イデヨ・ノグチ小学校のこと

南米における野口英世博士の評価:
初めての外国だった南米コロンビアへ出張した1974年の頃は、予防接種をしたという証明であるイエローカードをパスポートにつけることが義務付けられていました。羽田の検疫所で黄熱の予防接種を受けましたが、もうそれだけで発熱するほど痛い接種でした。当時でも、黄熱病は日本ではすでに書物上の伝染病になっており、予防接種することで自分もこれで黄熱病の発生する熱帯地方へ行くのかと、ある種の感慨を込めていささか緊張したものでした。と同時に、そういえば野口英世博士は南米のどこかで黄熱病を研究していたな、と少年時代に偕成社から出ていた池田宣政著『熱と愛の巨人野口英世』を幾度となく読み返したことを思い出していました。博士が黄熱病の研究をしていたのはエクアドルの港町グアヤキルだということを知ったのは、コロンビアから帰国して半年ほど経ってから、今度は隣国エクアドルへ行くことが決まってからでした。日本を離れる前、たまたま娘が読みかけていた『野口英世伝』に目がとまり、彼女の小さな椅子に腰かけてページをめくっているうちに気付き、「えっ!その国へ行くのか」、わたしは、気持の昂ぶるのを押さえることができませんでした。

エクアドルの首都キトへ着いて間もなく、休日を利用してグアヤキルへ飛びました。グアヤキルは、キトの南西450キロの太平洋岸、グアヤ川の河口近くに位置する港町で、近代化の進んだ同国第一の商工業都市です。同市には博士の名前が冠された通りがあるというので、さっそく行ってみました。どちらかといえば何の変哲もないさびれた通りでしたが、確かに「ノグチ通り」の銘板のある通りが市の中心部に残っていました。しかし、案内してくれたタクシーの運転手は、その通りの名が、日本の著名なドクトールに由来していることは知らないようでした。博士がこの地で黄熱病の研究をしたのは1918年のこと、それから半世紀以上も経っているのですから、一般の人にとってはノグチの名は単なる通りの名前以上のものではなかったのでしょう。もっとも、これがいわゆる知識層になると、状況は一変しました。食事などでその種の人たちと話す機会があったときなどに話題を出せば、ほとんどの人はノグチの名を的確に知っていました。とくに医学関係者では、知らぬ人は皆無といってよく、わたしが長期滞在したエスメラルダスで日本人の主治医になってくれたドクトール・サラスなどは、「ドクトール・ノグチは、エクアドル医学界、いやエクアドル国民にとって大切な人だった」と、たいへん高い評価でした。

野口英世博士が、わたしたち日本人が想像する以上に両国をつよく結びつけていることを知ったのは、じつは、滞在も2年近くになった1976年11月に、グアヤキル、キト両市で博士の生誕100年祭が催されたときでした。エクアドルの主として医学関係者が中心になって、博士の生誕100年を記念して胸像を両市に建立しようという気運が生まれ、さっそく「野口英世博士生誕100年祭実行委員会」が発足し、協力を求められた日本側でも同名の委員会が設立され、実行に移されたのです。日本で製作された胸像はその年の8月12日に積み出され、11月9日にグアヤキル市で、エドアルド・モンカヨ市長、駐エクアドル横田大使夫妻列席のもとに、胸像除幕式がおごそかに挙行されました。と同時に、市の図書館では博士に関する貴重な資料が一般公開され、それが結構人気をよび、また記念切手も売り出されて、生誕祭に一段と花を添え、エクアドルでは時ならぬ日本ブームに沸き立ったのです。日本国内でも、駐日エクアドル大使館、NHK、野口英世記念会などの後援によって、エクアドル南部の古都ロハにある芸術音楽大学の民族アンサンブルが来日し、演奏会が開かれたそうです。かつて博士がエクアドルを去るとき、グアヤキルのオルメード劇場で盛大な謝恩送別会が催され、その際、グアヤキル大学医学部の学生たちが博士に対する謝恩の気持を、自分たちの奏でる演奏に託したといわれています。日本での演奏会は、この前例に倣(なら)い、あらためて博士への感謝の気持を表わす意図で催されたようです。数十年という時間をこえて、遠く離れた二つの国を、これほどまでつよく結びつけている博士の偉大さ、あるいは人間としての魅力なのか、わたしは深く感銘したものです。

イデヨ・ノグチ小学校:
博士の偉業はそれだけにとどまりませんでした。生誕祭がきっかけで、博士は思わぬことで両国の絆をさらに深めていたのです。というのは、生誕祭の新聞記事がきっかけで、キトの近郊、アンデス山中のひなびた山村のグアイリャバンバに、博士の名前がつけられた小学校が発見されたのです。この村にイデヨ・ノグチ(スペイン語では文頭のhは発音しないのでイデヨとなる)という名の古い小学校があったのですが、村では、なぜこのような意味不詳の名前がついたのか誰もわからないままでいたのです。ところが、博士生誕祭の新聞記事を見て、村民は、はたと膝をたたき、「わが村の小学校の名前は、日本の偉い学者先生の名前からとったのだ」と、たいへん名誉に思い、そのことをキトの新聞社に連絡したことから、事が明るみに出た というわけです。この話しをキト在住の日本人、高津さんから耳にしたとき、同じ日本人として万感胸に迫る思いでした。

