神戸・横浜二都物語

神戸百年記念病院

イギリスの作家チャールズ・ディケンズの『二都物語』という作品を読まれた方もおられると思います。フランス革命を背景にロンドン、パリの二都を舞台に繰り広げられた恋愛小説、というよりフランス革命下の壮大な社会小説と称すべき物語です。この小説、中野好夫先生の分かり易い訳文だったにもかかわらず、あまりの長さに辟易して途中で投げ出したという経緯から、偉そうなことはいえないのですが、かつて神戸に滞在していた折、二都という名前をパクって神戸と横浜との比較文を書いてみようと思ったことがありました。もっともそのころ、JR西日本が「京都・大阪・神戸三都物語」という旅行キャンペーンを始めたため、嫌気がしてやめてしまいましたが……。神戸に住んだのは、もう20数年ほど前のこと、それまで勤めていた会社から子会社へ移籍し、そのまま神戸の鐘紡病院へ出向しました。同病院が計画していた改装計画に従事するためで、わたしにとっては、プラント建設から、まったく場違いの病院の建設へと、戸惑いのともなう大きな方向転換でした。病院の副院長付として新病院の基本計画を行い、その後の実施設計・施工の管理で神戸での単身生活は3年間つづきました。病院は改装後、鐘紡記念病院と名称を変え、現在は「神戸百年記念病院」と称しております。

新神戸オリエンタルシティ

神戸で生活するようになって最初に気付いたことは、街中で身障者に出会うことの多いことでした。はじめのうちは、神戸には身体の不自由な方が多い所だなと思っていましたが、そのうち、神戸は「バリアフリーの街づくり」が進んでおり、その結果、身障者が積極的に街中を歩いているのだ、ということに気づきました。バリアフリーを考慮した街づくりは、現在では各地で当然のように取り入れられていますが、25年前にすでに取り入れていた神戸は、まさに先駆的な都市だったわけです。正直なところ、わたしは脱帽しました。そういう目で神戸という街を見ますと、いろいろな面で斬新的なところがあり、まさに近代都市だというイメージをいだきましたが、それと比較しますと、自分が住んでいる横浜は、まだまだ田舎だなあという感じをつよく持ったものでした。神戸滞在中、連れ合いはむろんのこと、二人の娘たちも遊びにきましたが、東京生まれで横浜にまだなじみ切れなかったわたしとは異なり、娘たちは完全な「浜っ子」、街を歩いていても、上の娘などは対抗心もあらわに、「南京街ってなあにあれ、(横浜の)中華街と比較にもならない」とか、「元町、ダサい!横浜の方が洗練されていて、勝ったネ」と自慢するのでした。もっともそんな彼女たちも、三宮界隈で食した神戸肉のステーキのおいしかったこと、そして市内に多かった喫茶店でのコーヒーの味だけは褒めていました。しかし、わたしの目から見て、たしかに人口だけは日本第2位の大都市になっていましたが、都市の文化施設面、あるいは都市アメニティという面からとらえるなら、25年ほど前の横浜は、とても神戸との比ではなかったといえます。まだ「みなとみらい21」には建物群がなく、ベイブリッジも建設中、横浜駅は途絶えることなき工事で見るかげもなく、気のきいたホテルといえば名門グランドホテルだけ、あとはせいぜい横浜駅西口の東急ホテルだけだったのです。その頃の神戸には、市の中心部には伝統のあるオリエンタルホテル、海岸通りのホテルオークラ神戸があり、ポートアイランドにはポートピアホテルが、そして新神戸駅には新神戸オリエンタルホテル(現ANAクラウンプラザホテル)といった、横浜では見ることが出来ないような近代的なホテルが存在していたのです。さらに、ちょっと車を六甲山へとばせば六甲山ホテルが、さらにその奥には有馬の湯もあるというように、羨ましい限りでした。また、神戸の山の手、北野界隈には何棟もの異人館が整備されており、六甲からの夜景など、散策するには絶好のスポットもあったのです。わたしは、神戸に魅了されました。

