エクアドルのサッカー

日本におけるサッカーが、いつの頃から今日みられるようなビッグなスポーツになったのか、わたしはよくは知りません。社会人になって間もなくの東京オリンピックで、日本のサッカーチームが3対2で強豪アルゼンチンに勝利し、ベスト8になったことなど、「東洋の魔女」の歓喜溢れるニュースや、柔道の神永がへーシングに抑え込められて完敗した悲痛な記事のかげに隠れて、まったく歯牙にもかけられなかったような気がしております。その4年後、1968年のメキシコ・オリンピックで銅メダルを取ったときには、さすがに快挙として大きく報じられ、釜本邦茂や杉山隆一といったスタープレーヤーの名が脚光をあびたことは記憶しております。何しろ、ナイジェリアとフランスに快勝し、ブラジルとスペインといった強豪国とも引き分けたのですから、今考えてみると、ずいぶん凄いことをやらかしたものだ、と思っています。釜本選手はのちに国会議員になりましたし、杉山選手も海外から「黄金の20万ドル」と、もてはやされました。それでも、サッカーがビッグなスポーツになったわけではなく、FIFAワールドカップなどは、わたしは名前すら知らない遠い存在でした。サッカーに多少なりと興味をいだくようになったのは、南米エクアドルでサッカー(南米ではフットボールというのが一般的ですが、小文では、聞き慣れたサッカーで統一します)が身近なものになって以来です。

エクアドルへはじめて入国したのは1974年8月のことでした。同国北端の港町エスメラルダスに製油所を建設するための調査と下打ち合わせのためで、首都キトの中心部にあった、同市で1、2位を競うホテル・コロンに宿泊しました。到着して何日目だったか、ねむりについて間もなくのこと、けたたましい車のクラクションで起こされました。事情のわからぬ者にとっては、何十台もの車が、警笛を鳴らしながら町中を暴走しているとしか思えませんでした。日本でも、暴走族がパラリロパラリロとけたたましい騒音をたてて走り回ることがありますが、静かなキトの街中にも暴走族がいるのか、とある種の諦めの気持ちと、あの馬鹿どもがという気持ちとが錯綜しました。それにしても、ずいぶん長いこと走り回るなと呆れ果てたことを覚えています。翌朝、フロントで、キトのサッカーチーム、それが名門LDUキトだったのか、デボルティーボ・キトだったのかは、当時のわたしとしては知るよしもありませんでしたが、何かのゲームを制したことに対するフアンの歓喜だったことを知りました。サッカーにチアホーンはつきものだと知った、はじめての経験であり、とてつもない洗礼でした。当時、サッカーの神様、ブラジルのペレはまだ健在で、ブラジル代表からは退いていましたが、アメリカでNYコスモスに在籍し、現役で活躍していました。ブラジル国内ではむろんのこと、南米の至るところで、ペレといえば神様、その神様にあこがれて、街中のちょっとした空き地で、子供たちがボールを蹴っていました。そうか、エクアドルも南米の国、サッカーは国技なのだ。そのことをまざまざと見せ付けられ、また教えられた2ヶ月間の滞在でした。

いったん帰国し、翌1975年2月に改めてエクアドルへ赴任しました。今度は建設現場のあるエスメラルダスです。黒人の多い町で、身体能力の高そうな、足の速そうな子供たちが、それこそ町中でボールを蹴り、ボールに戯れていました。そんな子供たちの動きを見ていて、一つのことに気づきました。彼らはボールの扱いに天性のものを持っているのです。ほかに遊ぶものがない中で、サッカーだけは、ボール一つあれば空き地で遊べるのですから、これはボールの扱いがうまくならない筈がないのでしょう。日本から行った仲間の中に、大学時代サッカーをやっていた人がいました。大学の名前から考えて、たぶん同好会のような部だったのでしょうが、それでもサッカー部に所属していたわけで、しょっちゅうボールを手に(いや足というべきか)していました。そして、休みの時など、集まってくる子供たちにサッカーを教えてあげるのだ、と一緒にプレーしていました。ちょっと見ていたのですが、子供がキープしていたボールを奪おうと近寄って行きましたら、その子は、ボールを両足ではさみ、ヒョイッと背中に乗せ、次の瞬間、そのボールを近寄っていった人の横に落すや、そのままドリブルでやすやすと抜き去って行ったのです。大学サッカー部も台無しでした。むろんサッカーも足技だけではないでしょうが、少なくてもボールの扱いに関しては、日本人は軽くあしらわれてしまうようです。

