ツマコとエスメラルダス

ツマコ:
パナマ運河は、スエズ運河の設計者レセップスによって計画され、1880年にフランス主導で着工されたが、難工事に伴う資金不足のため、9年後に計画は放棄されました(のちにアメリカ主導により完成する)。労働者の多くはアフリカから連れて来られた黒人奴隷でしたが、過酷な気象条件、そしてマラリアと黄熱病の蔓延により、3万人が亡くなったといわれています。当然のことながら、黒人労働者のなかには逃亡を企てる者も多くいました。彼らはオンボロの船で、あるいは丸太にしがみついて太平洋上へ逃れました。逃亡者はカリフォルニア海流に乗って南下しましたが、赤道付近まで来ると、北上するペルー海流(フンボルト海流ともいう)とぶつかり、それ以上の南下はできませんでした。下手をすれば赤道海流によって遠く西沖合、 ガラパゴス諸島へ持っていかれるし、南極海に端を発する寒流の冷たさは、黒人たちには耐えがたかったでしょう。そのため、彼らは赤道に近い海岸へ上陸せざるを得ず、上陸地点に黒人の街が発展しました。コロンビアのツマコ、エクアドルのエスメラルダスなどで、パナマからは、直線距離でわずか300キロのところです。

わたしが会社に入って、はじめての海外出張は南米コロンビアでした。太平洋に面する同国最南端の港町ツマコに製油所建設の計画があり、その現地調査に派遣されたのです。それまでに飛行機には何度か乗っていましたが、機上から外国の町の灯を見たのは同国の首都ボゴタが最初でした。漆黒の闇の中に煌くように輝くボゴタの灯の美しさは、今でもまぶたに焼き付いて離れないでいます。そのボゴタで、「これからツマコへ行くのだ」というと、たいていの人は「えっ!」っとしばし絶句し、「ツマコはコロンビアにあるけれど、あそこはコロンビアではない」というのです。要は、それほどひどいところなのだ、ということなのでしょう。しかしその一方で、「だけど、あそこからはミスユニバースが誕生しているし、美人が結構多いんだ」、とへんな慰めをしてくれる人もいました。コロンビアといえば、コスタリカ、チリとともに、美人の多い「南米3Cの国」として、出発前から耳にしていた国、そのコロンビアでもミスユニバースを生んだ美人ぞろいの町だとなると、心は妖しくはやりました。これは何としても現地を見ないことには話にはならないと、ボゴタに到着の翌日、コロンビアの主要都市カリへ飛び、そこへ一泊して、往年の名機とはいえオンボロのDC-3(帰国後しばらくして、その機はカリからツマコへ向かう途中のジャングルに墜落と報じられた)に揺られてツマコ空港へ着いたのは、1974年(昭和49年)1月17日のことでした。

