南米で行き損なったところ

エクアドル国内地図

今回のタイトル『行き損なったところ』、というのは奇異に映るかもしれません。 海外旅行といえば、自分でスケジュールを組むにせよ、旅行社が企画したツアー参加するにせよ、旅の目的がはっきりしていますので、まず「行き損なう」ということはないのだと思います。わたしの場合、海外旅行といっても、海外滞在中、あるいは滞在からの帰途の途中を利用して足を延ばすことが多かったので、どうしても計画そのものに無理があり、結果的に計画がとん挫することが多かったのです。残念なことでしたが、やむを得なかったと思っています。いまにして思えば、行き損なったところというのは、やはり南米エクアドルに滞在した足掛け3年、26か月の滞在中に夢想した旅の計画でした。その後のサウジアラビアでの2年強は、当時の同国では、現代的な意味での旅という概念が全く存在していない時代(現在では旅行会社が企画するツアーがあるようですが)でしたし、アルジェリアではテロの影響で塀の中での生活、外出といえば大使館のむくつき警護官(でも好漢ばかりでした)つきという状態でしたから、これまた旅どころではありませんでした。ということで、エクアドルで夢想した旅行計画について一文にまとめてみました。書いてみると、たぶん日本人にはあまり知られていないところが多く、それはそれなりに一種の旅行案内記になったかな、と勝手に思っています。まあ、だまされたと思って、ご一読ください。

ガラパゴス諸島地図

ガラパゴス諸島:
南米エクアドルでの長期滞在はもう30数年前のこと、古い話です。出かける前、一応はその国のことを調べますが、そこで知り得たことは、野口英世博士が黄熱病菌を発見した(その後、黄熱病はウイルス性だとなっていますが)のが同国第一の都市グアヤキルだということ(2009年9月号参照)、そして有名なガラパゴス諸島が同国にあるということでした。帰国の際には、なんとしても訪れてみたいと、同島に関する書を購入し、同島に関する知見のある人とも接触するなど、ひそかに計画を立てていました。滞在中、たまたま首都のキトでガラパゴスへ行くのだという二人の日本人女性に会いました。チャンスとばかり食事を共にし、どのような計画なのか聞いてみました。彼女たち、日本で知り合ったエクアドルの男性(彼女たちが所属する公的機関への研修生だったとのこと)を訪ねてグアヤキルへ行き、そこから島に渡る計画だそうですが、彼にすべてを任せているので詳しいことは知らないようでした。その当時のガラパゴス諸島へは、いまと異なりホテルなどなく宿泊はすべて船中、島への滞在も乗船客の希望によって決まり、天候の影響を強く受けるために旅行日数もかわるという不規則なものでした。したがって事前に予約しても、人数がそろわなければ船は出ず、団体客が入った時にははみ出されてしまう、という不確かな条件のようでした。そんなわけで、わたしのように現場勤務の場合、帰国の日取りが確定するのは直前になってからなので事前に申し込んでおくのは難しいし、限られた日数の中で不定期な船旅に頼るなんてことはできませんでしたから、ガラパゴス行というのはあきらめざるを得ませんでした。当時、現場には200人ほどの日本人がおり、延べにすればおそらく300人ほどの日本人がエクアドルとの間を行き来したでしょうが、ガラパゴスへ行けた人はいなかったと思います。ご存知だと思いますが、ガラパゴス諸島は1978年にユネスコの世界遺産(自然遺産)第1号に登録されたほどの貴重な遺産です。しかし、1990年頃から急速に観光化が進み、現在では年間20万人ちかい観光客が押し寄せているようです。とうぜん環境破壊が進み、ダーウィンの進化論の証しでもある貴重な生態系も影響を受けているようです。わたしが行きたいと願ったのは登録以前の1977年のこと、行けていたら原始の姿に接することができたのでしょうに、かえすがえすも残念なことでした。