それから間もなくの1977年2月、わたしは帰国のため、港町エスメラルダスからキトへ上がりました。帰国の途中、ペルーでインカの遺跡に立寄る計画も立てていましたが、時間が許せば、エスメラルダス河の源流点であるグアイリャバンバへ行き、イデヨ・ノグチ小学校をわが目で直接見ておきたいとも思っていました。キトは赤道直下で海抜2850メートル、優雅な姿の独立峰ピチンチャ山(海抜4787メートル)のふところに抱かれた高地に位置しています。キトでエスメから同行していた人たちと別れ、わたしは単身タクシーでグアイリャバンバへ向かいました。北へのびるパンアメリカン・ハイウエイを下って行くと、一時間ほどで大きく広がる鞍部に達します。ここまで来ると、ピチンチャは姿をかくし、代わりに、南北を縦断する2本のアンデス山脈を結ぶヌドと称する山並みが視野に入ってきます。周辺の山から吹きおろす風が複雑にからんで猛烈に吹き荒れ、道ばたの岩という岩は強風に浸食されて岩肌は荒れ、無数の小穴があき、人の営みを寄せ付けない荒涼とした風景です。鞍部からさらに下り、盆地に入ると風はなぎ、いくつかの集落が点在するようになり、最後の集落がきれたところで大きく左折すると、そこがさがし求めていたグアイリャバンバ村でした。往時、ペインからの移民者は、キトで高山病にかかった場合、この辺りまで下がると回復したといいますから、海抜にすれば1700メートルぐらいだったのでしょう。

南米ではよく見かける風景ですが、村の中心に教会と広場があり、家並みが広場を囲むように広がります。日干しレンガの塀は崩れかけ、砂防のための大きな常緑樹に囲まれた粗末な土壁の家、そのたたずまいは、忘れかけた日本の原風景を思い出させるものがありました。小高い丘を登り始めてすぐ、小学校が視野に入り、イデヨ・ノグチ小学校と書かれた赤い看板が目に入りました。野口英世博士の名前を冠した小学校にたどり着いたのです。教室が三つほどの小さな小学校でした。看板にニーニャとあるように、生徒さんは女の子だけ、どの児も屈託のない、いかにも南米らしく明るい表情でした。校長先生にお会いし、つたないスペイン語で学校を訪問したいきさつを説明したところ、校長先生は、新聞記事で名前の由来は知っていましたが、なぜこの学校に博士の名前がつけられたのかはむろん知りませんでした。けれど、日本人の、そのように偉いドクトールの名前がついたことは学校としてたいへん名誉なことだと語り、また、山の中の僻地にある学校へ日本人であるわたしがわざわざ訪ねたことを、こころから喜んで下さいました。学校の発見からまだ3ヶ月も経っておらず、エクアドルからの外信で日本の新聞にも記事が掲載されたようですが、日本人としての訪問は、わたしが初めてだったようです。ほんとうに短い時間の滞在でしたが、わたしにとっては、博士の名前のついた学校を訪れることができたことは大いなる喜びであり、再び来られるかどうかわからないエクアドルに、惜別の思いで別れを告げることができたのです。 (注記)わたしの訪問から何ヶ月かして、福島県郡山出身の後輩が、やはり帰国前に故郷への土産話にと訪問しました。それからまた何年か後に、野口英世博士の研究家である山本厚子さんが訪問し、本を出版されております。その時の写真では、学校もずいぶん様変わりしたようです。なお序ながら、帰国後、わたしはこの学校のことを猪苗代町の博士の記念館に手紙で知らせましたが、その手紙と同封した写真が、しばらくの間、同館に展示されていたようです。また、地元の小学校間で絵画の交換会なども持たれたようです。

おわりに:
それにしても、このような山の中の小さな村の小学校に、どうしてイデヨ・ノグチの名前がつけられたのでしょうか。むろん真相はわかりません。繰り返しになりますが、博士が黄熱病を研究していたのはグアヤキルで、それも1918年の7月から10月までのわずか3ヶ月にすぎません。その間の博士の個人的な事績は、2、3残された書簡からうかがい知るだけで、実際にはほとんど知られていません。研究熱心な博士のことですから、到着して休む間もなく、市の黄熱病避病院の研究室に引きこもり、研究に没頭していたと伝えられています。まだ飛行機便のなかった当時、グアヤキル−キト間の旅程は楽なものではなく、博士は、軍の招きで一度だけ予防接種実施のためにキトへ訪れたにすぎません。その一度きりの機会に、キトからグアイリャバンバへ行くなどとは、まったく考えられないことだといえます。おそらく、博士の研究を陰で支えた人たちの中に、グアイリャバンバ出身の人がいて、村に学校をつくるときに敬愛すべき博士の名をいただくことにした、というのがもっとも蓋然性に富んだ想定ではないでしょうか。短時間で研究の成果をあげた博士の頭脳、忍耐力、そして努力に対して、それを間近に見た人は驚嘆し、子供たちにもぜひ博士を見習わせたいという思いから、小学校の名前につけたのではないでしょうか、とわたしは考えています。そうした思いは思いとして、エクアドルのグアイリャバンバに博士の名前が残っていることは厳然たる事実であり、そればかりでなく、ペルーやメキシコなど、訪れた先々で名前や銅像を残しているという野口英世博士の偉大さは、筆舌に表わせないものがあります。どのような経緯で名前がつけられたのか、そのような詮索は、博士の偉大さの前ではどうでもよい末梢的な事柄に過ぎないのではないでしょうか。いやむしろ、なぞに包まれていたほうが、野口英世博士にはふさわしいのかも知れません。

(平成21年 9月)

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