムの国で一夫多妻制ですが、それは他の国も同じでやむを得ないと理解できます。しかし、この国の場合は、1984年に制定された「家族法」によって、女性は著しく不利な扱いを受けているのです。 たとえばこんな風に、です。枕ことばを「女性は…」として以下につづけますが、成人になっても自分の意志では結婚できない、相続は男性の半分、妻の就職には夫の許可が必要、男性の付添なしでの海外渡航の禁止、などなどです。加えて、カビリー地方には固有の慣習があり、女性、とくに未婚の女性に対しては、中世がそのまま残っているといわれるほどに、 「家族法」以上のきびしい掟があるようです。

サフィアさんと彼女の弟さん

アルジェでわたしが住んでいた宿舎と同じ敷地内に、敷地のオーナーであるベンガナ家の庭師をしていたセラミ家が居住していました。セラミ家もカビリーで、当時、庭師はすでに亡くなっており、未亡人が二男一女の子供たちと住んでいました。家政婦として働く未亡人の細腕一つで二人の男の子を大学に通わせることはたいへんなことでしょうが、 そんな苦労はおくびにも出さない気丈な方で、若いころはさぞや美人だったと思わせる端正な顔立ちの夫人でした。しっかり者だけに、めったなことでは笑顔を見せず、少しとっつきにくい面があったのですが、これこそが典型的なカビリーの女性なのか、と感じさせるものがありました。娘のサフィアさんも母親ゆずりの美人でした。 愛想がすごくよいというわけではありませんでしたが、そこはまだうら若き女性、たまには白い歯を見せてくれたものです。日本人の仲間うちでは、彼女なら日本人と結婚しても十分やっていけるのではないか、などと噂をしたものでした。しかし、しっかり者の母親の躾はたいへんきびしく、妙齢の娘を、日中でも一人では外出させない、という噂が立ったほどでした 。むろん当時のこと、テロへの巻き添えなどを恐れたのかもしれません。そんな母親が、カビールの掟を破ってまで、異教徒や異民族の男との結婚を許すはずはないでしょう。きびしいのは母親だけではありません。父親とて同様で、いや、ある点でもっと真剣だったかも知れません。二人の父親の例を紹介しますが、むろんすべての父親がそうだとは言い切れませんし 、若い人には若い人なりの考え方もあったようなので、誤解をまねかないよう、そのことも併記しておきます。

女子高校生グループ(ショッピングセンターにて)

20歳になったばかりだという娘をもつ50歳ぐらいの工事監督ブラレスと食事を共にしたとき、わたしが発した何気ない質問に対して、彼は「娘の嫁ぎ先は、家長たる自分が先方の父親と決める」、ときっぱりと断言し、カビールとしての伝統的な掟が厳然としていることを示していました。大方の男性はこれに近い考えなのでしょう。 しかし、カビリーの山を離れ、アルジェのような大都市に職を持って住みついた若者の中には、そんな考えはもう古いと否定する者が出てきているのも事実です。ブラレスとの食事に同席していた同じ会社のダハマニーもそんな若者の一人でした。若者といっても、すでに30代にはなっていましたが、「若い二人が互いに好き合うなら、相手がカビールであろうがなかろうが構わないし、 親だからといって反対すべきではない」、としきりにブラレスをけん制していました。ブラレスのいうように、娘を他民族の男性とは結婚させないが、他部族から嫁をめとることはカビール社会でも許されているようです。そのこと自体、日本人から見ればたいへんな男尊社会と思われるでしょうが、イスラムの世界、とくに中東ではごく当たり前といえるのです。 カビール社会の場合、さらに、同じベルベル人でも部族(アールシュ)にこだわり、かつ、家長が絶対的に力を有するアハムと称する独特な風習が、まだ根強く残っているようなのです。前号で名前を出した警備官サブ・チーフのツバクはカビールで、わたしより少し年若でしたが、滞在中もっとも親しくしていた友人でした。共通の言語がないために会話には不自由しましたが、 ある日の雑談の中で、「じつは、俺の下の娘がカビールの男と一緒になったのだ」、と突然言いだしたのです。それはめでたいじゃないの、と、とっさにはそう思いましたが、会話に加わっていた彼の部下、オーレス山中のビスクラ(ワインの産地で知られている)出身のザミット(たぶんシャウイ族か)が、「へえ、世の中にそんな父親もいるの。 信じられない」、といかにもあきれたように言うのです。まだ独身だったザミットにしてみれば、カビールの男に娘を嫁がせるような危ない思いをするなら、自分にチャンスを与えてくれればよかったのに、と半ば冗談での会話のようでした。この会話、じつはわたしにはよく理解できなかったのですが、要は、こういうことだったようです。父親であるツバクにしてみれば、 ザミットのたたく軽口で済むような話ではなく、「いやぁ、結婚初夜で、娘の処女の証しがあって、ほんとうによかった」と、ほっとしたように語ったのです。もし娘が処女でなかったら、どんな仕置きが待ち受けているのか、父親としては、内心はそのことを恐れていたようです。カビリーの社会では、成人になっても娘の保護者は父親であり、父親がいない場合は男兄弟、そして結婚すれば夫なのです。 もし未婚の女性が妊娠したり、既婚女性が不義・姦通をした場合、保護者は自分の手で彼女たちを始末しなければならない掟が待ち受けているのだそうです。話が少しずれますが、アルジェリアでは、一時テロの嵐が吹き荒れましたが(わたしの最初の訪問時はその最中であり、現場事務所開設中にはだいぶ治まり、アルジェ市内でのテロはほとんどなくなっていました)、 テロ団に連れ去られ、レイプされたあげくに妊娠させられた女性も少なからずおり、彼女たちの悲劇は、単にレイプされたというだけにとどまらず、さらに掟が待っていたことだ、といわれていました。ツバクさんいわく、彼の奥さんは出血したことを示すシーツをご近所さんによく見えるように外へ干したそうです。

(2011年 11月)

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