昭和20年の識者の日記(1)

永井荷風『断腸亭日乗』(上)(下)

昨年から今年にかけて、識者5人の昭和20年の日記に目を通してきました。昭和20年といえば、私はまだ年少、しかも群馬県の安中という小さな町に疎開していましたので、自分の身の回りの出来事以外は別世界のこと、世の中のことはほとんど知りませんでした。その年の世相はどんな様子だったのか,空襲を含めて識者たちは8月15日の終戦をどのように受け止めたのか、その日を境に世相がどう変わったのか。軍部あるいは為政者に対する思いはどうだったのか、といったようなことについて知りたいと思ったからでした。識者5人と日記の名称は、
1)永井荷風『断腸亭日乗(上)(下)』、
2)高見順『敗戦日記』、
3)清沢洌『暗黒日記』、
4)山田風太郎『戦中派不戦日記・同動乱日記』、
5)井上太郎『旧制高校生の東京敗戦日記』です。
偶然なことに、著名な作家が2名、外交評論家が1名そして学生2名と、年齢的にも、おかれた立場上からもバランスが取れた選択となりました。別に意図したわけではなく、たまたま書棚にあったのがそうだったということです。その点では、伊藤整の『太平洋戦争日記』を入れなかったのは片手落ちではというそしりを受けそうですし、内田百けん(門構えに月)、野上弥生子の日記もあるようですが、とても手が回らなかったこと、ご容赦願います。
年齢差はありますが、ご存知のように、二人の作家は戦前すでに大家だった方で、両者の日記は日記文学の最高峰として位置づけられており、日記の域を超えた読み物としてもおもしろいものです。ただし、お二人の小説そのものに大きな差があるように、日記の作風にも大きな違いがあります。荷風は、親類縁者とも敢えて絶縁状態になるほど世間・時勢から超越した傍観者の立場を貫いており、たとえば日米開戦日にも、「日米開戦の号外出づ」の記述だけです。その一方で、傍観者でありながら軍部に対しては、随所に唾棄せんばかりに激しいことばを発しています。彼の日記の記述の仕方は、見聞録とか流言録、あるいは「噂の聞き書き」とか「冗談剰語」という見出しで、一見、傍観者であるかのように書き出しています。むろん荷風も軍部から睨まれていることを意識して、はじめのうちは、「□字抹消」と自己検閲していましたが、昭和16年6月以降、日米間の雲行きが怪しくなってからは、「寸毫も憚り恐るる事なくこれを筆にして後世史家の資料に供すべし」という意気込みで筆にしたようです。アメリカ・フランスに長く滞在していた荷風*やはり半端な作家ではなかったようです。対する高見順、東大を出てプロレタリア作家として活躍し、治安維持法違反容疑で検挙されましたが、のちに転向。戦時中は徴用でビルマ戦線へ派遣され、昭和19年にも陸軍報道部員として半年間大陸へ渡るなど、戦争協力者とは言わないまでも軍部には協力的でした。それだけに、筆致はきわめて穏やかで気持ちが高ぶるところは見られません。作家であるお二人は、戦時下にあっても市中をよく歩かれ、おのれの好むところを楽しみ、そこから世相をたくみに描き出している点はさすがです。読んでいて「えつ!戦時下だったのに?」、と思わせることも多々見受けられるのです。たとえば、劇場・映画館・寄席など、空襲から焼け残りさえすれば、翌日であってもすぐに開かれていたようですし、警戒警報の発令程度でしたら、待合・クラブ・バーなどでアルコール類を口にすることも、結構可能だったようで、人間の営みのたくましさにはびっくりさせられます。それに、さすが作家のお二人、読書量も驚くほどで、高見にいたっては、街の本屋の書棚から本がなくなってしまったことを憂いて、鎌倉在住の文化人に声をかけ、市内で貸本屋を開き、番頭さんにおさまったほどでした。後述することになりますが、他の識者もその読書量はすごいもので、空襲が激しくなれば自分がいつ犠牲者になるかわからず、本も手に入りにくくなるということで、 読みたい本はいまのうちに、という思いがあったのでしょう。

