ベルベル人(1) マグレブの獅子

独立記念塔

アルジェリアでは、例年11月1日午前0時を期して全土で一斉に礼砲がとどろきわたります。この国にとって一番重要な日、革命記念日です。 「マグレブの獅子」とうたわれるアルジェリア人にとって、フランスに対する独立戦争こそは、戦にあけくれた歴史のなかでも、面目躍如たるものがあり、忘れてはならない日なのです。1954年のこの日、アルジェリア北東部、2000〜3000メートル級の山々が屹立する山岳地帯、寒風吹きすさぶ漆黒の闇につつまれたオーレスの山中でとどろいた1発の銃声が、 その後8年もつづく独立戦争の発端となりました。現在、アルジェの市内を一望できる小高い丘に独立記念塔が建ち、内部は革命博物館となっていて、その地下室の中心に、はるばるオーレスから運び込まれた大きな岩が展示されています。その岩かげから発端となった銃が発射されたという記念すべき岩なのです。いずれの戦でも、つねに先頭に立って戦ってきたベルベル人にとっては 、いっそう感慨深い日だったに違いありません。

アルジェで、はじめてベルベル人だという女性を紹介してもらったときは、正直なところびっくりしました。ベルベル人が北アフリカの先住民だということは、アルジェリアへ行く前から案内書などで理解はしていましたが、先住民ということだけで、シェークスピアの作品によく出てくるムーア人のことだろうと思い、自分勝手に肌の色の黒い人を想像していたのです。 その女性は白人で、しかもすごく知的で、美しい方だったのです。よくよく調べてみましたら、ベルベル人は地中海人種に属するコーカソイド(白人人種)なのだそうですが、いくつかの亜人種に分かれ、地域差による多様性に富んだ民族で、サハラ砂漠に住むトゥアレグ族のような肌の黒い人も含まれているようです。したがって、わたしがベルベル人をムーア人と結びつけたことも、 あながち誤りだというわけではなく、アラブ化したベルベル人のことをムーア人と称しているようです。

勢揃いしたベルベル人5部族

現在、北アフリカに広く分布して生活するベルベル人は、推定人口1千数百万で、そのうち90%はマグレブ3国のうちモロッコ、アルジェリアに集中し、もう1国のチュニジアになると、わずか20万人ていどに過ぎないようです。以前、チュニジアのことを書きましたが(2011年3月「チュニジアという国」)、その際、チュニジアが「マグレブの乙女」と称されると述べた理由の一つが、ベルベル人の少ない点にあると思われます。さて、アルジェリアのベルベル人についてですが、国内のベルベル人の数は諸説あり、ベルベル人とはベルベル語を話す人という定義で推定すれば、総人口の20%ていど、約500万人といわれています。残りは、ヨーロッパからの移民などさまざまですが、ひとくくりにしてアラブ系と言われています。一口にベルベル人といっても、アルジェリア国内だけでも、大きく五つの部族に分かれます。長身で、ガンドゥ―ラという藍染め衣装を身にまとったサハラの住人トゥアレグ族、アルジェ市内で日常よく接することができるのは、アルジェの東南山岳地帯カビリー地方に住むカビリー族(以下「カビール」と称す)、そのほかに、オーレス山地に住むシャウイ族、アルジェの南のオアシス・ガルガイヤ地方のベニ・ムザーブ族、そして西部山岳地帯のシャヌウイ族です。それぞれの部族とも独立性がつよく、横のつながりは比較的弱いといわれています。とくにカビールはひときわその傾向がつよく、民族として、あるいは部族としてのプライドが高く、アルジェリア人の間でも、カビールというとベルベル人の中でも特殊なとらえ方がされるようです。

現場完成記念の 集合写真

アルジェでは、現地で40人ほどの人を雇用しました。いっしょに仕事をしていても、わたしたち日本人に対する反発心がつよく、言葉が通じないこともあって、相互のコミュニケーションを図ることに難儀しました。それでも別れる際には、涙せんばかりの人間関係が構築できたことは、嬉しいことでした。じつは、仕事をしているうちに知ったことなのですが、彼らのうちのほぼ7割がカビールだったのです。あとになってみれば、なるほどそうだったのかと合点がいき、結果としてはカビールと仕事ができたことはよかったと思っています。そのカビールの特殊性を簡単に書き出しますと、このようになります。
・アルジェリアでくり返されてきた、異民族による征服の際は山岳地帯へのがれ、最後まで屈服しなかった誇り高き民族で、他民族との同化を拒否して独自の文化圏を形成するなど、いつの時代でも、時の権力者への抵抗勢力となっている
・基本的には農耕民族で、ものの考え方が緻密であり、手先が器用で、なによりも働き者である
・子弟の教育に熱心であり、さほど豊かとも思えない家計でも、大学へ進学させる家庭が多い
・カビール同士の互助精神がつよく、仕事上でも互いに助け合う気風がある
このように書き上げてみますと、なんとなくわたしたち日本人に似ている感じがしますが、ある意味では、それがゆえに日本人に対してつよく反発していたのかな、と思っています。

