大阪府立狭山池博物館

博物館正面を望む

狭山池(湖)といいますと、首都圏に住む人は、村山湖とともに東京の水がめとしての狭山湖を連想すると思います。最近はどんな様子か知りませんが、かつては小学校の遠足での格好の候補地でした。わたしも最近になって知ったのですが、じつは大阪・南河内の大阪狭山市にも狭山池があります。こちらは、飛鳥時代に川をせきとめて築造された日本最古の人工のため池として1400年の歴史を有しており、その間、いくたびかの改修を経て、平成27年(2015年)に国の史跡に指定された由緒ある池です。それも単なる池ではなく、平成の大改修で利水・治水機能をもつ近代的なダムに変貌しております。そのような貴重な人工池ですから、関西の人にとっては、狭山池といえば、本家はこちらだという自負があるでしょうし、たしかにその通りだと思います。

博物館入口前中庭

昭和63年(1988年)に始められ、平成14年(2002年)に完成した「平成の大改修」では、たんに人工池をダムに生まれ変わらせただけでなく、工事の間に1400年の歴史を伝える数々の土木技術上あるいは文化上でも貴重な遺産の発見をもたらせました。そうした歴史的な遺産を、池と一体化した形で後世に継承する計らいで建設されたのが大阪府立狭山池博物館で、誕生したのは大改修の完成とほぼ同時期の平成13年(2001年)のことでした。人口数万の小さな市である大阪狭山市に存在する、世界でも類を見ないような珍しい博物館です。なによりもびっくりさせられるのが、館内に、高さ15メートルにもおよぶ池の北堤から切り取って移築された巨大な堤体が展示されていることです。こうした試みは世界でも例がなく、1400年前の築造当時の堤がその工法とともに実際に自分の目で確かめられ、また、いくたびかの改修時に積み重ねられた堤の層状も手にとるように見ることができるのです。公立の博物館であってもレプリカの展示物が多い昨今、1400年間の痕跡と対面ができる、そんな博物館は少ないのではないでしょうか。

館内に移築された堤体断面の展示1*

それだけではありません。館内では、堤体築造に採用された工法の一つ、朝鮮から伝えられた「敷葉工法」の技術説明がなされ、堤体に埋設されたかんがい用の樋に関しては、築造時に高野槇でつくられた樋、鎌倉期の改修では重源上人が古墳の石棺を利用してつくったとされる石樋(屋外保存)、および上人によって改修されたことを記した石碑、江戸期改修時の中樋・東樋などが生々しいまでに当時の姿を展示しているのです。この木樋および改修石碑は重要文化財に指定されています。展示された土木技術遺産とはべつに、わたしが注視したのは、狭山池の改修には何人かの歴史上の人物が関わりあってきたという点です。時系列にその名を挙げますと、行基、重源(後述)、片桐且元、小堀遠州などです。片桐且元は、信長亡きあと秀吉の天下取りを定かにした賤ヶ岳の七本槍の一人として名をあげたことで知られ、その後は豊臣と徳川間との確執にほんろうされた、どちらかと言えば小説の世界で描かれた不運の武将だと言えます。秀頼の命にしたがって慶長13年に改修事業に従事したようですが、大阪冬の陣を数年後に控えて気忙しかったあの時代に、社会事業に寄与した立派な武将だと言えるでしょう。