サクサイワマン遺跡からクスコを望む

ペルー・クスコからチチカカ湖への旅:
ガラパゴス行をあきらめたわたしは、ペルーのマチュピチュだけは絶対に行くと決めていました。1977年2月初旬にエスメラルダスを離れられると見込んだわたしは、キトに住む友人を通じてペルー・リマのKINJYO旅行社に予約をいれました。概略行程は、キトから隣国リマへ入り、空路クスコへ行き、そこから鉄道でマチュピチュ日帰り。クスコにもどった翌日、国際列車でボリビアのプーノへ行き、チチカカ湖を見て、同国首都のラ・パスからアメリカ・ロサンゼルスへ、というものでした。日本人にとって列車で国境をこえる旅など、そう簡単に出来るものではないので、このボリビアへの国際列車に乗ることにはすごい期待感を持っていました。当初は予定通りだと思っていたのですが、出発が近づくにつれ、いろいろとトラブルが発生し、出発が延びそうになったのです。わたしは焦りました。じつは、せっかくの機会なので、家族とディズニーへ行こうとロスへ呼んでいたのです。このままではロスの空港で家族を迎えることはできないと判断して、結局、出発間際になってチチカカ湖行をキャンセルし、マチュピチュ行きだけにとどめました。残念なことでした。その後、国際列車に乗る機会はなく、ささやかながらスロバキア・ブラチスラバからチェコ・プラハ間の国際列車に乗るまで、29年もかかってしまいました。
(注記)文中、ボリビアのプーノと記述しましたが、プーノはペルー国内でした。したがって、クスコ・プーノ間の列車を国際列車としたことも間違いでした。記して訂正・お詫び致します。

イバラ・ホテル前にて

サン・ロレンゾからキトへの列車の旅:
エクアドル滞在期間中にも旅行を計画したことがありました。そのうちの一つが、サン・ロレンゾから列車を利用してキトへ行く旅でした。現場のあったエスメラルダスはエクアドル最北部、コロンビアとの国境に近い太平洋岸の港町です(2009年8月号参照)が、サン・ロレンゾという町はさらに国境に近く、川ひとつ隔てるとコロンビアになります。両国々境を隔てたミラ河というのは、エクアドルに入国する半年ほど前に現地調査に行ったコロンビア・ツマコで、コンクリート用の骨材をさがすためにその河を遡上したことがあったのです。地図をつくづく見ていて気付いたのですが、サン・ロレンゾからこの河沿いにキトとを結ぶ鉄道が走っているらしいのです。途中、イバラ(後述)、オタバロ(オタバロ・インディオで有名)、そしてカヤンべ(海抜5790m 同国3番目の高山でその南斜面に赤道が通っており、万年雪に覆われている)といった町を通っています。その鉄道になんとか乗れないものか、やはり興味を持った友人と二人でよく話し合ったものでした。ところが、エスメ、サン・ロレンゾとも同じエスメラルダス県にありながら、両市を結ぶ交通手段が見当たらないのです。陸上は湿地帯がつづくため道路がなく、海上を定期的に結んでいる船もないのです。地元の人の話しでは、「頼めば行ってくれる漁船があるかもしれない」というのですが、着いた先の鉄道の運行状況、宿、その他もろもろの条件が全く分からず、結局、エスメからサン・ロレンゾへ行くことは断念しました。その後、帰国する友人を送りがてら、休暇を取ってイバラへ行くチャンスがありました。そこの近くに木彫りの工房があるのです。萩焼の窯元に似た独特な雰囲気を味わえるとともに、いわゆる木彫り名人の作品を手に入れることができたのです。いまでも、船便で太平洋を越えて届いた3点の名品がわが家に保管されています。ところでイバラは、前述の鉄道路線が、コロンビアから南下してくるパン・アメリカンハイウエイ(広義には南北アメリカ大陸を縦断するハイウェイであるが、狭義には南米大陸でコロンビアに始まりアルゼンチンまでの太平洋岸を走るハイウェイ)とぶつかる所で、とうぜん駅もあるわけです。そこからでも列車利用はできないか調べてみたのですが、便数が少ない上に時間もかかるということで、たとえキトにたどり着けたとしても、そこからエスメまでの足は、タクシーしかないのです。アンデスの峠越えの道をエスメまで行く以上、安心のできる車を選ばねばなりません。時間・費用などを考えますと、日数の限られた休暇中では大きなリスクを負うことはできず、結局その案も断念せざるを得ませんでした。

