歴史の証人

旧杉田劇場
「歴史の証人」ということばが使われることがあります。わたしなりに解釈すれば、後世の歴史に残るような大事件・大事故の当事者、あるいはたまたま遭遇したとか、居合わせた人のことを指すのだと思います。わたしが所属していた会社は、世界中でプラント建設をしていた関係で、どちらかといえばその種の大事件・大事故に遭う可能性は高かったと言えるでしょう。
事実、仲間うちには、イラン革命やイラン・イラク戦争、あるいは多国籍軍によるイラク進攻時の「人間の盾」の渦中にあって、あぶない目に遭った人も少なくありません。わたしの場合は、サウジアラビア滞在中に、ホメイニ師によるイラン革命の影響を受けたイスラム原理主義者たちが、こともあろうに聖地マッカ(メッカの正式呼称)を占拠するという事件に遭遇しました。
事件発生とともに一切の情報がとざされ、全面解決するまでの3週間ほどは様子がわからないままに、粗暴なナショナルガード(正規軍とは別の国家警備隊)の銃口に怯えた毎日でした。その間は、まことしやかな口コミと、電話による日本からの逆情報(むろん盗聴されていました)が頼りでしたが、身の危険を感じるほどのことはなく、事件も拡がりを見せぬまま収束しましたので、
「歴史の証人」にならないで済んだことは、幸いだったと申せます。「歴史の証人」にはならなかったものの、劇的な出来事に居合わせたということでしたら、少年時代に2度経験しています。1度は小学生のときで、よく知られた名曲『異国の丘』が日本で最初に唄われたNHKの「のど自慢」に居合わせたのです。
もう1度は中学生になってから、水原茂(のちに巨人の監督)がシベリアから復員して後楽園球場で帰還挨拶した際に外野席で観戦していました。
わたしが生まれ育った品川というところは、鉄道線路が走る切り通しの谷ひとつ隔てて、西側は都内有数の御屋敷町だった御殿山、東側は旧東海道の宿場町だったということで、ある種独特な雰囲気を持っていました。鬱蒼とした屋敷林の残る御殿山や、かつては東海寺々域だった権現山の恵まれた自然を背に、山を下れば江戸随一だった宿場のねっとりとした雰囲気があり、
めったやたらと多い寺々の甍、それにもまして狭苦しい横丁が多い、そんな街でした。江戸時代は名だたる歓楽街であり、その伝統を色濃く残していた関係で、小学生のころは花街から通学する子もいましたし、蒲田にも近いということもあって、撮影所の大部屋所属のお兄さんたちが、いっぱしの俳優気取りで派手な服装で街を闊歩していました。
そのような街でしたから、現代風にいえば、タレントにあこがれる子も多く、クラスや学校に何人かいたものでした。なかでも別格だったのが、北品川に住んでいた島倉姉妹で、とくに姉の歌唱力は祭りの舞台などでもたいへんな評判でした。どういう理由からか、世に出たのは妹の千代子で、彼女は、いわば品川が輩出したスターでした。

旧杉田劇場記念碑
小学校のわたしのクラスにも童謡歌手を目指す子がいました。母親が夢中になって売り込みを図っていたのでしょう。そのせいかどうか、数名の学友と一緒に内幸町にあったNHKによく連れて行ってもらいました。当時のNHKといえばまさに娯楽の殿堂、そこで人気番組の収録を見られるなんてワクワクする思いでした。『話の泉』、『二十の扉』、そして『とんち教室』など、
子供心にも楽しいものでした。ラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の収録も見学しました。それまで音だけの世界だったドラマが、動きをともなった劇として見ることのできたことに感激したものです。「のど自慢素人演芸会」の本番も2,3回は見たでしょう。そのうちの1回、昭和23年の夏の同番組に、いかにも復員兵(古い言葉ですね!)らしき身なりの出場者がいました。
彼の歌は、会場にいたすべての人にとって、はじめて聞く曲でした。その声のすばらしさ(とはいっても、ぜんぜん耳には残っていませんが)はむろんのこと、軍歌調ではありましたが哀愁をおびたメロディー、そしてなによりも、聴く人の胸に切々と響いてくるその歌詞に心を打たれました。じつは定かに覚えているわけではないのですが、結果は合格の鐘が連打されたのだと思います。