北野異人館街・ハッサム邸

よく言われることですが、神戸と横浜とでは、都市の雰囲気がたいへんよく似ております。その最たる理由は、両市とも城下町ではなかったために古い伝統にしばられることがない上に、幕末に開港したことが、その後の都市形成の基盤になっているためではないか、とわたしは思っています。なぜなのか、そのことについて帰納法的に説明してみましょう。
幕末の開港―国際貿易港:
長年にわたって鎖国をつづけたわが国も、その間長崎に限ってオランダ・中国とのみ貿易を許していましたが、1859年(安政6年)にいたって、江戸幕府は通商条約に基づいて神奈川を、8年遅れて兵庫を開港し、アメリカ、イギリス、オランダ、ロシア、フランスの5ヵ国との貿易を許しました。神奈川、兵庫はともにわが国で初めて海外に門戸を開いた商業港となったのです。もっとも実際の開港は、神奈川は対岸の横浜へ、兵庫は隣接する神戸に定められました。なぜなら、神奈川は東海道の重要な宿場町であり、人の往来が激しいため、来日する外国人とのトラブルを恐れたからです。兵庫もまた同様です。兵庫津(現在の兵庫区・和田岬辺り)は日本史上、遣唐使船以来の重要な港で清盛も対宋貿易の根拠地にし、江戸期では北前船の発着港でしたが、一方で西国街道の宿場町でもあったわけです。こうして、横浜、神戸とも国際港として発展する共通の基盤がつくられました。余談ながら、神奈川と同時に函館、長崎も開港しましたが、地域性から考えて、その後の都市形成の過程でこの両港は、二都と同じような発展を成し得なかったことはとうぜんと言えるでしよう。
外国人居留地―異人館街:
開港にともない来日する外国人が多くなりましたが、幕末の日本国内は尊王・攘夷だと混とんとした情勢であり、治安維持のため外国人居留地の設置が急務でした。選ばれたのは横浜では埠頭の近く(主として現在の関内地区)と山手の丘陵地、神戸では現在の三宮から元町にかけての地域です。外国人居留地には領事館などの公館、商館、あるいは住宅など西洋風の建物が建設され、一種独特な街づくりがなされました。そして居留地が醸し出した西洋文化はハイカラという言葉を生み出したのです。神戸の居留地は大正期に入ると市中(旧居留地と称す)だけでは手狭になり、北野など山の手に広がっていきました。戦災で神戸は焼け尽くされましたが、北野界隈は焼失をまぬがれ、多くの異人館が残って現在の北野異人館街を形成しているのです。なかでも「風見鶏の館」、「萌黄(よもぎ)の館」は貴重な建物だということで、国の重要文化財に指定されています。旧居留地では唯一15番館(旧アメリカ領事館、民間企業ノザワが所有)が焼け残り、重要文化財に指定されていて、わたしなどもそのシックな佇まいを愛でたものでした。残念なことに同館は神戸の震災で崩壊し、現在の館は復元されたものです。一方の横浜は、関東大震災で壊滅状態になり、戦災にも遭うということで、異人館のみならず多くの古い建物がなくなってしまいました。山手の居留地に、わずかにイギリス7番館のみが淋しく残っていましたが、わたしが神戸からもどったのち、多くの洋館(横浜では異人館とは称しません)が移設あるいは復元され、今では神戸北野にひけをとらないほどの数の洋館が建ち、山手洋館エリアなどと洒落た呼び方がなされています。洋館の佇まいを楽しめること、住民としてはうれしいことで、北野異人館ともども末永く保存されることを願っています。またまた蛇足的ですが、函館、長崎にも異人館が残っている点、二都と同じ理由で、よく理解できます。とくに長崎のグラバー邸などは港が一望でき、すばらしいですね。
元町―ハイカラな町:
幕府が神奈川ではなく横浜を開港することに決めた大きな理由には、港としての適地にはわずか100戸ほどの横浜村しかなかったためでもあります。幕府の力をもってすれば立ち退かすことは容易でした。立ち退かせたあとの地名を横浜本(もと)村と改称し、さらに横浜元町と変更しました。横浜にお住まいの方にはすぐお分かりのように、この地は関内と山手各々の居留地との中間に位置しています。居留地ができ、外国人が増えてくれば、彼らの生活維持のための店ができ、学校、教会などもでき、外国人相手の商売人の数も増えて、自ずと町が形成されるわけです。藤村も『夜明け前』の中で、幕末の木曽の山中から絹の交易のために横浜へ出てくる話などを記述しています。喫茶店、ベーカリー、床屋、洋服屋、家具店など、およそそれまでの日本では見られなかったようなハイカラな店が集まったモダーンな街が誕生していくわけです。都市化にともない生まれた上下水設備、ガス灯、郵便ポストや公衆電話、あるいはビール工場など、横浜元町に、いや横浜の中心部たる関内全域に「日本初の……発祥の地」碑がたっているのは当然のことかも知れません。神戸元町も似たようなものです。西国街道の宿場としてにぎわった兵庫津から、その賑わいが神戸の居留地に移り、明治に入ってから「元町通り」と称したのが、現在の神戸元町です。規模は大きく、往時は市内でも代表的なハイカラな街だったのでしょうが、横浜元町と比較すれば繁栄の度合いは落ちるようです。横浜の方は首都東京に近く、我が国の重要な輸出品としての絹が横浜に集積されたことで、国際港としての横浜の存在が大きいことなどもあって、相対的に神戸元町はさびれたのかもしれません。いずれにしても、元町の存在、これは函館、長崎には見られない横浜・神戸二つの都市の近似性を示す例示でしょう。
中華街・南京町:
最後は中華街です。外国人居留地ができれば、そこの住人の中で一番多くなったのはやはり中国人でしょう。かつて南米へ行ったとき、アンデスの山中に中華料理店があり、びっくりするとともに、ある種の畏怖の念をもったものでした。From China to Peru(世界のすみずみまで)という言葉があるように、まさに中国人は世界のすみずみまで進出し、何代にもわたって根をしっかり張りつけていることには驚きをかくせません。そんな中国人ですから、居留地の中でも自分たちの世界をしっかりと築きあげています。商売人としても世界に名だたる中国人、とうぜん商業地に目を付け、横浜でも元町に近い一等地を独占し、現在では世界一の中華街に発展させています。わたしはニューヨークやロンドンは知りませんが、今まで見たサンフランシスコ、ホノルル、バンコク、シンガポールなどのチャイナタウン(中華街)と比較すれば、はるかに大きな規模だと申せましょう。神戸の南京町も、元町通りに接した一画を占めています。規模は横浜と比べれば小さいですが、これは都市としての規模という点からもやむを得ないのかも知れません。
以上、開港、外国人居留地、元町、中華街と述べてきましたが、これらが神戸、横浜という都市の性格を表わす特異な個性だという見方をするなら、二都がよく似た都市だということに対して、ご理解していただけるのではないでしょうか。