秋山徳三郎氏卒業論文『大阪天満橋改築』

わたしとこの博物館とは、拙著『技術中将の日米戦争』(2006年刊 光人社NF文庫)執筆中に発見した、主人公秋山徳三郎氏(元陸軍中将)の東京帝国大学卒業時の論文が縁で、これまでに2、3回の接点がありました。最初は、その論文の引き取り先を探していたときのことで、出版からちょうど2年ほど経っていた平成20年(2008年)夏のことでした。氏の論文『大阪市天満橋改築』は、 明治21年にドイツ製の鉄骨で架橋されていた天満橋の改築計画で、大正期に実際にこの計画にしたがって改築されたようです(現在は新たな橋となっている)。まだ手回しのタイガー計算機が普及する前のことで、氏は大型のHEMMI計算尺で厖大な量の計算をした立派な卒業論文です。その書の「あとがき」で記したのですが、氏の論文は、ひじょうに貴重なものなので、どこかの大学・図書館等に引き取ってもらい後世の研究者・学徒の資料にしてもらえれば有意義ではなかろうか、と思っていました。あいにく東大の土木工学科(現社会基盤学科)には丁重に断られたため、土木学会図書館坂本氏を通じて日本技術士会の理事をされていた正木啓子さん(大阪府土木部長を経て当時大阪府道路公社常務理事)にお願いし、結局、大阪府富田林土木事務所(大阪府立狭山池博物館)が引き取ってくれることになったのです。

「平成19年度特別公開」チラシ

然るべき公立の博物館が引き取ってくれるということで、わたしは一安心し、これで論文寄贈を快諾してくれた秋山氏ご遺族に対する面目をほどこせた、と思いました。ところが、事は思いもよらぬ方へ進んでしまいました。大阪府知事が新しく変わられて、府の施設に対して財政的にきびしい対応を求めるようになったのです。狭山池博物館も、廃止の可能性もふくめて、運営の見直しを図るよう求められたようです。論文の展示どころの話ではなくなってしまったのです。ほどなく、秋山氏のご遺族からは、わざわざ行ったのに展示されていなかった、という話が伝えられ、わたしの面目は一転してまるつぶれになってしまいました。すぐにでも博物館へ馳せ参じたい思いでしたが、それもかなわず、電話で博物館をはじめ関係筋へ問い合わせてみましたが、明るい話は聞くことができませんでした。博物館へ訪問することができたのは平成24年(2012年)秋のことでした。奈良で開催されていた『頼朝と重源』展を観に行った足で大阪狭山市の博物館を訪れました。論文を寄贈してから、ちょうど4年の歳月がながれていました。幸いなことに館長さんは寄贈した当時のまま工楽善通氏で、話しはすぐに通りました。学芸員の方も事情をよくご存知で、論文はしっかりと保存されていました。館長さんのお話では、幸いなことに、館は大阪府と大阪狭山市(市立郷土資料館が博物館内に併設)の共同運営ということで存続し、さらに狭山池祭り実行委員会とも組んで、「桜まつり」、「狭山池まつり」などを実施することで、池との一体活用をつよくアピールすることで、地域と密接に結び付いた博物館として生き残っていくことにしたようです。館が狭山池と一体だという性格上、橋梁関係の論文の展示はすぐにはむずかしいが、いずれ「土木遺産展」のような形態を企画し、その折に展示を検討したいという館長さんのご意向が示されました。

「土木遺産展」チラシ

館長さんのご案内で館内を一巡していた際、ゆくりなくも「重源上人像」(伊賀・新大佛寺所蔵の重源像レプリカ)の展示がなされていることを発見し、びっくりしました。「このようなところになぜ?」の思いをつよくしたのですが、平成大改修のさなか、重源が建仁年間の大改修に従事したことを示す碑が発見されたのだとの説明を聞いて、納得したものの、わたしにしてみればたいへんな驚きでした。南都東大寺は、治承5年、平重衡によって炎上しましたが、その造営勧進職に重源上人が任じられました。上人は生涯を東大寺再興に心血を注ぎましたが、その事蹟は東大寺にとどまらず、各地の建築・彫刻・工芸、その他と広範にわたっています。その事蹟は自身が録した『作善集』にまとめられており、上人の狭山池改修は建仁2年(1202年)で、すでに82歳になっていました。入滅4年前のことでしたが、それでも当時、伊賀・新大佛寺の建設、あるいは東大寺南大門の仁王像の着造なども行っており、その精力的な活動には頭が下がる思いです。改修石碑の発見は、重源上人の事蹟の明白な証しであり、まさに重要文化財に値するもので、上人信奉者のわたしとしては、この発見、たいへん喜ばしく思っています。