そのとき司会していた、たしか高橋圭三だったと思いますが、興奮気味にいろいろ聞いていましたが、要は、その曲は抑留されていたシベリアの収容所で歌われていた曲で、自分は作詞者・作曲者が誰だかはわからない、というような説明でした。この曲を耳にした聴衆は全国で相当な数に達したことでしょう。当然のように話題をよび、一躍世間に知られました。
レコード会社はこの人気を見逃さず、作曲者不詳のままで竹山逸郎の吹込みでレコード化しました。また、横浜の劇作家神谷量吉の演出した葡萄座による『ヴォルガのラーゲリ』が、その年の10月に旧杉田劇場で上演され、劇中で『異国の丘』を歌わせて人気を博したそうです。旧杉田劇場というのはローカルな小さな劇場ですが、8歳の美空ひばりが幕間の前座歌手として初出演し、世に出るきっかけをつくったようです。現在、JR根岸線新杉田駅から大船方面に進んだ高架の下に記念碑が建っています。この曲の作曲は、のちの大作曲家吉田正だということが知れましたが、のど自慢でこの曲が歌われたことで、実態がよくわからないままに数十万に近い日本人がシベリアに抑留され、異国の丘で過酷な運命にほんろうされつつも、祖国への帰還に想いをつのらしている同胞のいるという現実を、世間に知らしめた点で劇的な出来事だったといえるでしょう。その場に居合わせたこと、わたしは今でも忘れないでいます。

高松市立中央公園に建つ 水原茂(左)、三原脩の銅像
話が変わりますが、小学生のころはご多分にもれず、いっぱしの野球少年でした。もっとも、グローブを買うだけの余裕がなかったために、野球部には入れてもらえず、中学ではプレーすることすらあきらめていました。その代りに、だれと行ったのかもう記憶は定かではありませんが、後楽園球場へはよく観戦しに行きました。当時は巨人フアンで、むろんお目当ては「赤バット」の川上であり、「猛牛」千葉でした。もっぱら外野の自由席でしたが、外野席ですと、「ヘソ伝」こと山田伝(阪急)のへそ捕りや、「塀際の魔術師」平山菊二(巨人)などの名人芸を楽しめました。中でも印象的だったのは、肩をこわした藤本英雄投手(のちに日本最初のパーフェクトゲームを達成)が巨人のライトを守っており、守備位置から内野手への返球もままならなかった姿の痛々しさがまぶたに残っています。そうです、あれは昭和24年の夏のことでした。たまたま観戦に行っていた巨人―大映戦で、試合開始前に放送があり、何かよくわからないままに白いスーツ姿の人がホームプレートの辺りで挨拶をしたのです。まだ子供だった私には何のことか理解できなかったのですが、周りにいた大人たちが、「水原が帰ってきたのだ」とざわめいていました。「水原?」、その名前だけは、後述する「リンゴ事件」のことを雑誌でよんだ記憶がありました。その水原が無事にシベリアから帰国し後楽園で挨拶をしたことは、ただの帰還挨拶にとどまらず、巨人軍の監督をしていた三原修(のちに脩と改名)との間で繰り広げられることになる、宿命ともいえる対決の序曲であったとは、神ならぬ身の知るよしもないことで、まさに劇的な出来事だったといえるでしょう。わたしは、そこに偶然居合わせたのです。
水原茂といえば、多少でも野球に興味のある方なら、その名をご存じでしょう。とはいっても、11年間の巨人の監督のうち、シリーズ3連覇を含む4回の日本一を成就した名監督としての名前であって、プレーヤーとしての水原を知っている人は多くはないと思います。むろん、わたしも知りません。その水原と三原との間の因縁ともいうべき対決を理解しやすいように、二人の関係を箇条書きにして整理してみます:
1)水原、三原とも出身中学は高松です。年齢は水原が2歳上ですが、学年としては3年の違いです。ともに野球の名門校で、在学中、水原の高松商は2回、三原の高松中も1回甲子園へ出場し、水原は2回とも全国制覇をしています。この時代、二人の対決はなく、三原は甲子園のスター水原をあこがれの目で見ていたかもしれません。
2)水原は慶応へ進み三塁手兼投手のスタープレーヤーで、六大学で5度のリーグ優勝という輝かしい成績を残し、早慶戦でグラウンドへ投げ込まれたリンゴを早稲田の応援席へ投げ返した、いわゆる「リンゴ事件」を起こしたことで知られています。一方の三原は早稲田へ進み、昭和6年春の早慶戦で投手水原のとき、勝ち越しホームスチールを成功させたことで、戦史に名を残しています。二人の因縁はここで始まったともいえるでしょう。因縁といえば、水原はマージャン賭博で部を除名、三原も規則に反しての結婚で退部・中退と、ある意味でのつわものであり、のちの激しい対決をうかがわせる片鱗があったといえるでしょう。
