横浜でただ一人のお殿様

米倉家家紋「隅切り花菱」

わたしの住む横浜は、いまでこそ日本を代表する都市のひとつですが、 黒船来航までは、現在の中心部は100戸あまりの寒村にすぎなかったそうです。わずかに海陸交通の要衝として東海道の宿場であった神奈川宿・神奈川湊と、風光明媚な景勝地として六浦湊(現金沢八景)とが賑わいを見せ、広重の浮世絵などにもよく描かれています。その横浜に、一人だけお殿様(大名)が住んでいたことをご存じの方はそう多くはないのではないでしょうか。じつはわたし自身、そのことを知ったのは、つい最近のことなのです。生まれも育ちも品川のわたしは、横浜に移ってから40年近いというのに、横浜については案外知らないことが多いのです。たまたま2年前から続けている江戸探訪の関係で大名のことをいろいろ調べ、また、地元のガイドさんの案内で鎌倉から横須賀・金沢にかけて歩いているうちに、横浜にただ一人の大名の存在を知ったというわけです。

米倉家邸宅

六浦に陣屋を構えた武州金沢藩米倉家は、石高わずか12000、大名になれるぎりぎりの石高の小大名でしたが、幕府の中にあっては若年寄を輩出した名家でした。元々は武田勝頼に仕えていましたが、武田家滅亡後に徳川家康の家臣に迎えられたときはわずか200石の小禄だったようです。米倉家の中できわだっていたのは、5代将軍綱吉に見出された昌尹(まささだ)で、400石で家光の小姓になっていた父政継に伴われて9歳にして将軍に初お目見えしたようです。家綱が将軍のとき、18歳で小姓組番士に取り立てられましたが、600石に加増されていた米倉家を相続したのはたいへん遅く48歳になってからでした。将軍は綱吉になっており、綱吉に目をかけられた昌尹は相続した翌年には布衣(幕府から従6位の官位相当と認められること)となり、旗本としての将来が約束されました。その後、目付を経験し、54歳の時に1100石に加増され、同時に従5位下丹後守に任じられたのですが、旗本としても中級に過ぎないのに、官位の上では一般の大名と同等の扱いを受けたのですから、これは当時では破格だったと思います。その後も順調に出世し、56歳で綱吉の側衆、60歳で10000石の大名、しかも若年寄(通常は3万石以上の譜代大名がつく要職)になり、63歳のとき15000石に加増され(のち嗣子昌明の弟昌伸に3000石を分知し独立させた)、下野国本皆川村(現栃木市)に陣屋を構えました。かように異例づくめで大名に上りつめたのですが、想像するに、作事奉行として力を発揮した本人の資質もさることながら、綱吉の側用人として権勢をふるった柳沢吉保の懐刀的な立場に立って、たとえば綱吉の「生類憐みの令」の推進などに一役買ったのではないのかな、と推測しています。