「土木遺産展」展示室の一光景

今年の2月末でしたか、狭山池博物館工楽館長さんから、3月18日〜5月7日まで特別企画展「土木遺産展」を開催し、秋山氏の卒論を展示するむねのお手紙をいただきました。うれしい知らせでした。さっそく東京、兵庫県柏原市に在住のご遺族、それに2,3の関係者に連絡しました。わたし自身も、開催されたらすぐにでも行くつもりでいたところ、あいにく開催期間中、体調が思わしくなく、やきもきしているうちに開催最終日が近づきました。6月のニュースレターに書きましたが、なんとか5月7日の最終日にとんぼ返りで行って来ました。2、3日前に訪館した丹波新聞の小田晋作主筆2*からお聞きしていたのでしょうか、日曜日にもかかわらず館長さんもご出勤され、待っていてくださいました。件の「土木遺産展」、けっしてひいきめということではなく、すばらしいの一語につきました。この種の企画展がよそでもあったのかどうか、わたしは存じませんが、土木遺産という特殊な分野だけに、あまり例はなかったのではないでしょうか。来場者は、予想していたよりは多く、特に女性も含め若者の姿の多かったこと、うれしいかぎりでした。土木学会のレジェンドとでも称してもよい田辺朔朗氏の琵琶湖疏水工事関連の展示では、たぶん記録写真代わりに描かせたとも思われる彩色スケッチのすばらしかったこと、また図面の展示では、鉄骨橋梁構造図の精密さ、美しさは、見る者を圧倒する迫力がありました。その中で秋山徳三郎氏の卒論も、小ぶりながら、緻密に書かれた文字、計算尺を用いての手計算でまとめられた構造計算書、魅せるものがありました。たまたま展示室内に昭和29年製のタイガー計算機が展示されていましたが、ふと思ったのは、その計算機を見たコンピュータ―時代の若き学徒たち、それを使ってどのように計算するのか、また秋山氏のようにそうした計算機も使えずに手計算で巨大な鉄骨構造物の計算をしたことなど想像できるのだろうか、と……。さらには、展示されていたリベットが1本1本描かれていたすばらしい構造図が、CAD3 *から自動的に出てきたのではないということを理解できるのだろうか等など、と……。

博物館から狭山池西南部を望む

狭山湖は、古来景観の地として知られ、昭和15年(1941年)に大阪府の史跡名勝第1号に指定されており、また名だたるサクラの名所でもあるそうで、「土木遺産展」も、あるいはサクラの開花時期に合わせて開催されたのかも知れません。できれば、わたしも一度は観桜したかったのですが、それが出来なかったこと、残念に思っております。狭山博物館は著名な建築家安藤忠雄氏の設計によるもので、今回、時間の許す範囲で建物も見てきました。たぶん、そのデザイン・コンセプトは「水との調和」だったのでしょうが、ゲートから入って博物館入口に至るアクセスで、氏らしい大胆な設計の中に、水を意識したデザインが随所に見られました。一方、正直に申して、入口に至る動線が長く、かつ、たいへん分かりにくいことにとまどいました。氏は来館者に、これから1400年前の池へ入って行くのだということを意識させ、ひとたび館内へ入れば、そこには歴史の中に埋もれてきた数々の貴重な遺跡が俟ってくれているのだ、という高揚感を持たせようとしたのではないでしょうか。建築デザインに関して未熟ではありますが、わたしはそんな思いで館を去りました。不便な場所(南海高野線・大阪狭山池駅下車)ではありますが、もし機会があれば、大阪狭山池博物館をお訪ねすることおすすめです。

注記1)展示された堤体の写真、インターネット上から借用致しました。
(注記2) 5月11日(木)の丹波新聞コラム「丹波春秋」に、郷土の人・秋山徳三郎氏の卒論が、大阪狭山池博物館で開催中の「土木遺産展」で展示されていることが紹介されていました。
(注記3)CADとはComputer Assisted Designの略で自動作図機のこと。

    

(2017年8月)

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