高見順『敗戦日記』

清沢洌(きよし)については戦後育ちのわたしはその人物を知らず、日記を通してすごい人物だと認識した次第です。16歳にして渡米し、かの地で政治・経済を学び、渡米12年で帰朝し新聞社の特派員を経て37歳の時に東京朝日新聞企画部次長になった方です。が、筆禍から右翼にねらわれ、わずか2年で同新聞社を退社し、当時としては珍しいフリーランスの評論家として 活動されていたようです。昭和13年、47歳のとき、戦後首相となった石橋湛山の東洋経済新報社顧問となっています。彼のすごさは、一つは30歳台にして、戦後の政財界・言論界を動かすことになる錚々たる人物の交流の場「文士評論家の自由な会」を実質たばねたこと。もう一つは、戦時中に、すでに戦後の国の在り方についての構想を練っていたことです。この時期に、そんなことを考えられた人物、そうはいなかったのではないでしょうか。惜しいことに、彼は昭和20年5月に齢55にして肺炎で急逝、5月5日でもって日記は終わっています。わたし個人としては、彼が終戦に対してどのように考えたのか、終戦前後の日記をぜひ読んでみたかったなと思っています。彼の日記は、豊かな国際感覚、そして幅広い交友関係を通じて、時の政治・経済状況・外交問題と、幅広い分野にわたって活写されいますが、家族に向けられた温かいまなざしに比較して、軍人為政者に対する鋭い批判は、戦時中なだけにおどろくべきものがあります。彼も、自分の身辺に近づく特高の目を意識していたようで、急逝したことが、皮肉なことに彼を窮地から救ったともいえるような気がしています。
残る二人は当時学生だったと書きましたが、その立場はかなり異なっていました。山田風太郎(本名誠也)は、のちに忍者小説家として名を成しましたのでご存知の方が多いと思います。山田は家庭の事情から満20歳のとき家出し、いったん軍事工場で働きながら医学校への進学の道を目指しました。すでに日米は開戦状態、彼にとっては徴兵検査があり、学生でも学徒出陣によって戦場へ送られる、という多難なときでした。昭和19年2月の徴兵検査は病弱のため不合格、その結果を受けて願書提出・入試というあわただしさの中で東京医専(のちの東京医科大学)に合格しました。齢すでに22(順調なら大学卒業の歳)になっていました。軍医にさえなれば、ひとまず兵役からは免れることにはなったのです。題名が『戦中派不戦日記』となっていますが、このことを意味しているのでしょう。とにかく、翌年の昭和20年1月1日から彼の日記は始まっています。一医学生として学びながら、成熟した一人の男子として、「日記は自分との対話だ」という意気込みで、その年の時局・世相をおのれ が見たまま、感じたままに記録していったのではないでしょうか。やはり作家になられるような方、読書も専門の医学書から物理・化学書、小説もむろん宗教・哲学書にいたるまでどん欲といえるほど読んでいます。元来が文章好きだったのでしょう。その筆致は達者なもので、内容は若々しいエネルギーを感じさせ、心に残るような名文が随所に表れます。「激動の中を懸命に貪欲に生きる庶民の生活史として貴重」と評されていますが、わたしも心にズシリと感じさせられた日記です。もう一人の学生・井上太郎は山田と同じく昭和19年に19歳で旧制都立高等学校(のちの都立大学)*2に入学しています。わたしとは12歳も違いますが、5人の識者の中ではもっとも年齢は近く、日記に書かれた内容に自分の経験が重なる面があり、たいへん親近感を感じております。彼は戦後になって早大を卒業し、中央公論社に 勤務(書籍部長歴任)のかたわら、好きな音楽評論の執筆に従事し、何冊もの著作をもっています。日記も中学を卒業したころから書きつづっており、若者のとらえた世相をたんねんに記し、ときに冷徹な目で軍部の不条理をつくこともあったりで、若いなりに妥協を許さない記述は、他の識者の日記とそん色を感じさせないものがあります。とくに戦後の記述の中には、「ああ、そうだったな」と、思わずひざを打ったものでした。