ツマコは北緯1.81度、ほぼ赤道直下、エクアドルとの国境近くに位置しています。周辺は大小無数の河川が河口汽水域を成しており、町はうっそうとしたマングローブの樹林帯に囲まれ、陸路としては、樹林帯を切り開いてアンデス山中のパストとを結んだ道が一本通っているだけ。経済的にも、文化的にも、他の地域とはまったく閉ざされた町です。カリとの間を結ぶ1日わずか2便の飛行機便がツマコの命綱で、天候が悪ければ、この町は、まさに陸の孤島となってしまうのです。泊ったホテルはツマコ唯一といってもよいResidencias Americanas、ホテルといっても、むろんトイレは共用、バスタブなどあろう筈もなく、たらたらと流れ落ちるていどの水のシャワーだけ。その夜は、先行していた先輩のK氏とクリーク沿いの屋台みたいな店で夕食、何を食したか記憶にありませんが、食事中、流しのおじさんが演奏してくれたクンビアのもの悲しげなメロディだけはまだ頭というか、耳の片隅に残っています。クンビアといえば、その後エクアドルでいやというほど聴くことになり、また何曲かのテープを持ち帰っていますが、エクアドルのクンビアと比較すると、その夜聴いたクンビアの、なんと哀愁のこもっていたことか。元々はアフリカから持ち込まれたリズムのようですが、コロンビアで得たわたしの理解では、カリブ海近郊の農園で酷使された黒人たちが、労働のつらさをこのリズムで忘れようとしたのだそうです。さすれば、ツマコで聴いたクンビアのもの悲しいメロディこそが正調で、その後の時代の変遷、労働環境の変貌とともに、クンビアのメロディは明るくなり、中南米を代表するダンス・ミュージックとして注目を集めるようになったのでしょう。その夜は、クンビアのもの悲しげなリズムが耳にこびりついて、いつまでも眠れませんでした。
現地調査というのは多種にわたりますが、わたしが担当した項目では、重量物の荷揚げのための港湾施設とサイトまでの道路・橋梁などのインフラストラクチャー、それにコンクリート用の砂利・砂の確保が最重要項目でした。とくにコンクリートはわたしの専門でしたから、ツマコに着いた翌日、さっそく焼玉エンジンのついた小船を雇い、ツマコに流れ込む河の一つ、ミラ河を遡上しました。この河は、アンデス山脈のインバブラ山(エクアドル領内4680メートル)に端を発しており、波当たりのない汽水域に注いでいる関係で流域はマングローブ林がうっそうと繁り、そのまま陸上の植生につながっていますので、まさに赤道直下のジャングルの中の水路でした。映画やTVのドキュメンタリーの世界のようで、通訳と二人、船を操る船頭とさかのぼっていく様は、あたかも自分が探検家か冒険家にでもなった気分で、このまま遡上続ければエクアドル国境へたどり着けるのか、と爽快な気持ちになったものです。ツマコに製油所を建設する計画は、帰国して、見積作業を開始しようかというときに中止になりました。それはそうでしょう。じつは、建設予定地は、広大なマングローブ林を機械で伐採し、根っこは放置したままで土地の造成をしたところだったのです。当然のことながら残された根っこに妨げられて、杭打ちや基礎の工事など出来よう筈はなかったのですから。ところで美人はどうだったのか?ですって。わたしは建設工事の調査のためにツマコへ行ったのであって、あいにく美人に関する調査はチェック項目に入っておらず、チェック・シートに忠実だったわたしは、結局、未調査のままで終わってしまいました。ほんとうに残念でした。

エスメラルダス:

コロンビアで調査していた、ちょうど同じ時期に、併行して隣国エクアドルのエスメラルダスに製油所建設の話もあり、2月半ば、わたしがコロンビアから帰国してすぐ、見積り作業が始まりました。そして、その年の8月に、設計・工事実施のための準備作業のため、今度はエクアドルへ行くことになりました。すっかり南米づいたようでした。同国の首都キトはまさに赤道直下、海抜2850メートル、「一日のうちに四季がある」といわれているように、朝晩は春ないしは秋の気候、日中は赤道直下の強い日差しに当てられ、日が落ちると、これまた高山にいるのと同じ気候。ホテルのパーティなどでは着飾った女性が、毛皮のコートをちょっと肩に掛け、車に乗り込む姿などがよく見受けられました。2850を超える高地ともなると、当然高山病の症状が出ますが、わたしは、その前に2600メートルのボゴタを経験していたので、それほど困ることはありませんでした。しかし、このていどの高さになると、100メートルていどの差でも影響は大きいのですね。当時、商社を中心に何人かの日本人も滞在しており、たまには、そのような方に日本食の接待を受けて、ご自宅を訪問するのですが、大方が高台にお住まいで、いざ食事をとなると、気持ちがわるくなり、せっかくの日本食を目の前にしながら箸が進まなくなったものです。町のビルの灯りは、手がとどきそうなところに見えるのですが、悔しい思いを幾度かしたものです。それなのに、ホテルへもどると急に空腹を覚えるのですから、しゃくな話でした。キトの高度にまつわる逸話として、こんな話が伝わっていました。某国(名誉のためにこう表現しておきます)の大使が着任して、空港へ降り立ってすぐ重篤な高山病の症状が出て、その治癒のためには高度の低いところへ移さねば、ということで、結局、信任状を捧呈することなく、高度1500メートルのカリ経由で帰国したそうです。2850でこうなのですから、標高3600メートルといわれるボリビアの首都ラパスではどうなってしまうのでしょうか。

