機内誌あれこれ(1)
なにごとにつけ根気に欠けるわたしは、何かを蒐集するといった趣味は持ち合わせていません。父が集めていた切手や絵葉書も、結局は引きつぐことはしませんでした。その代わりになるでしょうか、仕事の関係で海外へ飛ぶことが比較的多かったことで、搭乗した航空機の機内誌、そして宿泊したホテルに関する資料などを集めていました。機内誌は、このあとリスト・アップしますが48誌、ホテルの数は73でファイル3冊になっています。はじめて海外出張した際、マイアミからコロンビアの首都ボゴタまでブラニフという航空会社でした。聞いたことのない名前で、家族などは「だいじょうぶ?」、なんてずいぶん心配していました。手配はすべて、事務の方がしてくれましたが、その方も「聞いたことがないなぁ?ソ連の会社じゃないか」、と自信なさげに言っていたものです。たぶんマイアミとキューバとを結ぶ航空路をソ連の会社が運航していたのだと思ったのでしょうが、すでに敵対関係にあったアメリカ−キューバ間を、それもソ連の会社が運航するなんてあり得ない話でした。同社は1928年設立のれっきとしたアメリカの航空会社で、ダラスを拠点にアメリカ中央部あるいは東部の諸都市を結び、さらに南米諸国との間を結ぶ中堅の航空会社でした。わたしが搭乗した時期は同社の全盛期で、香港、ソウルなどアジアにも航空路を広げていたようです。南米でよく見受ける派手な機体、それにコンコルドも飛ばすなど派手な活動をしていましたが、のちに全米航空界を揺るがした航空自由化政策や燃料費高騰などのあおりで1990頃に姿を消した会社です。そのブラニフの機内ではじめて手にした機内誌“BRANIFF PLACE”については、あとで詳述しますが、一般に機内誌には当該会社の飛行ルートの案内、ルート上の諸都市に関する情報に加えて、免税対象になるような物品のコマーシャルなどに加えて、日本流に表現すれば風光明媚な名勝・旧跡などについて豊富な写真とともに紹介する記事などから成り立っています。“BRANIFF PLACE”の場合、機内で退屈することのないように盛りだくさんの記事があふれており、わたしはその機内誌にすっかり魅了され、そのことが機内誌を集めてみようか、というきっかけになったのだと思います。 BRANIFF PLACE 先に述べましたように、機内誌に関心を持つきっかけとなったこの雑誌名は” BRANIFF PLACE”。わたしは、その意味合いは「ブラニフ広場」と訳すのがもっとも適切かな、と思っています。なぜなら、街の広場へ行けば何もかにもが集まって来るように、この雑誌にはいろいろな記事が盛りだくさんにふくまれているからです。たとえば、わたしが手にしている雑誌には、いかにも南米を主要な航空圏としている同社らしく、世界でも有数な長寿の村として知られるエクアドル南部のビルカバンバ村の紹介、現在でも謎が解明されていないペルーのナスカの地上絵に関した記事があります。南米に限ったわけではなく、アメリカでは首都ワシントンの歴史記事、カリフォルニアの観光案内も記載されています。そのような読み物にとどまらず、スポーツ、経済に関する記事もあり、じつに内容が豊富ですばらしい雑誌だといえます。ページ数のわりに、旅行に必携のホテル案内、免税対象品のコマーシャルなども写真付で掲載されており、まさに申し分ない機内誌で、目的地に着くまでにはとてもすべてに目を通すことが不可能なほど充実した内容です。 PAN AM ご存知、日本人には馴染みの深かったパン・アメリカン航空(本社ニューヨーク)の機内誌です。雑誌名そのままに「パンナム」とし知られていましたが、ブルーの”PAN AM”の社名ボードがかかったスマートな本社ビル(現在はメット・ライフ生命ビルになっている)でも知られていたことをご存知の方も多いと思います。雑誌は装丁のしっかりした豪華版で、市販もされていたほどでした。わたしの手元にある雑誌では、テーマの数こそ多くはありませんが、個々の記事はすべてコラムニストのもので、世界のいくつかの都市の紹介記事、ロサンジェルスに住む著名人の案内などで、バスケットのスタープレーヤ−、マジック・ジョンソンもその中の一人でした。いかにも高級志向のパンナムらしく、売りに出されている超豪華邸宅の案内、ビバリーヒルズでの買い物案内なども、目を楽しませてくれる内容でした。そうした高級志向があだになったのでしょうか、1980年代初めには輸送実績で世界一を誇り、航空業界での影響力の大きかった同社も経営破たんで1991年に消滅したことは残念なことでした。そして、いまなお世界のホテル業界を引っ張っているインターコンチネンタルホテル・チェーンからも同社の名は消えてしまっているのです。 WORLD Traveler
