迅速地図ってご存知?

北向地蔵道標

1年ほど前のトピックで(2011年07月)、『横浜でただ一人のお殿様』という一文をまとめました。まとめている間、興味を引いたのは、ただ一人の大名米倉丹後守のお国入りに使われた金沢道のことでした。東海道の保土ヶ谷宿から井土ヶ谷、上大岡などを通って上中里あたりから山道に入り、能見堂を経て金沢文庫へ下りて金沢八景にあった陣屋へ至るということは分かっていましたが、さて現在その道はどうなっているのか、地元に住む者としては興味をそそられました。地元ガイドさんの案内で昨年6月の『金沢道をあるく(上大岡―保土ヶ谷宿)』ツアーに参加したのですが、ツアーで歩いたコースは、じつは金沢道そのものは半分ほどで、とちゅう弘明寺道だったり、明治以降の道もあったりしたので、「よし、それなら自分自身の目と足でたしかめてみよう」、という思いに駆られたのです。いざ歩いてみると、あんがい難しいことがわかりました。旧道がはっきりと残っているわけではなく、ましてや道の存在を示す道標や庚申塚などが少なく、あっても道路や住宅街の建設のために、別の場所に移設されたりしているのです。『新編武蔵風土記稿』や『新編相模風土記稿』などをたんねんに読めば、なんらかのヒントをつかむこともできるのでしょうが、わたしにはそんな力はありませんし、いわんや金沢道沿いに現存する諸寺の古文書など読めようはずもありません。けっきょくは足だけが頼りでした。ツアーで歩いた保土ヶ谷宿から清水台に上り、井土ヶ谷に下る道は比較的楽でしたが、それでも市街化がすすんでしまった井土ヶ谷周辺はわかりにくく、確認のために3回ほどは歩いたでしょうか。大岡川に沿って歩く井土ヶ谷から上中里までは、川沿いの道だということもあって分かり易く、予想していた以上に旧道らしい雰囲気を漂わすところが残っていました。行程が長いため、途中バスに乗ったり降りたりもして、数回ほどの踏査でなんとかルートをつかむことができました。難儀したのは、大岡川沿いの道から能見堂跡へ至るルートでした。金沢文庫から山道を能見堂跡へ上るコースは尾根沿いのコースで、道ははっきりしているのですが、さて、そこからどうやって大岡川沿いの道へ下りるのかが、さっぱりつかめなかったのです。なにしろこのコース、尾根道は最終的には鎌倉へぬける道ではっきりしているのですが、尾根の両側の宅地化がすすみ(一部は尾根道まで住宅が侵食している)、とくに東側、いわゆる京急が開発した能見台の住宅街や、横浜横須賀道路建設によって旧道の面影がほとんど残っておらず、尾根からの下り道がさっぱりつかめないのです。自分でもずいぶんヒマ人なんだと思いましたが、運動をかねて(という理由をつけて?)金沢文庫側から、あるいは能見台住宅地側からいくども上り下りしているうちに、旧道のちょっとした痕跡に気づき、住宅街開発当初から住んでいたという老女からのヒントなどもあって、ここが旧道に違いないと思えるようになったのは、金沢道を自分の足で踏査してみようと思いついてから、かれこれ半年以上も経っていました。

迅速地図

金沢道に興味をもったことに並行して、知人の紹介で横浜・本牧八聖殿で催されている歴史講座に参加するようになりました。古文書をベースにした安土桃山期から江戸初期に関しての講座でたいへん面白く、わたしの一つの楽しみとなっております。そこの講師、曽根勇二先生(横浜都市発展記念館の学芸員)から教わったことの一つに「迅速地図」があります。ずいぶん奇妙な名称で、じつは実際に目にするまで、よく理解できないでいました。要は、読んで字のごとく「迅速に作成された地図」のことです。この場合の「迅速」とは測量方法そのものが、正規の三角点に基づかないで素早く実施された、という意味合いのようです。三角点に基づいていないため地表の対象物の位置を示す経緯度の表示こそはないのですが、対象物の相関位置の表示という点では、現在の測量精度に遜色のない出来栄えの地図となっているそうです。そもそも、こうした地図を作成するきっかけとなったのは、明治10年の西南の役でした。地の利を最大限活用した西郷軍に対し、官軍は地図らしい地図なしでの戦闘でずいぶん苦労したようです。地図の必要性を痛感した明治政府陸軍は、翌年参謀本部を開設し、そこに測量・地図作成の部署を新設し、明治13年に「二万分の一迅速図」の測量事業を開始したようです。いま、わたしが手元に所有している金沢道に関連した迅速地図は3枚で、明治15年の2月から7月にかけての測量となっており、「東京湾要塞相模半島近傍・軍事機密」のいかめしいスタンプが押されていますが、これはたぶん、後世になってからのものでしょう。参謀本部で測量にあたった技術者たちはフランス陸軍から学んだ方式で地図を作成したために、原画は着色の施されたいかにもフランス的で華麗な絵画風の地図でした。たとえば地図の欄外には、測量上目印にしたと思われる対象物の絵が描かれているのです。下の絵は縣道中谷津村岐路となっていますが、現在も残る金沢道と鎌倉へ通じる白山道との分岐点に建つ道標を指しているのだと思います。そのほかにも程谷駅警察分署、下大岡村路傍獨立樹、上大岡村縣里道三分路といったような絵が記載されています。明治16年になって、陸軍軍制がフランス方式からドイツ方式に移行されるとともに、せっかくのフランス式彩色地図は、いかにもドイツ式らしく合理的で、なんの変哲もない1色刷り地図に変わってしまったのは残念なことでした。

県道中谷津村岐路道標図

白山道・金沢道分岐点道標

さて、わたしの所有する迅速地図のことです。明治15年作成ですからフランス式地図ですが、むろん図書館でコピーしたものですから着色されていません。しかし、やわらかな雰囲気だけは十分伝わるものです。その地図の上で金沢道を追ってみますと、わたしが探査した結果考えたルートとほとんど同じだということがわかりました。1点大きく異なっていたのは、わたしが探査で難儀した上中里から山道への取り付け部で、現在の氷取沢高校グラウンド横へ至るアクセスを、わたしは坂の途中に岩船地蔵が祀られていたことから、その急坂を上ったのだと思っていたのですが、じつはその急坂の崖下を通っていたようなのです。そして現在の西富岡小、富岡中の前をまっすぐに南下したと考えた道も、その西側、能見堂北公園の上の道を南下し、能見堂の尾根道への上りは、わたしが考えていたのより西側からだ、ということが判明しました。探査の際も、わたしのルートでは少し勾配がきつすぎるかな、とはうすうす感じていたのですが、迅速地図のおかげで、この点がはっきりと判明した次第です。ところでこの迅速地図、明治10年代といえば、明治政府がいくら近代化を急いでいたとはいえ、まだ江戸時代の名残は色濃く、地図上の道などはとうぜん江戸時代のままだと思われます。したがって、江戸時代の旧道を調べる上では、たいへん有効な地図ではないか、と思うのです。さらにこの地図で興味を引くことは、その当時の村の名前が現在もなお町名として残っていることが知れ、さらには、江戸時代に埋め立てられ新田として開墾されるようになった土地などが地図上で明確に記入されている点です。横浜では大岡川の河口(金沢道の少し東側)で川の流れを二分してその間を埋め立てた吉田新田が有名であり、現在の市の中心部はその新田の上に構築されています。その他にも、帷子(かたびら)川沿いの平沼新田、金沢文庫から八景にかけての瀬戸の内海(内川入江)を埋め立てた泥亀(でいき)新田など、かつては海の中であったことが知れます。そして重要なことは、先の東日本大震災で横浜での数少ない被害発生地は、そうした新田と称される地域であったことに注視する必要があると思います。迅速地図は各地の公立の図書館、横浜では県立図書館、横浜市立中央図書館など、あるいは公立の史料・資料館などで簡単に閲覧できると思います。迅速地図によって、皆さまもご自分のお住まいの地域が、かつてどんな場所だったかを知ることが出来ると思いますので、一度ご覧になってみたらいかがでしょうか。

金澤八景浮世絵

最後になりましたが、金沢道の歴史的な位置づけについて簡単に記しておきたいと思います。金沢道といえば能見堂への道ということになりますが、能見堂の建設は伝聞的には平安時代までさかのぼります。書物の上で名が出てくるのは室町時代初期の『梅花無盡藏』という本の中で、そこからの景色のすばらしさが書かれ、いつの頃からか中国湖南省の瀟湘(しょうそう)八景になぞらえて「金沢八景」と称され、世間に流布されていたようです。鎌倉時代、金沢は幕府の重要な港であり、金沢北条家が称名寺を建立、また、鎌倉近くには江の島もあったことで、ずいぶん古くから江の島・鎌倉・金沢八景・能見堂は一大観光スポットでした。とうぜん人の往来がはげしく、鎌倉から金沢へ出る白山道や六浦道、そして能見堂を経由して武蔵の国へ下りる金沢道は重要な道だったのです。3代将軍家光に重用され、品川に東海寺を開山した沢庵和尚は、寛永年間に金沢道で能見堂へ上ってから金沢・鎌倉・江の島とまわり、『沢庵禅師鎌倉記』を遺しています。尾張の俳人横井他有も江戸へ下る途中、熱海・鎌倉・金沢をめぐって能見堂へ訪れたことを、俳文集『鶉衣』の「熱海紀行」に記しています。文中で他有は「金澤の方にまわらせ給ふ。能見堂といへるより八景を見渡す。奇絶の勝景、言葉に述べがたし」と絶賛しています。かの歌川広重や葛飾北斎もこの地を訪れており、数々の絵を遺しています。そして元禄の頃から米倉家が大名行列に使うようになったわけで、かつての金沢道はさぞかし賑わったことだと思います。

(2012年6月)

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