3)三原は職業野球契約第1号選手で、昭和11年から巨人の遊撃手兼助監督としてプレーしましたが、怪我のためプレーヤー生命は3年と短いものでした。水原は実業団で活躍、全日本メンバーにも選ばれ、大リーグとの対戦経験があります。巨人への加入は三原と同じ年で、応召までの6年間、三塁手として華麗な守備でフアンを沸かせ、昭和17年にはMVPを獲得しています。したがって、プレーヤーとしては、水原の方が上だったのだと思います。
4)戦中、戦後の混乱期を経て、プロ野球公式戦は昭和21年に復活、新聞記者をしていた三原は翌年9月に巨人の(総)監督に就任、その年は5位と低迷しましたが、翌昭和23年に2位と躍進、そして運命の日、昭和24年(1949年)7月24日を迎えたのです。水原に花束を渡して帰還を歓迎した三原にとってライバル意識はなく、むしろシベリアでのながい抑留生活を送っていた水原への労わりの気持ちでいっぱいだったにちがいありません。
5) かつての水原の華麗な守備を知る野球関係者・フアンのつよい声に後押しされた水原は巨人のユニホームを着ましたが、三原は水原を起用しませんでした。兵役・その後の抑留で7年近くのブランクがあり、ましてや41歳にもなっていたのですから、たとえ往年の名選手といえども、監督三原としては使うわけにはいかなかったのでしょう。しかし、それに対する不満がくすぶり、シーズン終了後三原排斥の動きが出て、選手・フアンのつよい声に押されて、球団は水原を次期監督にし、優勝監督だった三原の指揮権をはく奪し、総監督に祭り上げたのです。
6)1年を無為に過ごした三原は、昭和26年、新生西鉄ライオンズ監督に就任しました。三原は、「いまに見ておれ。このチームを強くして、いつか巨人と日本シリーズで対決し、日本一になってやる」という思いを心中沸々とたぎらせました。就任の翌年には、シーズン途中で球界のスーパースター、「青バット」の大下を東急から引き抜き、大下を中心にすえた強力チームの編成にかかりました。中西、豊田、稲尾といった超高校球児を加入させて、発足4年目にはリーグ優勝をし、昭和31年、俗に「巌流島の決闘」と称される巨人との日本シリーズ3連戦を連破しました。とくに最後の昭和33年には、巨人に3連敗した後、稲尾の4連投で逆転するなど、まさに知将三原の面目躍如たるものがありました。
7)巌流島の決闘の翌年、水原巨人はリーグ優勝したのに対し、西鉄は4位に転落し、三原は責任をとって退団しました。そして、巨人と同じリーグで6年連続最下位の大洋球団の監督に就任したのです。万年最下位のチームを名将三原がどのように立て直すか、世間の注目を浴びましたが、なんと就任1年でリーグ優勝させてしまったのです。しかも、5年連続優勝の水原巨人をしりぞけての優勝だったのですから、世間をアッといわせました。またしても三原に煮え湯を飲まされた水原は、責任を取って退団、二人の監督業は、その後もまだ続きますが、もう対決することはありませんでした。死力を尽くした二人の因縁の勝負は、結果的には三原の完全勝利ということで終わったのです。
巷間、水原・三原は武蔵・小次郎を引き合いに出しての永遠のライバルにたとえられています。「巌流島の決闘」に三連敗し、1年あけてリーグ戦でも敗れ去った水原監督の心中いかばかりかの思いがしますが、結局、優勝監督にもかかわらず指揮権のない総監督に祭り上げられた三原監督のあくなき執念に敗れたといえるのでしょうか。西鉄監督に就任した年、三原は「われいつの日か中原に覇を唱えん」と、水原との対決を制すことを心中強く決したといわれています。三原をしてそうした気持ちにさせたきっかけは、まさに運命の日、昭和24年7月24日の後楽園での水原帰還祝賀セレモニーにあった、とわたしは思っています。その会場に居合わせたこと、このことも、わたしにとって忘れられない日となっています。
(2011年 8月)
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