ご存知でしたか

横浜金沢・洲崎町「憲法草創之處」碑

わたしの住む横浜市磯子区の南隣に金沢区があります。有名な「金沢八景」のある、いや、あったところです。金沢区は区制変更で磯子から別れましたから、わたしにとっては、いわば地元みたいなところです。その金沢区には、憲法起草に関する二つの碑があるのです。一つは洲崎町の「憲法草創之處」の碑であり、他の一つが富岡の「日本国憲法起草之地」碑です。ご存知でしたか。こんな例、他にはないでしょう。このことは地元民として誇りを持ってもいいのではないでしょうか。
「憲法草創之處」の碑は、明治20年に伊藤博文らが景勝の地金沢八景の東屋旅館で憲法草案の起草を始めたことを示す碑です。本来なら憲法起草の地と言うべきなのでしょうが、じつは、起草中に宿に賊が入って、大切な草案を盗まれるということがあったのです。そのため、瀬戸橋際という観光地の中心に位置する東屋では物騒だということで、近くの野島にあった伊藤公の別荘へ場所を移して、そこで起草作業をつづけ、明治22年の「大日本帝国憲法」発布に至ったというわけです。このことは歴史的遺産の記念碑として教科書にも載っており、昭和10年に東屋の庭に建立されたものです。しかしそのご東屋が廃業となったため、昭和62年に100mほど東へ移設されたのが現在の碑ということになります。ついでですが、明治憲法起草に関しては、もう一つの碑があるのです。それは「明治憲法起草地記念碑」です。元々は、草案の起草を仕上げたのは野島の伊藤博文別荘ですから、それを記念して大正末期に野島に記念碑を建立されたのですが、土地所有の問題か何かで、いつの間にか横浜市金沢区から横須賀市夏島へ移設されてしまったのです。たいへん不便な場所で、おそらく訪れる人もほとんどいないのではないでしょうか。

横浜金沢・富岡「日本国憲法起草之地」碑

富岡の「日本国憲法起草之地」碑は、金沢区富岡東四丁目、富岡八幡宮とは道一つ隔てた幼稚園のフェンス沿いに建っています。写真でもお分かりのように、よほど注意しなければ見落としてしまうようなちっぽけな碑で、事実、地元の人でも知らない人が多いようです。元々この辺り、近くまで海が寄せていた閑静な地で、明治の元勲たちの別荘などがあったようです。碑のある場所は、現在は幼稚園になっていますが、昭和のはじめごろ、佐藤という方の別荘地で草葺屋根の大きな建物が建っていたそうです。地元では「田舎家」と呼ばれていたようです。そのお宅に、戦後になって間もなく、金森徳次郎がしばらく滞在していたそうで、地元の人の間で、「金森さんって、新憲法を起草している偉い人なんですって」、と噂がひろがったようです。昭和21年11月に日本国憲法が公布され、翌22年5月3日から施行されたことで、地元でも、「ここで生まれた新憲法は地元の誇りだ」ということで、ささやかながら碑を建てようということになったのだと思います。碑といっても、この碑は富岡下長寿会という、いかにもお金のなさそうな団体が建立したものです。ところで、金森徳次郎さんという方は、ある年齢以上の人はよくご存知でしょうが、戦前の岡田内閣で法制局長官をし、戦時中は官職から離れていましたが、戦後になって第1次吉田内閣の憲法担当の国務大臣に就任し、のちに初代国立図書館々長をされた方です。

横須賀・夏島「明治憲法起草地記念碑」

わたしは、憲法に関しては全くの門外漢であり、またふかく勉強をしたわけではありません。したがって、ここで改まって憲法論議をしようなんて気もありません。ただ、いまの政権になってからとくに、憲法改正とか、安全保障関連法は憲法違反だということがよく話題になっています。以前ニュースレターに書きましたように、わたし自身はいまの平和憲法大好き人間なので、ちょっと気にはなっています。憲法改正を口にする人たちは国際情勢の変化に現憲法は対応できないとしています。一理あるとは思いますが、しかしその実、根拠の多くが、連合国軍、言い換えればマッカーサー元帥に押しつけられた憲法だからいけないのだ、という点にあるような気がするのです。わたし自身、根が単純で、あまり難しいことを考える力もありませんから、「押し付けられた憲法でも、いい憲法なら、それでいいじゃないの」、という気でおります。改正を口にする人も、現憲法がほんとうにマ元帥から一方的に押し付けられたのかどうか、ほんとうはよくわからないで口にしているだけなのではないでしょうか。
戦後の占領下で、国の民主化を図る最大の眼目は新憲法の制定でした。ときの幣原内閣は松本蒸治国務大臣を委員長とする「憲法問題調査委員会」を発足させましたが、そこでつくられた草案たるや、明治憲法の字句修正に過ぎなかった、と言われています。それでは、おとなしい気質の日本国民もさすがに許さなかったでしょうし、こと民主主義に関しては日本人を子ども扱いしたマ元帥が受け入れる筈がありません。当然GHQ草案なるものを突き付けられたのは事実です。だからと言って、GHQ草案が、日本人にとってわるいものだったのでしょうか。わたしは2点の理由から、そんなことはないと思っています。1点は、当時の国際世論です。米国内はむろんのこと、それ以上に、オーストラリア、中国などは天皇の戦争責任を追及する姿勢はつよいものがありました。終戦直前になって参戦してきたソ連も同様です。米国政府・マ元帥も占領を円滑に進めるためには天皇制をうまく活用することとし、そのために「象徴」ということで天皇制の維持を図ったのでしょう。そしてきびしい国際世論に配慮して「戦争放棄」条項を設けることで日本の軍事的脅威をなくすように図る、というしごく当然な要求だったのです。それによって、日本は国際社会から見捨てられることなく、むしろ救われたといえるのではないでしょうか。2点目は、そのGHQ草案なるものは、日本人の尊厳・感情を無視した無謀な案だったのでしょうか。これも「ノー」でしょう。民間の私的団体ですが、高野岩三郎、森戸辰夫や鈴木安蔵などの「憲法研究会」が徹底的に民主化を求めて、すでに昭和20年末の段階で「憲法草案要綱」という新憲法の私的草案を発表していたのです。このなかでは、「国民主権の宣言規定」と「儀礼的存在としての天皇の規定」といった、米国ですら考えもしていなかった斬新な規定が盛り込まれていたのです。これには米国側もびっくりして、GHQ草案はこの日本人が考えた私的草案に則っとることにしたのです。GHQ草案を押し付けられた?いやむしろ日本人の考えていたことを、そうでもしなければ動こうとしない日本人の代わりに提示したのだ、と考えるべきではないでしょうか。
そこで、憲法担当の国務大臣金森徳治郎の登場です。いわゆるGHQ草案をベースに、それを日本国憲法として恥ずかしくないものとするために、富岡でじっくりと新憲法を練りに練ったのです。何度もなんども推敲を重ねたことと思います。金森に言わせれば、自分が起草した新憲法は、その大本には日本人の考えがあり、それが文章化されたもので、「押しつけの憲法」だなんて言われたくない、というつよい思いがあったと思います。公布にいたるまで、議会では、左から右にいたるまでのうるさ型の議員から立てつづけに矢のような質問が浴びせられたようですが、立て板に水を流すように説明し、質問者を納得させていったそうです。まさに、「日本国憲法の生みの親」と言えるのです。さらに金森の偉かったところは、のちに法制局長官につくような幾多の後継者を育成したことで、彼らは法の番人として、ときの為政者におもねることなく、金森イズムを脈々と守り続けていました。その点では富岡の田舎家は「金森塾」だったといってもよいのでしょう。ところが、いまの為政者になって、法制局の態度がすっかりおかしくなってきたこと、残念に思っています。わたしは、日本国憲法は、世界に誇り得るものだと考えていますし、何よりも平和憲法が大好きです。

 

(2015年9月)

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