みなとみらい21夜景

阪神・淡路大震災から、早いものでもう17年も経ちました。自分が関係した病院のことが心配で、震災から3週間ほど経ったころ、大阪から船で神戸に入りました。すでに電話で様子は聞いてはいましたが、それでも実際におのれの目で見るまでは不安でいっぱいでした。兵庫運河をへだてて、手前二つの製粉工場は大きな被害を受けていましたが、病院には被害はまったくなく、何よりも院内の皆さま方のお元気そうな姿を拝見できたことでホッとしました。それにしても壊滅状態だった三宮界隈のビル群、横倒しになった件の高速道路などを見たときには、それまでじぶんが学んできた構造学は何だったのか、の思いをつよくしたものでした。神戸復興の早さには目を瞠(みは)るものがあります。わたしの滞在中に建設の途についたハーバーランドも完成し、滞在していたころよりさらに一皮も二皮も脱皮したようなモダーンな都市に発展しています。もともと神戸は「株式会社神戸市」と称されるほど、市の行う土木工事はアイデアに富んだ斬新さに富んでおり、イベントを開催してもそつがなく、「ポートピア’81mail protected]$5$;$F$$$^$9!#2?;v$K$b7W2h@-$r;}$C$F?J$s$G$$$/?@8M$,!"%f%M%9%3$K$h$C$F2008年の「デザイン都市」に認定されたこと、まことにもっともだと言えるでしょう。そのほかにも、「きれいな都市」とか「住みやすい都市」といった世界での評価ではつねに上位にランクされるのも納得がいきます。
でも、横浜も負けてはいられません。いつまでも「人口第2位の田舎都市」とさげすまれてばかりではいられません。1989年には横浜ベイブリッジが開通して横浜港の景観に彩がなされ、1993年には「みなとみらい21」地区に日本一の高さを誇るランドマークタワー(残念ながら今秋には第2位に落ちるようですが)が完成し、同タワー内のロイヤルパークホテルなど、同地区だけでも近代的なホテルが5つもあり、今や神戸に負けないほどにホテルは充実したと言えるでしょう。国際コンペで選ばれたイギリス在住の2人の建築家によって設計された斬新な大桟橋国際客船ターミナルも2002年に完成しており、世界有数の国際港だと自負できるのではないでしょうか。わたし自身、身びいきと言われそうですが、汽車道から水辺越しに望む「みなとみらい21」の景観は日本一の都市景観ではないか、と思っています。とくに夜景はすばらしいですね。最近では東京へ出る回数も減りましたが、高層ビルばかりで空のない東京からもどってきますと、ホッとするような気持ちになります。神戸にある種の憧れをいだきつつも、いつのまにか自分も「浜っ子」になってしまったのかもしれません。

(2012年7月)

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