製油所を建設するエスメラルダスは、同国最北端、太平洋に注ぐエスメラルダス河の河口に開けた港町で、人口は定かではないが、15万人ほど(当時)だったでしょうか。コロンビアのツマコとは直線距離で130キロメートルほどの近距離です。ツマコ同様パナマ運河からの逃亡者が流れ着いて土着したところですから、赤道直下の港町、住民はほとんどが黒人、という点でよく似た町ではありますが、周辺の自然環境、あるいは生活環境ということでは、受ける感じや雰囲気はかなり異なっていました。この町へのアクセスも、アンデス越えの道が1本のほかに、滑走路は草地という空港が一つという点ではツマコと同じです。が、ラス・パルナス(ヤシの木のこと)、アタカメスといった同国有数の海岸リゾート地(?)を後背にひかえているために、閉ざされた町というイメージはまったくなく、町へ入る際には道路は1本ですが、アンデスを越えてキトへ行く道のほかに、途中から同国一の商業都市グアヤキルへ行く道、太平洋沿の漁業都市マンタへ行く道などがあり、空港からはキトのほかにグアヤキルへも就航便があるなど、エスメラルダス州の州都だけに、それなりの都市機能を備えているのです。それに、アンデスを下ると、もう道の両側は一面のバナナ畑、したがってエスメラルダスはバナナの有力な輸出中継港です。日本で一時すたれていたエクアドル産のバナナは、最近では高級品としてスーパーなどによく並んでいますが、それを口にする時、もしかしたらエスメ産のバナナではないかと、いつも懐かしく食しています。

日本人との関係:
ツマコ、エスメラルダス両市とも、そこへ製油所を建設する、あるいは建設を予定したということで、わたしたちが訪れたわけですから、早い時期に訪れた日本人だということができるでしょう。とくに両市に足跡を印した日本人は、おそらくわたしをおいて他にいないということは、それが自慢することなのかどうかは別として、わたしが秘かな自慢していることでもあります。では、日本人として初めてだったのかというと、この点の確証はありません。じつは後年になってから知ったのですが、 先の戦争の直前、日本はエスメラルダス州と、隣接するマナビ州とにまたがる広大な鉱区の譲渡権を得て、石油調査団を現地に送っていたのです。あいにく調査半ばにして日米が開戦し、アメリカ側についたエクアドル政府は調査団々員を敵性国家の人として拘束し、アメリカに引き渡したという経緯があったのです。その調査の際、エスメラルダスまで足を伸ばしたかどうかについては定かな根拠はないのですが、エスメラルダスの近傍は、比重が0.1〜0.2と世界で一番軽量だといわれるバルサ材の産地で、軽く、強く、そして加工しやすいというその特長から、当時の日本でも戦闘機の内装材などによく使われていた関係で(現在は模型飛行機などで多用されている)、軍あるいは航空機メーカー関係者が、バルサ材の出荷港としてエスメラルダスの町へ訪れたことは、十分考えられるのです。一方のツマコは、日本人の関与ははっきりしないのですが、ツマコの周辺にも製材工場は多く、ペルーの過酷な労働条件から逃れ、コロンビアに達した日本人移民も幾組かいたようですから、案外、辺境ツマコで日系の方が製材業で働いていた人もいたのかも知れません。いずれにしても、ツマコとエスメラルダスという辺境の地、そんなところでも、どっこい日本人は訪ねていたことは濃厚だといえます。わたしも紛れもなくその一人、しかも、その双方を訪ねた唯一の日本人なのです。

(平成21年 8月)

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