江戸古図

身分制度でがちがちに縛られていた江戸時代、旗本が大名に登用されることはめずらしく、その例は少なかったことと思います。現代の国家公務員上級職でも、いわゆるキャリア採用があるように、江戸の昔でも、幕府の官僚(主として旗本と一部の御家人)が出世するためには並大抵の努力ではなれず、出世コースに乗るためには一定のキャリアを経験する必要があったようです。まずは幕府の昌平坂学問所で数年に一度行われる「学問吟味」で抜群の成績を残すことが肝要で、その上で、幕府の武官である数多くの番方のうち、「両番方」と称された小姓組番、書院番を経験する(これを「番入り」と称したそうです)ことが必要だったようです。この双方共、将軍にもっとも近侍するわけですから、将軍の目にとまる機会が多くなるわけです。番入りのつぎに目付に登用されれば、その先の出世は保証されることになります。いささか蛇足になるかもしれませんが、目付は職業柄、幕閣の弱みをつかむことができますので、「諸刃の剣」的な面がありますが、おのれの器量を認めさせるいい機会になるわけです。目付のあとは、然るべきなんらかの奉行職に就き、うまくいけば旗本最高の役職である大目付になるか、わるくても格の高い留守居役になってめでたく引退、というのが旗本出世コースの頂点で、そこから、さらに大名に引き上げられることはほとんどないわけです。米倉昌尹同様に、異例の出世をとげた旗本に、講談やTVドラマでおなじみの大岡忠相がいます。忠相の場合は、はじめから2000石近い高禄の旗本でしたが無役が長く、27歳のときにようやく書院番になり、ついで徒頭・使番を経て33歳のときに目付になっています。その後、山田奉行、普請奉行を経て42歳で町奉行となって越前守を受領し、7代将軍吉宗に重用され、名奉行として長くその職にあったことはご存じの通りです。最後は神社奉行となり、そして10000石に加増されて三河・西大平藩(現岡崎市)を立藩しています。こうして米倉丹後、大岡越前の二人を比較してみますと、時代が異なり、仕えた将軍も違うわけで当然比較にはなりませんが、スタートがわずか600石の下級旗本から出発したこと、最後は若年寄にまで上りつめたという点では、名前こそ大岡越前ほど残せませんでしたが、幕府の能吏として米倉丹後守昌尹はきわだっていたと思われます。なお、米倉家が皆川から武州金沢へ転封したのは、享保7年(1722年)、昌尹から3代あとの忠仰(ただすけ)のときで、金沢藩主(維新後、前田家の金沢と紛らわしいということで六浦藩と改称)は初代忠仰から8代続いて明治維新を迎えています。

秦野市 蔵林寺

忠仰が金沢へ移るにいたった理由は、定かではありません。江戸時代、大名が幕府の命により所領を変えることは珍しくありませんでしたが、忠仰の転封は、命というよりは米倉家の意向がつよく聞き入れられた結果かと思われます。理由はいくつかあります。じつは12000石の大名とはいえ、しょせんは成り上がった大名ですから、まとまった領地などはなく、関東一円に上野、下野(旧領の皆川を含む)、武蔵、相模の四国、さらに厳密にいえば、6郡30ヶ村と広範にわたっていたのです。したがって、どこに陣屋を構えようと幕府への届け出だけで済んだのでしょう。それにもう一つはっきりした理由があります。系図によれば、米倉家というのは女系家族で、継嗣として養子を迎えることが多かったようです。8人の殿のうち5人までが養子でした。忠仰自身も、時の権力者柳沢吉保の4男でしたから、つよい後ろ盾があったわけです。たいていのことは聞き届けられたにちがいありません。忠仰は7歳で家督を継ぎましたが、生来丈夫な体ではなかったようで、養生を兼ねて気候温暖でかつ風光明媚な地、金沢を選んだのだと思います。ちなみに米倉家の菩提寺は、最初に家康から賜った領地、丹沢の山並みを背にした静かな里山である相模国大住郡堀山下村(現秦野市)にあります。

金沢横丁、4基の道標

京浜急行金沢八景は、文字通り景勝地金沢八景の玄関口で、駅の東側は国道ひとつ隔てて平潟湾に面し、西側には六浦の山が迫っています。駅のホームからは古い茅葺屋根の旧円通寺の建物が見え、山の中腹には古めかしい墓所も見えかくれし、この辺りだけは往時の歴史を感じさせる雰囲気を持っています。駅を出て線路沿いを少しく南下すると線路をくぐるガードがあり、そこを抜けますと、山を背にこじんまりした住宅街が開けます。古来「オヤシキ」と呼称された谷(ヤツまたはヤト)で、米倉家はここに陣屋を構えました。この時代、戦に備える必要はほとんどなかったでしょうが、周囲は三方を山に囲まれた天然の要害の地で、海に向けて開けた東側に海水を取り込んだと思われる堀を開削し、その内側に柵と東御柵門が設けられていました。表門は隣接する上行寺(鎌倉へ向かう日蓮が上陸したところ)から泥牛庵に連なる山を切り通し、鎌倉へ通じる六浦道に面しています。忠仰は陣屋東南隅の泥牛庵(臨済宗円覚寺派の寺)の「お茶山」と称されていた高台をたいそう気に入ったようで、ここへ登れば風光明媚な金沢の海を眼下に望むことができ、しばしば茶席などを設けていたようです。丈夫でなかった忠仰にとっては、そのひとときが一番の至福の時だったのではないでしょうか。