オリエンテ油田地帯

アマゾン源流地帯(オリエンテ)行き
南米大陸の背骨アンデス山脈は、南のペルーからエクアドル領土へ入ると東西二つの山脈に分かれ、そのままコロンビアへ連なっています。エクアドルの地勢は、背骨である山岳地帯を軸に、その西側の太平洋沿岸地帯と、東側のアマゾン源流地帯の三つに大別され、興味ぶかいことに、その各々が地理的にも、人種・風俗的にもまったく異なる環境となっています。エクアドル滞在中、わたしは突拍子もないことを考えました。何かのパンフかポスターだったか、キトからアマゾン源流地帯のラゴ・アグリオ(同国の油田地帯で、ここからアンデス山岳地帯を横断して、太平洋岸のエスメラルダスまでパイプラインが敷設されている)まで航空機が飛んでいるというのです。一日1便ですが、行きの便でそのまま帰れば、かの地で数時間ほどは過ごせる計算になるわけです。油田に興味があったというわけでなく(油田はコロンビアで経験済み)、アマゾンの源流地帯に魅せられたのです。エスメの現場に入る以前、キトで調査業務に従事していた関係で、地理的にも時間的にも余裕のあったときでした。親しくしていた同国石油公社の土木技師(日本滞在中、わが家へ招待したことがある)や若い建築技師にオリエンテ行の可能性についてしつっこく聞いてみました。なぜか、反応は否定的で、むしろ、そんな申し出をするわたしに対して“アンビリバボー!”なのでした。考えてみれば、キトに住む彼らにとって、アマゾン源流地帯へ行くなんて、まさに考えられないことで、酔狂な日本人には付き合いきれない思いだったのかも知れません。わたしにしてみれば、いまどきまさか首狩り族が存在しているはずはない、と思ったのですが、彼らにしてみれば「あな恐ろしや」と思わないまでも、自分たちが就労ビザ発行の責任者として招いた外国人に、まさかのことがあったらたいへんと考えたのでしょう。それはそれとして、一日1便というのは、何も起こらなければいいのですが、南米では整備不十分なことが多く、得てしてエンジントラブルが発生し、運航しないことが多いのです(コロンビアでいやというほど経験済み)。もしそのトラブルがラゴ・アグリオで発生した場合、そこでの宿その他どうなるのか、考えてみたら、やはり無謀な思いつきだったのかも知れません。

無駄にしたクエンカ行の航空券

クエンカ訪問:
エクアドル古来の、かつスペイン植民地時代(コロニアル)の面影をつよく残す主要な都市は、すべて山岳地帯に位置しています。国名自体が赤道を意味している国ですから、居住環境として2000mを超す高地(首都キトは2800m)を必然的に求めたのでしょう。南北に走る二本のアンデス山脈は、東西に走るヌドと称する小山脈で結ばれ、その間の山間盆地に都市が発展したのです。北から列挙すれば、イバラ、キト、アンバト、リオバンバ、クエンカ、そしてロハ(世界三大長寿村ビルカバンバに近く、野口英世博士生誕100年祭で、この地の音楽大アンサンブルが演奏のために来日した)といった諸都市です。この中で、コロニアルの雰囲気をもっとも色濃く残しており、古いカテドラルなど、街の歴史的状態がよく保存されていたのがクエンカだといわれていました。名前からお分かりのように、クエンカはスペインのカスティーリョ地方の県都クエンカの名に由来しています。ちなみに人種のるつぼといわれるエクアドルでは、わたしの滞在当時で白人は10%ていどで、その比率も年々減っているようでした。その少ない白人でも、いわゆるファミリアと称される30ていどの名家がこの国の実権を握っていたようで、彼らこそ、スペイン、それもカスティーリョ地方出身の子孫で名家中の名家なのだそうです。スペインのクエンカは歴史的城塞都市として世界遺産に登録されていますが、エクアドルのクエンカも歴史的保存の良さを理由に、やはり世界遺産に登録されています。むろん世界遺産だからどうこうでなく、美しい街クエンカを見ておこうと、1976年4月、恒例のセマナ・サンタ(復活祭 イースターのこと)の連休が取れそうな時期をねらって単身で行くつもりで、人を介してSAETA航空のチケット手配までしました。心ワクワクでした。ところが、海外の建設現場では「予定は未定」で変更はよくあることですが、そのときは、4月9日の深夜、エスメラルダス沖海底を震源とするマグニチュード7.8の地震に見舞われ、その対応に追われ、休むどころではなくなってしまったのです。エクアドルで考えたいくつかの旅の計画の内、もっとも現実的で、実現がほぼ手中にと思われた古都クエンカへの旅も、こうして空しく潰えました。天災が原因では仕方ない、とあきらめるよりしょうがありませんでした。キト―クエンカ間355スクレ(当時の為替レートで約3700円)の片道の航空券は、いまでもそのままわたしのアルバムにファイルされています。ワンウェイ・チケットだけなのは、帰路はアンバト経由のバスでキトまでもどり、いつもの定宿に泊まるつもりだったのです。

(2013年7月)

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