シャウイ族父娘の絵

「チュニジアという国」で書いたように、チュニジアが「マグレブの乙女」と称されるのに対し、アルジェリアは「マグレブの獅子」といかにも雄々しくよばれています。その理由はなぜなのでしょうか。隣り合った両国の沿岸地帯はどちらも温暖な地中海性気候ですが、アルジェリアでは、 後背地として荒々しい男性的なアトラス山脈が幾重にもなって海岸線に沿うように東西に走っているのに対し、山脈が切れたチュニジアではその荒々しさがなくなり、温和な気候だけが目立つ女性的な国土となります。しかし、理由はそのような地理的なものだけではなく、むしろ歴史的な背景にあるのです。 アルジェリアがヌミディア帝国の名前で歴史の表舞台に登場したのは、史上名高いポエニ戦役のときです。現在でもそうですが、カビリー山地はアラブ馬の一大産地であり、古来アルジェリアの騎馬軍団は地中海で最強だったのです。そのため、ハンニバルのアルプス越えにも随行し、逆にポエニ戦役後半ではローマのスキピオ側につき、 ハンニバルを敗戦に追いやりカルタゴの滅亡に力を貸したのです。ローマ帝国の属州になってからは、温暖な沿岸部にローマ人が定着し、ベルベル人は山岳部に追われました。ヨーロッパ大陸に発生した民族大移動の結果、アルジェリアへ侵入してきたヴァンダル王国(ゲルマン族)、そして東ローマ帝国の領土になってからも、 ベルベル人は常に権力者と対峙しました。7世紀以降はアラビア半島に興ったイスラム勢力(サラセン帝国)との対峙となります。イスラム軍にすぐに屈したチュニジアに対し、アルジェリアは徹底抗戦しました。結果としてはイスラムの圧倒的な軍事力の前には抗すべくもなく、北アフリカはイスラム勢力に席巻されました。8世に入ってから、 イスラム勢力はイベリア半島(スペイン)へ侵攻していきましたが、勇猛なベルベル人はその先兵として駆り出されました。半島は長いことキリスト教諸国とイスラム勢力との対峙が続きましたが、戦場には常にベルベル人(*1)の姿がありました。1492年、グラナダの有名なアル・ハンブラ宮殿が陥落し、イスラム勢力が半島から駆逐されたのち、 北アフリカはイスラム系のいくつかの王朝の興亡があり、16世紀になってからはオスマン・トルコ帝国の治世下になって、しばらくは平穏な時代がつづきました。このように、いつの時代もアルジェリアのベルベル人は戦うことを強いられてきましたが、獅子の悲しい性というべきなのでしょうか、勇猛なあまり戦うことを拒めなかったのです。 近世になってからもベルベル人は戦場に駆り立てられつづけ、むしろそれまで以上に、悲惨な運命におかれました。
平穏を破ったのは、1830年のフランス軍の進攻でした。オスマン・トルコのアルジェ太守はカスバにたてこもりましたがすぐに降伏。しかしアルジェリア人は「マグレブの獅子」です。アラブ系、ベルベル系を問わずアルジェリアの諸民族はベルベルの英雄アブデルカーデルの下に結束し、大国フランスを相手にその名に恥じない抵抗をみせ、 一時はフランス軍を地中海へ追い落す勢いでした。しかし、16年にわたる抵抗も力つき、1847年には全面降伏し、アルジェリアはフランス領となったのです。フランス領になってからのアルジェリアもまた、統治者の都合で多くの者が戦争の犠牲にされました。第一次世界大戦では、173000人の兵士が海を渡って従軍し、25000人の戦死者を出すなど、 その勇猛ぶりはフランス軍の中にあっても際立っていたようです。第二次大戦にもむろん参戦しました。ここでもアルジェリア人は勇猛ぶりを発揮しましたが、ナチスドイツ軍の怒涛のような攻撃の前になすすべもなく、祖国アルジェリアは、モロッコ同様にフランス・ヴィシー政権下、実質はドイツの占領下におかれました。 映画『カサブランカ』はまさにこの時代を舞台にしています。ドイツ占領を嫌った多くのフランス人は海を渡ってアルジェリアへ逃れ、ここを通過点にして陸路カサブランカへ逃れ、そこを拠点にアメリカなどへ逃れて行ったのです。やがて連合軍の反撃が始まり、ドイツ軍が北アフリカ戦線で敗退したのが1943年5月のことで、アルジェリアはフランスの手にもどったのです。 ド・ゴール率いる自由フランス軍はアルジェに司令部を置き、アイゼンハウアーも連合軍総司令部を市内のホテル・サン・ジョルジュ(現ホテル・エルジャザイール)に設置し、ここからノルマンディ上陸作戦を指揮しました。アイゼンハウアーのいたホテルも、ド・ゴールが司令部とした地中海を望む高台に建つ建物もいまだ現存しています。 なお、この大戦でのアルジェリア人犠牲者は45000人を数えたようです。
フランス軍人としての「マグレブの獅子」たちの輝かしい奮戦は、第二次世界大戦で終わったわけではないのです。その後もまだつづき、むしろ大戦以降の方が、彼らにとって悲惨な運命をたどったといえるでしょう。大戦終結後、フランス領インドシナ(現ベトナム)で独立戦争が勃発し、アルジェリア人も駆り出されました。 結果は、フランス軍がたてこもった有名なディエンビエンフーがホーチミン指揮下のベトナム軍の攻撃によって陥落し(1954年4月)、多くのアルジェリア人が密林での過酷な捕虜生活を送りました。しかも、帰国したアルジェリアでは皮肉な悲劇をもたらされたのです。その年の11月に始まったアルジェリア民族解放闘争(独立戦争)です。 ベトナムの独立を阻止するために遠く離れたインドシナの戦場で戦い、苦しい収容所生活を共にしてきた戦友同士が、今度は、一方は自国アルジェリアの独立のために戦うFLN(民族解放戦線)の戦士として、他方は独立を阻止するフランス軍の兵士として、祖国の地を戦場にして相まみえることになったのです。戦争は8年にもわたり、血みどろのゲリラ戦でした。 FLNの戦士たちは、ベトナムで会得した密林でのベトミンのゲリラ戦法を、都市あるいは山岳地帯でのゲリラ戦法に応用したのです(*2)。現在、世界各地で多発しているテロの原型は、いわばここから始まったといえるでしょう。アルジェリアがフランスから独立したのは1962年7月でしたから、フランスに対して抵抗をしなかったチュニジア、モロッコの独立(1956年) より6年も長くかかったのでした。「マグレブの獅子」としては、何としても戦うことで独立を勝ち取りたかったのでしょうが、それにしても、ずいぶん高い代償、それも血の贖いを払ったのです。独立から40年近く経った1991年以後、今度はイスラム原理主義者たちによるテロの嵐がアルジェリア全土で起こったのですが、このことについては、複雑な背景を伴いますので、 稿を改めることにいたします。

伝統衣装のベニ ムザーブ族

わたしの滞在中、日本大使館の警備官の中には、独立戦争に直接かかわった「マグレブの獅子」たちが何人もいました。わたしにちかい年齢層の人たちで、多くはカビールでした。カビールは頑固で非協力的であり、生来が寡黙で気難しく、感情を表に出さないタイプが多いと言われていましたが、実際に付き合ってみますと、案に相違して、気持のよい人ばかりでした。 警備官のリーダー・ハダディは開戦時はちょうど20歳、独立運動中にフランス官憲に逮捕され、独立時はフランス本国で収監されていたそうです。細身で柔和な顔立ち、背筋がピンと張り、物腰もやわらかでしたが、ときおり見せる眼光のするどさは、いかにもムジャヒディン(FLNの戦士のこと)を思わせるものがありました。サブ・リーダーだったツバクは、カビールとしては愛想がよく、 ひょうきんなところもあって、付き合っていて本当に楽しい人でした。彼は、戦争当時は10代半ば、マキ(山中の灌木地帯に潜んで活動したゲリラのこと)として活動したそうです。わたしが現地調査のためにはじめてアルジェに行ったときから親しくしたブーゲスリ船長(TVドラマ『宇宙船家族ロビンソン』の中の船長役にそっくりだった)は、アルジェの西400キロの山中、 「マスカラワイン」で知られたマスカラでパルチザン・ムサベルと称する農民兵だったそうです。その他の人たちも、皆それぞれに味わいのある人たちばかりで、決して高価とはいえませんが、別れるときにくれた品々を、ときおり取り出してみては、彼らとの楽しかった交流を思い出しています。

(注記)
*1 ヨーロッパ人は、イベリア半島に侵攻してきたイスラムの人たちを、ベルベル人も含めてムーア人と称したようです。
*2 アルジェでのゲリラ戦法については、映画『アルジェの戦い』が参考になります。1966年イタリア・アルジェリアの合作のドキュメンタリー・タッチの映画で、同年のヴェネチア国際映画祭の金獅子賞(グランプリ)に輝いた映画です。DVDで入手可能です。

(2011年 10月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む