金沢周辺交通図

ご存じのように、大名には参勤交代の制度が課せられていました。通常は1年毎に在府・在国を繰り返すわけですが、関東の譜代大名は半年単位でのローテーションになっていたようです。米倉家は、若年寄や大番頭といった幕府の要職についていた関係で江戸に在府することが多かったと思われますが、それでも、国元金沢へもどることもあったでしょう。その際の大名行列はどの道を通ったのでしょうか。米倉家の上屋敷は牛込御門の内側、江戸城外堀に面したところにありました。江戸城の北側の守りのために多くの旗本屋敷があったところで、米倉家の屋敷の周囲は大身の旗本屋敷に囲まれていましたから、多分、大名になっても旗本だったときに幕府から拝領した屋敷をそのまま使用していたのではないでしょうか。上屋敷を出て、品川宿へ出るまでの府内の道はいろいろあったでしょうが、品川宿からの道ははっきりしています。保土ヶ谷宿までは東海道、そこからは横にそれて金沢(かねさわ)道を南下するわけです。当時の大名行列のスピードは1日30〜40キロだとされていますから、上屋敷を早朝出立すれば、保土ヶ谷宿(品川―保土ヶ谷間約24キロ)でちょうど1日ということになるでしょう。保土ヶ谷からの金沢道は宿の中ほど金沢横丁で東海道から離れますが、六浦の陣屋まではやはり1日の行程です。宿を出てすぐ磐名(いわな)坂の長い急坂を上り、清水ヶ丘をすぎれば井土ヶ谷で、そこからは弘明寺・上大岡・笹下・栗木と平地がつづきますが、中里の隨縁寺先からまた尾根筋へ上る山道にかかりますので、途中のんびりとは歩けなかったことと思います。しかし、ここまでくれば待望の能見堂はもうすぐです。能見堂からは、瀬戸の内海(内川入り江)が目に入り、洲崎をはさんで平潟の海、その先には夕照の野島が望めます。名にし負う金沢八景が一望できる地なのです。さぞかしホッとしたことでしょう。能見堂から谷津まで下れば金沢文庫。称名寺へ立ち寄るもよし、あとは内川の入り江に沿って南下し、瀬戸の夕月を望みながら陣屋へ到着するわけです。

金沢八景根元地碑

幕末、黒船の到来以後、米倉藩は多忙を極めました。歴史の表舞台に躍り出た浦賀・横須賀にちかいことから、周辺の海岸線の警備、神奈川開港にともなう横浜の警備、そして長州征伐では大番頭として徳川武士団をたばねるために大阪城に詰めるなど、小藩にとってはたいへんな物入りだったと思います。明治維新後は、東征軍の進攻にあたり、陣屋近傍の東海道の宿場警備、人馬継立(宿場での乗り換え)、横浜警備などを命じられ、官軍へ恭順の立場をとったようです。すでに東海道沿いにあった彦根・桑名・尾張・大垣などの雄藩が新政府軍に恭順していた以上、幕府要職にあったとはいえ、小藩の米倉家としては当然の成り行きだったのでしょう。新政府のもとでは六浦県知事を務め、「華族綬爵の詔勅」により米倉家には子爵が授けられました。横須賀、横浜は海軍の施設が多く、明治以降、家臣団を含めて海軍に関係する者も多かったようです。「オヤシキ」の名は消え、現在は瀬戸町となっているかつての谷の中心部には、今なお鬱蒼とした樹木に囲まれた米倉家の邸宅があり、高齢になられた米倉達子(よしこ)さんが17代当主として米倉家は続いているようです。

注記)図版・写真説明:上から
米倉家家紋「隅切り花菱」
横浜市金沢区瀬戸町の米倉家邸宅 門前の石段は陣屋時代のもの
江戸古図 牛込御門内米倉丹後守上屋敷
秦野市堀山下 蔵林寺 境内
旧保土ヶ谷宿 金沢横丁に残る4基の道標
近世の金沢周辺交通図
横浜市金沢区能見堂跡「金沢八景根元地」碑

(2011年 7月)

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