網野 善彦 先生のこと

亡くなられてから洛陽の紙価を高めている方として、最近では、作家の司馬遼太郎先生と、「網野史学」を構築したとして知られる歴史家の網野善彦先生があげられると思っています。

司馬先生の場合、没後になってから、「えっ!」と驚くばかりに先生の名前を冠したいろいろな著作が世に出てきて、おそらく先生は草葉の陰で苦々しく思っているに違いありません。網野先生の場合は、新聞・雑誌等に載った追悼文だけでもざっと50は超え、亡くなる前に準備されていた何冊かの書、あるいは『網野善彦著作集』(岩波 全18巻・別巻)が先生の死と競うように出版され、そのほかに先生の甥の宗教学者中沢新一も『僕の叔父さん網野善彦』(集英社新書)といった本を出しております。

網野先生とは、わたしが芦花公園の公団に住んでいたときに知り合い、その後も家族ぐるみでお付き合いしておりました。当時はまだ都立高校の先生をなさっており、たしか3Kの狭い公団住宅の各室にぎっしりと分厚い書物が積まれていて、5人家族がどうやって生活しているのか、興味を持ったものです。奥様の真知子さんは遣り繰りにたいへんだったでしょうが、書物に囲まれた生活空間に、わたしはあこがれたものでした
歴史家としての先生の態度は、史料・資料に囲まれ、そこに喰らいついた虫のようにじっくりと読み込み、考証していくという、いかにも学究肌の方でした。一方で単なる書斎の人ではなく、旧制東京高校・東京大学の学生の頃は共産党のオルグとして活動されたほどですから、現場重視の姿勢をくずさず、夏休みなどは、ほとんどの時間を地方の豪族・農家の収蔵庫で費やし、そこに眠る古文書を求めて、その中から歴史を正しくとらえ、形成していくという姿勢でした。その姿勢ゆえに、先生の目は炯眼であり、すぐれた洞察力をお持ちでした。
先生はまた権力に媚びることをよしとしない態度を貫きました。「日本」を根源的に問い続け、「日本」から世界に光をあてるという、壮大な考え方をお持ちでした。先生の晩年の作『「日本」とは何か』(講談社)は、わたしたち日本人への警鐘の書であり、同時に先生がわたしたちに残した遺言だったのではないか、とわたしは考えております。それほど、あらゆるジャンルにわたって重いものを持っています。内容的に、そこまで言い切って大丈夫だろうか、と危惧の念をいだかせるほど、諸問題について明快に問いかけております。残念なことに、危惧したとおり、最晩年は「不貞なやから」に脅かされ続けましたが、先生は屈しませんでした。先生はその著の中で、戦前の平泉澄氏の「皇国史観」を近代歴史学の鬼子だと評し、本来その史観を徹底的に批判すべきことをせず、アイマイなままにしてきた戦後の歴史学(自分を含めた歴史学者)こそが、西尾幹二氏等の新たな鬼子の出現を許したと自己批判していますから、彼ら(いわゆる「あたらしい歴史教科書をつくる会」)を擁護する一派から、当然ねらわれたわけです。

天皇についても多くを語っていますが、結論的にはこう述べています。「日本という国号を持つ国家、それと不可分に結びついた天皇を称号とする王朝は、(中略)、ともあれ7世紀末の飛鳥浄御原令以降の1300余年の間、間違いなくつづいてきた」とし、そのことは「世界史的にとらえて他に例のない事例」と認めております。その上で、「だからこそ、(世界に誇ってよい)日本という国家と王朝の歴史を、「日本」という国号の当否、「天皇」自体の存廃までを十分に視野に入れ、勇気をもって徹底的に総括することができるようになれば、人類社会の歴史全体をとらえる上で役立ち、マクロ的にはその総括は人類全体の前進のために寄与するだろう」と展望し、次世代の研究者に実現の夢を託しております。

まだ芦花公園に住んでいたころ、網野先生にこんな注意を受けたことがありました。その頃、わたしは鎌倉時代に東大寺を再建した俊乗坊重源の研究をしていました。定説では、坊は中国で建築様式を学んだ(「大仏様式」として日本に伝わり、東大寺の南大門が代表的な遺構として有名)ことになっていましたが、京大の山本栄吾という方が、「坊は入宋していない」という学説を発表したのです。わたしはすぐさま反論を書き、先生にお見せしましたが、「これでは山本さんの論文をとても論破できません」ともどされたのです。論文そのものが稚拙でしたが、それ以上に、わたしの論拠は、入宋したということを証明する意図で、自分に都合よい資料のみを選び、論を構成しただけだったのです。一応もっともらしい論文でしたが、本当に入宋したのかどうかの核心について、それを証明するだけの史料にはいなかったのです。歴史の研究が、そう容易でないことをまざまざと教えられた思いでした。このようなこともあって、わたしは、「歴史の研究とは、史料・資料をこつこつと地道に漁り、現場検証をして汗を流し、そこから史実を冷静な目で、客観的に、正確にとらえていくことで、ある種の目的のために、自己に都合のよい方向性を求めて歴史を構築、というより捏造していくことではない」と考えております。

わたしは網野先生の信奉者であり、わたしの史観の拠りどころは、網野史学にあります。軍事関係の執筆(必ずしも本意ではないのですが)をする際も、戦争は本来悪であり、破壊以上の何ものでもないという信念を持ちつつも、一方で先の戦争のあったことはゆるぎない事実であり、だからこそ、事実は可能な限り正確に記述し、その記述の中から、戦争の虚しさを感じ取ってもらえれば、と思っています。

先生は、大好きな言葉として、マルクスの『資本論』第1版の序文に引用されているダンテの「汝の道を行け、そして人々の語るにまかせよ!」(『神曲』より)だといわれていますが、わたしには、そのような心境には至っていませんし、とても至りそうもありません。まだまだ未熟者です。

(平成21年 10月)

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