ところで、当然のことながら、当時エクアドルにはプロのリーグがありました。それも1920年台にはFIFAへ加盟したといいますから、相当な歴史があったようです。詳しくは知りませんが、1部リーグとして20チームあり、それがセリエA,セリエBとに分かれていました。その他に、州単位の地域リーグもあったようですが、むろんセリエAが花形で、その中でスター選手にでもなれば、富と名声が得られますので、一握りの階級に国の経済力が握られているエクアドルでは、子供たちが最もあこがれる職業だといわれていました。いずれにしても、1部リーグの戦績は連日のように写真入で大きく報道され、地元のひいきのチームが勝とうものなら、もう大騒ぎ、キトでわたしが経験したようなことになるわけです。セリエAのチームはキトとか同国第一の大都市グアヤキルに本拠をおき、あとは地方の大都市に所属していますが、残念ながら、わたしが住んだエスメラルダスにはプロチームを持つだけの大きな企業がなく、プロのチームはありませんでした。しかし、サッカー熱は高く、身体能力の高い黒人の多い町ですから、一流選手発掘の眼が注がれていたようです。その目的もあったのか、滞在中、ペルー国境に近い海岸都市マチャラのプロチームCarmen Moraが遠いエスメラルダスまでわざわざ来て、市内のサッカー競技場、 といっても写真で見られるようなお粗末なものでしたが、そこでエスメラルダス選抜チームと対戦しました。結果は、選抜チーム善戦むなしく、だったと記憶していますが、わたしの興味は、同チームの花形選手だったウビラシー・ダ・シルヴァの周りに群がる子供たちの姿でした。彼らは、口々に「ねえ、どうしたらサッカーうまくなるの?」とか、「プロになるにはどうしたらいいのか?」などと聞いていたに違いありません。とはいっても、エクアドルの実力は、当時は南米10カ国のうち、最低のレベルだったようです。「W杯に出場してないのはエクアドルとベネズエラの二国だけ。二国とも今世紀中には出場できないだろう」というのが通の予想でした。南米では、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、ウルグアイの四カ国が世界的なレベルでの強豪(今回の大会でも出場していました)で、他のいわゆるアンデス諸国との間のレベル差は大きく、しかも、W杯へはOPEC(石油輸出国機構)加盟の二国だけが参加していないのです。石油があるから、その分おおらかなのだ、と思われるかもしれませんが、石油は他国でも産出していますし、エクアドルは南米の中でも最貧国の一つなのです。

しかし、エクアドル・サッカー界に革命が起こりました。1980年台後半に、代表監督としてヨーロッパから著名な指導者を招聘したのです。そして、太平洋海岸沿いの黒人居住地を中心に、ひろく有能な人材発掘に努め、南米風の華麗な身のこなしとボールさばきに加えて、ヨーロッパ的なシステマティックなプレーのできる選手の育成を図ったといわれています。おそらく、 エスメラルダス辺りからも、幾多の人材が発掘されたに違いありません。そうした努力はやがて実を結び、南米2位の成績で2002年のW杯日韓大会に出場を決めたのです。まさに100年来の悲願が達せられたのです。残念ながら、1次予選でイタリア、メキシコといった強豪に破れて予選通過の夢は破れましたが、第3戦は、横浜国際総合競技場(現日産スタジアム)で前回3位のクロアチアと対戦し、1対0で勝利したのです。W杯 におけるエクアドルの初得点であり、初勝利を飾ったのです。ベスト16には進めませんでしたが、横浜市民は精一杯の応援をしました。試合の翌日、エクアドル代表は市長を表敬訪問し、市民の暖かい応援へのお礼と、両国間の親善のためにということで、チーム主将アレックス・アギナガ、アウグスト・ポロソ、そしてイバン・ウルタードの3選手の足形を記念碑として残しました。現在、その碑は磯子区役所1階ホールの壁に掛けられています。

横浜での対戦に当たっては、多くの市民がボランティアとして参加しました。通訳として中心的な役を担ったのがアナマリア・キドさん(わたしがエスメラルダス滞在中、事務所のクラークとして働き、その間、社員の一人と恋仲となって国際結婚しました。しばらく横浜に住み、現在はエクアドルにもどり、エスメラルダス近郊の村の村長をしている)でした。そんなこともありまして、わたしは足形を残した3選手の中には、ひょっとしてエスメラルダス出身者がいたのではなかろうか、と秘かな思いを持っているのですが、今となっては、それを確認するすべはありません。なお、エクアドルは2006年のドイツ大会にも出場し、このときはベスト16に進出しました。その大会では完敗した日本代表のことを考えれば、ドイツに負けはしたものの、ポーランド、コスタリカを撃破したのですから、同国の実力が確実についてきたことを示しているといえるでしょう。
ところで日本のサッカーのことですが、この夏のワールドカップ南アフリカ大会での岡田ジャパンの活躍はみごとでした。Jリーグが発足してから、まだ20年足らずでベスト16ですから、さすが日本だと胸をはってもよいと思います。しかし、試合内容を客観的にみれば、ボールキープ、パスの精度、ピッチ支配など、総合的にはまだまだのような気がします。考えてみれば、エクアドルは100年かかり、ようやく世界のレベルにたどり着いたのです。日本は、東京やメキシコ・オリンピックの頃から数えても、まだ半分も費やしていないのです。焦ることはありません。2014年、さらに2018年の大会に向けて、さらに力をつけてくれることを期待しています。

(平成22年 8月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む