替え歌『ホルムズ海峡夏景色』 もう10年以上も前になるのですが、ふだんから親しくお付き合いしている3家族でアラブ首長国連邦のドバイ(現地風に表現すればデュバイ)へ観光旅行したことがあります。わたしにとっては15年ぶりの訪問でした。掲載した絵は、ドバイへ行くと聞いた娘が、餞別代りにFAXしてくれたものです。大方が描くアラブのイメージは、まあ、こんなものでしょう。当初は、何も好き好んで砂漠の国へ、と腰が引けてはいたのですが、空港から一歩出て、びっくりしました。正直なところ、浦島太郎の心境でした。わたしが隣国サウジアラビアに滞在していた頃から、同じアラブの国でも両国間の開化の度合いには大きな差がありました。サウジからアブダビへはじめて入国した折など、空港に制服を着た女性係員がいてびっくりしましたし、ドバイの町も、サウジではまったく考えられないような開放感が感じられたものでした。それにしても、噂には聞いていたものの、近代化されたドバイ、それも、いささかバブリーな発展ぶりには驚かされました。同行した連れ合いなど、「すごいじゃないの。アラブといえば砂漠の国、人が住みにくいところだと思っていたわ。これなら、貴方のいたサウジアラビア・ジェッダへ子供と一緒に行ってもよかったかも」、などと言い出したものです。しかし、現実はそう甘いものではありません。たしかにドバイの発展振りには目を見張るものがあります。しかし、それはほんの都市部だけのことであって、市街地を離れれば、周辺は一面広漠とした砂漠です。その落差の大きいこと、昔も今も大きな違いはないのです。その点は、アブダビでもまったく同じことがいえるのです。 わたしは、1984年から85年にかけて3回ほどアブダビへ出張し、2ヶ月近くでしたが、ルワイスという町に滞在したことがあります。自動車事故で亡くなられた日揮の社員が建設に従事していたハブジャンよりさらに50キロほど西へ行ったところで、まさに最果ての地というイメージでした。とくに、わたしの滞在時は、尿素プラント建設がすでに完了し、運転されているプラントの保守作業みたいなことをしていましたので、建設中のような活気はまったくなく、日本人の人数も少なく、それは淋しいものでした。プラント近くにあったキャンプは厳重なフェンスに囲まれ、だだっ広いだけで、食堂や小さな売店以外の娯楽施設はなく(建設最盛期にはあったのでしょうが)、キャンプへの出入りはきびしく管理され、まるで収容所生活みたいなものでした。宿舎と職場との間を往復するだけという生活は、長い現場生活の中でも、わたしにとっては初めての経験でした。食堂の食事がわるいわけではない(外国人向けの調理でしたが、質はよかった)にしても、毎日同じようなものだと、やはり飽きがきますし、たまにはショッピングなどで外の空気を吸うというのも、人としての健全な生活リズムを維持する上では大切なものでしょう。キャンプ内にただじっとして生活することは、耐え難いものがあるものです。 ルワイスからアブダビ市内まではざっと200キロ、アスファルトで舗装された、ほとんど真一文字といってよいほどの国道11号線が結んでいます。途中、信号機などはありませんが、どんなに車で飛ばしても2時間半はかかります。簡単に食事だ、買い物だ、と外出できる距離ではないのです。それでも、キャンプでの抑留生活を送っていますと、たまには週末に車を駆って、アブダビに向かいたくなるのです。そこでは、まばゆいばかりのネオンがあふれ、ホテル、レストラン、ショッピングセンター、そして多くの店が軒を連ねるスーク(アラブ語で市場のこと)など、まさに別世界が繰広げられているのです。そして、サウジではまったく認められていない飲酒が、ホテルやレストラン内に限って許可されています。むろんイスラムの国ですから、アルコールを飲んで赤い顔をし、大きな声を出して街を闊歩する、なんてことのないよう自重はしなければなりませんが。スークへ足を踏み込めば、世界の名だたるブランド製品があふれ、日本への土産に燦然と輝く金製品を買い求めることもできるわけです。アブダビへ足を向けるのには、もう一つの理由があります。就労ビザを有する外国人に対しては、アルコール購入に関して一定の量の許可証が発行され、それを店で見せれば、アルコール類を購入でき、キャンプへ持ち込むことができるのです。日揮の方たちも、アブダビでの会食後にキャンプへもどる途中の事故と報道されていましたが、今も昔も、その辺りの事情は、大きくは変わっていなかったのでしょう。 しかし、誰もが知っているわらべうたの歌詞に、「行きはよいよい 帰りはこわい こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」、とありますね。アブダビ行きは、まさにその歌詞そのものなのです。アブダビへ向かう車の中ではルンルン気分で、市中での食事や買い物を堪能することでしばしルワイスでの憂さを忘れるのですが、ひとたび西へ向かう車の中では、一転して気分は暗くなります。それまでの一時が楽しかっただけに却って物憂くなるのです。つい無口になって、漆黒の闇の中に照らし出される舗装をただ黙って、ぼんやりと見て過ごすだけになります。その落差はすごく大きいのです。当時、ルワイス滞在中に教わった替え歌がありました。帰国してから知ったのですが、驚いたことに、その替え歌は活字になっていました。何かの本だったか雑誌だったのか、もう記憶にないのですが、アブダビから西へ向かう人たちの心情を、じつによく捉えていますので、ここでご紹介いたします。 替え歌『ホルムズ海峡・夏景色』元歌 作詞 阿久 悠 替え歌 作詞 不詳(一部石井加筆) 元歌 作曲 三木たかし
成田発の夜行飛行機 おりた時から
ご覧あれがオーマン岬 東のはずれと
さよならあなた わたしは向かいます
(注記1)できるだけ阿久悠さんの元歌の詩に合わせました ご存知、昭和52年(1977年)に石川さゆりが歌って大ヒットした『津軽海峡・冬景色』の替え歌です。替え歌といえば、まだ学生の頃、パロディの一形態としてよく歌ったものでしたが、どちらかといえば猥雑(わいざつ)な歌詞に替えたものが多かったと思います。その点で、この替え歌は、阿久悠の格調の高い、すばらしい歌詞を損ねることなく、ある意味、彼のこの詞に込めた思いを忠実に踏襲した、すばらしい詞だと思っています。 阿久悠は、作曲家三木たかしが石川さゆりのためにつくったメロディに、あとになってからこの詞をつけたといわれており、彼自身はこの詞に相当の思い入れがあり、自負していたようです。たしかに、出だしの2行の歌詞で東京―青森間の距離、時間、さらには風景までを一気に移動させた手腕はみごととしかいいようはないでしょう。阿久悠の詞に歌われた私は、失恋をし、大都会に幻滅してふるさと青森へもどってきた女性です。別れてはきたものの、まだ男に未練を残す彼女にとって、ふるさと青森は、吹き荒ぶ北風の音が物悲しく胸をゆするという悲しい設定です。これに対して、替え歌のほうの私は男です。それも、仕事のために日本から遠くアブダビに派遣され、アブダビ市内から、バスでさらに遠く離れた何の楽しみもない男だけの世界へ向けて砂漠の中の道をひた走るわけです。どうにも色気のない、情緒に欠けた設定だといえるでしょう。しかし、替え歌の詞からは、中東という風土の厳しさ、日本に妻子や恋人を残してきびしい現地に働きに出る男の悲哀がにじみ出ている、といえるのではないでしょうか。さらにいえば、アブダビ・ホルムズ海峡の男は、何ヶ月も何年もつづく滞在中、おそらく幾度となくアブダビから西へ向かい、その度に砂の音が胸をゆするのです。考えようによっては、津軽海峡の女より、こちらの方が悲哀に満ちているといえるでしょう。わたしは、そう考えているのです。 どうです、『ホルムズ海峡・夏景色』、みごとな替え歌だと思いませんか。(付記)アラブ首長国連邦は七つの首長国から成る人口300万に満たない小さな連邦です。1971年に独立して以来、アブダビの首長が大統領の任についていますが、各首長国は独立性が高い連邦です。連邦の予算のほとんどは、産油国であるアブダビとドバイが拠出しています。我が国にとっては、サウジアラビアに次ぐ主要な原油輸入国で、2008年の実績で5300万klと全輸入量の23%を占めていました。 (平成22年 10月) |
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