清沢 洌『暗黒日記』

ここからは、各人の日記から3月9日夜半から翌暁にかけて東京市中を襲った大空襲についての記述を拾い出してみます。当時鎌倉在住の高見をのぞき、皆さん東京にあって実際に空襲を経験していますので、一様に思いを込めて日記紙面を埋めています。その中では、時勢に対して超越的傍観者だと言われている荷風の筆が群を抜いており、秀逸です。実際に火中にあったのはただ一人、荷風だけだったためでしょう。そして、彼が実家をはなれたあと、26年間住み慣れ,愛しつづけた麻布市兵衛町崖上の自宅偏奇館が焼失するのを目の当たりにしたことも理由として挙げられるでしょう。彼はそのあたりのことを、このように記しています。「翌暁4時わが偏奇館焼亡す。下弦の繊月凄然として愛宕山の方に昇を見る。麻布の地を去るに臨み、二十六年住み慣れし偏奇館の焼倒るるさまを心の行くかぎり眺め飽かむものと、余は電信柱または立木の幹に身をかくし、小径のはづれに立ちわが家の方を眺る時、崖下より飛来りし火にあふられその家今まさに焼けつつあり」(適宜中略)。おそらく涙していたであろう荷風の心中を、つい思わざるを得なくなる、読み手の心をつかむ文章です。彼の蔵書もとうぜん灰に帰したわけですが、それについては、一思いに蔵書を売払ひ身軽になりアパートの一室に死を待つにしかず、とつよがりを言ってはみたものの、「されど三十余年前欧米にて贖ひし詩集小説座右の書巻今や再びこれを手にすること能はざるを思へば愛惜の情 如何ともなしがたし」、と記しています。その気持ち、よくわかりますね。清沢、山田、井上の3人は、10日の朝からそれぞれに、惨禍の跡を見て歩いております。山田は試験日のため新宿の学校に行き、その足で市中にあり、凄惨な廃墟・避難者を半日、目の当たりにしていました。この日の記述は文庫本8ページにわたっていますが、ときには、冷静であるべきはずの医学生らしからぬ、アメリカに対する怒りに満ちたことばが書き連ねられています。その中で「鳥も鳴かない。青い草も見えない。ただ、舗道のそばに掘り返された防空壕の上に、砂塵がかろく立ち迷い、冷たい早春の日の光が虚無的な白さで満ちているばかりである」という一文、その時の情景が目に浮かぶようです。山田と比較して、まだ若い井上のほうがはるかに抑制のきいた文となっています。荷風と同じ麻布の高台に住む井上は「一面火の海に囲まれたようだ」と記しながらも、さいわい家は助かり、朝になってから市中を歩き、山田同様に凄惨な廃墟・避難者を目にしています。その上で、「あの炎の色を帯びた巨 大な入道雲を私は一生忘れないだろう。それは関東大震災の時に生じたものと全く同じなのだ(両親からの仄聞)。その下では阿鼻叫喚の地獄が現前したのである。天災と同じものを、人間が人間を殺すために再度東京に現出させたのだ。われわれはこの事実を絶対に忘れてはならない。そしてそれを子々孫々まで伝える義務がある」と記しています。さらに、大本営が帝都に対する「盲爆」と発表したことに対して、周到に計画された空襲であったことは誰の目にも明らかだとしています。この点清沢も、被災者に(一言の見舞いの言葉もなく)、盲爆だとアメリカを非難するにとどめ、宮内省主馬寮が焼けたことに恐懼するだけだった大本営・首相・陸相などに対して、「そんなことでは国民からかえって反感が起ころう」と評しています。
(次号につづく)
(注1)日記からの原文は、送り仮名を含めて忠実に引用しているが、読み易くするため適宜省略をしている。
(注2)断腸亭とは荷風の号の一つ。日乗の「乗」は記録のことで、日乗は日記の別称である。
(注3)荷風のアメリカ生活については、末延芳晴『荷風のあめりか』(平凡社ライブラリー)にくわしい。

    

(2017年9月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む