「赤い尾翼」で知られたノースウエスト航空といえば、日本人にはなじみの深い会社でした。軍事輸送部門に長けた同社は、朝鮮戦争時に日本を中継地にして朝鮮半島−アメリカ間の太平洋路線で大活躍したことが印象づよく、わたしは、イメージとしては好きになれなかった航空会社でした。正確なことは記憶していませんが、1980年代に乗った際は、機内誌の名称は”Portfolio”で、それが1990年代には” WORLD Traveler”になっていました。いずれにしても大半が広告で、記事としては目ぼしいものはなく、機内誌としては内容の乏しい、つまらない雑誌だったといえるでしょう。ノースウエスト社は1990年代後半には最高収益を上げるなどしたのですが、2000年代に入り、航空業界不況のあおりで業績は悪化し、2007年にデルタ航空に吸収され、その名は消えてしまいました。
1)日本へ乗り入れている会社: DISCOVERY “DISCOVERY”はキャセイパシフィック航空の機内誌です。同社は第2次世界大戦中にすでにインドから中国への空域を飛んでいたパイロットを中心に、1946年に香港で創立された東南アジアでもっとも経験があり、世界でも指折りの安全性の高い航空会社として知られています。わたし個人としても、70年から90年代にかけてもっとも利用回数の多かった会社の一つだと思います。長い年月をかけて利用しましたので、雑誌の装丁はいくどか変わった気がしていますが、現在手元に置いているのは、1999年4月号、ゲーテの『ファウスト』の革製背表紙をモチーフにした品格のある表紙で、紙質、印刷なども良質な雑誌です。中心記事は、表紙が暗示していますように世界遺産に指定されています歴史的文化都市ワイマールの特集です。同市は、歴史上ではドイツのワイマール(ヴァイマル)憲法で、建築を学んだものにとってはバウハウス校舎の設計で知られた近代建築の父ともいえるグロピウスの名で知られていますが、なぜ表紙が暗示しているのか、じつはゲーテは公国だったワイマールの宰相だったからです。記事の中でも、ヴァイマル国民劇場で上演されたゲーテの作品の写真が大きく載っています。ちなみに、バッハは国民劇場の音楽監督(宮廷音楽家)だったようです。サブの記事としては、オーストラリアの岩登りの特集で、迫力ある写真がみごとです。その他では、香港の離島生活、浅草仲見世の紹介記事が載っているというように、じつに豊富な内容を誇る機内誌です。 Sawasdee タイ国際航空を利用したことのある人は、機中での微笑みを絶やさないスチュアーデス(客室乗務員)に魅了され、また乗りたいなぁ、という気持ちにさせられたのではないでしょうか。それは、仏教徒らしく掌を合わす姿や、降機の際にいただくランの花のためだけではないと思います。わたしがサウジアラビアへ入るために、はじめてバンコクからダハーランまでこの機を利用した際、「ミスター・イシイ、ジャケットをお預かりしましょうか」、とにこやかに声をかけられ、「えっ!なぜ名前を知っているの?」、とびっくりしたものでした。機中でも、何かにつけ「ミスター・イシイ」を連発され、すっかりいい気分になったものです。そのご聞いたところでは、ビジネスクラス客に対しては誰にでも同じだったようで、ちょっとがっかりはしましたが……。雑誌名“Sawasdee”はタイ語でウエルカムを意味しているそうですから、雑誌名からして乗客をもてなす気持ちにあふれているのでしょう。その雑誌ですが、内容としてはキャセイに劣らないものだと申せます。手元に2冊残しておりますが、1982年版では、ほとんどがタイ国内の案内にとどまっているのに対し、1992年10月号では、すばらしく変貌していました。ウズベキスタンの荘厳なイスラム建築、カンボジア・クメール族の遺跡、建築の博物館と称されるチェコのプラハ、スペインのアンダルシア地方の山中の村、ベトナムの辺境の村など、ひじょうにエキゾチックな場所の案内がなされ、その記事を読み、写真を見るだけでも魅了されてしまうのです。タイの人というのは、他人を魅了する妖しげな力を持っているのでしょうか。 (以下、次号へつづく) (2012年8月) |
|||
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |