熱中症 中央アジア・ウズベキスタンのブハラ行きは、最初から様子がすこし変でした。サマルカンドとともに名高い古都で、同国滞在中にどうしても訪れておきたい都市でした。わたしのその思いをよく知っていた通訳のヂュルベク・ムハメドフ博士(滞在中たいへんお世話になった)が、滞在最後の休暇に、入手しにくい航空券を確保し、あまつさえ彼みずからが案内してくれるというのです。嬉しいことでした。その上、現地では彼の知人である医者が待機していてくれるとのこと。そのときは、「医者が待機する」ということに対して、あまり深くは考えてもみませんでした。 もっとも、外国では1時間ていどの遅れはたいしたことではなく、じつは、それからがたいへんだったのです。ウズベキスタンのローカル空港ですから、先進国の空港のようにフィンガーデッキから直接ターミナルビルへというような近代化された施設はありません。しかしそれでも、バスなり、あるいは徒歩にせよ、乗客はいったんはターミナルへ入るのが通常の筈なのですが、よくはわからないままに搭乗機からそのまま空港の外まで歩かされたのです。そこには、通訳の知人である医者のウマル・シェロフ博士が待っていてくれました。わざわざ空港へ迎えに来られたということで、車でも用意されていると思ったのですが、それらしき車の姿はなく、挨拶もそこそこに市内に向かって歩き始めました。歩きがてらの話でわかったことは、その日は、カリモフ大統領が市内に滞在中だったために市内への車の乗り入れが一切禁止され、市内はいわば戒厳令が布かれたような厳しい取締りになっていたのだそうです。そういえば、空港でも、空港からの道すがらにも、一定間隔で警官が立ち、時には武器を手にした兵士の姿も見受けられました。ブハラの観光はそのような状況下で行なったわけです。いま考えてみますと、通訳はむろん事態を把握していたに違いありません。しかし、それを事前に話して、わたしが嫌気を出したら、と敢えて隠していたのでしょう。
ウマル医師の病院へ着いたのは午後の4時でした。歩き始めから5時間を要したことになります。考えてみれば、その日タシケントのホテルを出立したのは朝の7時ですから、9時間も飲まず食わずにいたことになります。にもかかわらず、病院に着き、テーブルに用意されていたご馳走を見ても、食欲はまったくありませんでした。只ただ水分を摂りたいだけでした。しかし、2人のドクターの指示は、冷たい水分は絶対飲んでは駄目、また熱いお茶でも、紅茶は駄目で、彼らが勧めてくれたお茶を飲ませてくれただけでした。でも、人間、ほんとうに喉が渇いた時は、やはり何よりも冷たい飲み物がほしくなるものです。食欲のないわたしの様子を見て、彼らが勧めてくれたのは、白い液体でした。見た感じから、たぶん動物の乳であろうことはわかりましたが、あとから、それがクムスと称される馬乳酒だと教えられました。おっかなびっくり口にしたのですが、なんともいえず美味で、本当においしく、茶碗に3杯ほど飲み干しました。自分でも元気を取り戻していく感じがよくわかりました。そのあと、ウマル医師の診察室備え付けの簡易ベッドに横たわり、2時間ほどうつらうつらしていましたが、起きた時には元気は回復して、パンやラグマンと称するスープなども口にすることができるようになっていました。助かりました。あとで通訳に耳打ちされたのですが、もし回復が遅いようだったら、点滴で治療することもウマル医師は考えていたようでした。これも、回復後に知ったことですが、通訳の奥さまも病理学の学位を有する医師で、ウマル医師とは学友の関係だそうで、わたしのブハラ行きにあたって、何かあった時のことを考えて、彼女がウマル医師に依頼してくれたようです。わたしが休んだ部屋は彼の執務室兼診察室で、定かではありませんが、内分泌がご専門のようで、ベッド数200程度の病院の院長先生であり、わたしが横たわっている間も忙しげに部屋を出たり入ったりする気配をおぼろげに感じていました。病院を発ったのは19:30、もう日もかげり、そこから空港までの約40分は元気も回復して足取りも軽やかになっていました。ブハラ21:35発の便は予定通りで、タシケントのホテルへは11時前に着き、わたしの長い一日のブハラ旅行は終わりました。 帰国してから、ブハラで受けたわたしへの対応について、少し調べてみました。といいますのも、のどの渇きで水を欲するわたしに対して、水を一切飲ませなかったのはなぜなのか、そして飲まされた馬乳酒にはどのような効果があるのかについて、どうしても知りたかったからです。その結果、こんなことがわかりました。6月の中央アジアといえば、青空が広がり、日差しは容赦なく照りつけ、気温は40℃近くになります。気温が体温より高い炎天下を歩くのですから、水は摂って当たり前と思いがちですが、じつは、汗をかいているときに水を飲むと、胃がけいれんするなどの負担に加え、血中の塩分濃度が薄くなり、ふだんは一定に保たれている体内の電解質(ミネラル・イオン)バランスがくずれて、かえって熱中症になりやすくなるのだそうです。その点では、水を与えられなかったというのは正しい処置だったのです。日本と異なり、中央アジアでは湿度が低く、カラッとしていますので、炎天下で汗をかいた場合、すぐに蒸発し、その際の気化熱(熱を奪う作用)によって体温調節がうまくコントロールでき、熱中症を悪化させないで済んだのかもしれません。日本では、おそらくこうはいかなかったでしょう。医学の知識がなくても、中央アジアの住人ならば、自然に身につけた処置だったに違いありません。ただし、誤解をさける意味で、最近読んだ、内視鏡によるポリープ切除で知られる新谷弘美博士(わたしが出向していた鐘紡記念病院でも、一時、特別診察されていた)の『病気にならない生き方』の中に書かれた内容をご紹介しておきます。博士はその書の中で、「体はつねに水を欲している」と水を飲むことの必要性を強調しています。一方で博士は、「水は常日ごろから十分摂ることで体内の血液濃度を正常に保つことが肝要なのであって、汗が出たからとか、のどが渇いたから、とあわてて水だけを飲むのは望ましくなく、また、汗をかくと水分だけではなくミネラル分も奪われるので、水を飲む際は良質の塩を一緒に摂ることが望ましい」と警告しています。 (追記1)最初に熱中症になったサウジアラビア・ジェッダの私設ゴルフ場にて。わたしの唯一のゴルフスタイルの写真です (追記2 ) ウズベキスタンのカリモフ大統領は、1991年 (平成22年 9月) |
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