宿泊した海外のホテル一覧(1)

ホノルル ザ・ロイヤル・ハワイアン

もう4年前になりますが、わたしが航空会社の機内誌を蒐集していたことを紹介しました(2012年1月&2月号 『機内誌あれこれ(1)&(2)』参照)。同じようにもう一つ、いままで泊まったことのある海外のホテルについての資料―と言っても写真の類、チェックアウト時のレシートのコピー、便箋・封筒、入手可能だった場合の部屋のキーていどのものです―を集めてきました。はじめからそのつもりでいたわけでなく、いくつかのホテルに泊まり、持ち帰った絵葉書などを見ているうちに、その種のものを蒐集してみるか、という気になったのです。いまでは、コクヨのクリア・ブック(A4サイズ40ポケット) 3冊にまとまっています。わたしのウェブサイトのトピックのテーマとしていままでに、老い先もそう長くない自分の終活作業として、息抜きもかねてこれまでの生き様をまとめておこうという気持ちから、訪れた国々、垣間見た人たち、食などいくつかのテーマをまとめてきました。読む方にとっては、他人の終活作業を読んだって、と迷惑に思われる方もいると思いますが、まさに息抜きを兼ねて、今回も3回ほどご辛抱願います。いつ、どんなホテルに泊まったかを地域・国別に列挙し、印象に残ったホテルについて寸評するつもりでいます。

コロンビア・ボゴタの ホテル・テケンダマ

1)南米・中米・北米(1)南米へ出張時に利用したホテル

宿泊年 国名・都市 ホ テ ル 名
  コロンビア:  
1974 ボゴタ *テケンダマ
  カ リ インターコンチ・カリ
    アメリカーナ・カリ
  メデジン インターコンチ・メデジン
  ツマコ *レジデンス・アメリカーナ
  バランカベルメッハ ピパトン
  エクアドル:  
1974 キト *コロン
  サント・ドミンゴ サラカイ
  グアヤキル *パラセ
1975 エスメラルダス ディアナ
  キト *エンバシー
  グアヤキル フンボルト
1976 イバラ アジャビ
  ペルー:  
1975 リマ クリジョン
1977 リマ リヴィエラ
  クスコ サボイ
  メキシコ:  
1975 メキシコシティ *ブリストル
1976 メキシコシティ コンチネンタル
  アメリカ合衆国:  
1974 ニューヨーク インターナショナル
  ロサンゼルス *メイフラワー
1975 ロサンゼルス アシエンダ
1977 ロサンゼルス ハイアット・リージェンシー
  ホノルル モアナ・サーフライダー
  ホノルル ワイキキ・シェラトン

(注記1)ホテル名へのホテル記載は省略
(注記2)宿泊年ははじめて泊まったときの年数
(注記3)*印は連続3日以上宿泊、または複数回利用を示す

エクアドル・サントドミンゴのサラカイホテル

テケンダマはコロンビアの首都ボゴタでも1、2と言われたホテルで、わたしにとって海外ではじめて宿泊したホテルでした。 はじめての訪問国だったこともあり、面会する相手に対して信用してもらうため、また社名の誇示ということもあって、とにかく最上級のホテルをということで、かれこれ2週間ほど気分よく滞在した思い出ふかいホテルでした。
それと真逆だったのが、ツマコのレジデンス・アメリカーノでした。そもそもがツマコ自体、コロンビア最果てともいえる熱帯雨林の中に開けた、太平洋に面した木材の輸出のみに頼る貧しい町。住人の大半は黒人で、いいホテルなどあろうはずがありませんでした。窓には網戸といった洒落たものがなく、虫などが多く窓も開けられない。とうぜん室内には湿気がこもり、クーラーもなく、水もシャワーからほんの少し落ちてくるていどでした。住環境としたら、最低のホテルだったといえるでしょう。

ロサンゼルス ハイアット・リージェンシー

エクアドルの首都キトから製油所建設現場のあったエスメラルダスへ行く途中、アンデスを下り終えたところにサント・ドミンゴという町があります。エスメから逆コースで登る場合、キトとグアヤキル(同国最大の都市)両都市への分岐点にあたる熱帯樹林帯の中のしっとりとした町で、わたしは好きでした。何よりもアンデスを下りきってホッとしたところで、無事だったことを祝福してくれるような包容力で迎えてくれたからです。そこにあるサラカイ・ホテルも素朴ながらしっとりとしていて好きでした。写真で見るように深い樹林帯の中で、湿気の高いのが難点でしたが、同じ樹林帯でも、ツマコのホテルよりは設備がよく、その分、快適だったといえるでしょう。そこに泊まるもうひとつの楽しみは、近くに野村農園があって、常時2、3人の日本人が滞在しており、4人そろわねば楽しむことのできないマージャンをしたいため、日本人の泊り客の来るのをてぐすね引いて待っているのです。暗い電燈の下、湿気防止のシッカロールを用意してのマージャンはそれなりに楽しく、異郷で無粋をかこつけている彼ら企業戦士を、少しでも慰められるならの思いもつよく、いわば互いに励まし合っていたのかもしれません。
エクアドル滞在中に、JALのLA便がメキシコシティまで延びるようになり、同市はエクアドルへのトランジット中継地となりました。定宿は市内のブリストル・ホテルで、都合3回4泊しました。ホテルとしては中規模の2、3流でしたが、深夜便の出発までの時間を利用して、のちに世界遺産となったテオティワカンの都市遺跡やマヤ・アステカ文明関係では世界最大の「国立人類学博物館」、そして南米のパリ・シャンゼリゼ通りと称されるレフォルマ通りをぶらつき、ハプスブルグ家のチャプルテペック城の見学などを楽しんだものです。
南米から引き揚げる際、足かけ4年ほど留守にしたわが家を、途中おもい病を押して守り通してくれた妻、そして淋しい思いをしたであろう2人の娘を慰めようと、ディズニーランド・ハワイで楽しんでもらうことにしました。はじめての海外への旅、まだ幼子だった2人を連れてのロサンゼルスまでの空の旅は、とくに下の子が体調をくずしたので、たいへんだったようです。あらためて母のつよさをつよく認識したものでした。3泊したロスでのホテルはハイアット・リージェンシーのスイートルーム、市の中心部に威容を誇っていました。その当時、怖い町だという印象はまだなく、2人の娘を寝かしつけ、黒人のメイドに因果を含めて(通じたのかどうか)、妻と二人、TVドラマで名を知っていたサンセット通りをぶらついたものでした。留守にされた2人の娘は、ちょうどメイドがベッドメーキングに入ってきたところで目をさまし、こわくて何を言われても「ノー、ノー」と、両手を振ったそうです。メイドも困ったのでしょう、チョコをくれて去ったようです。現在カリフォルニアに住む下の娘には、「もし、そのメイドに通報されれば、いまなら幼児虐待の罪で逮捕ものよ」、と言われておどかされていますが、ずいぶん無神経な行為だったな、と反省しております。

ホノルルのモアナ・サーフライダー

逆に、ホノルルでは思わぬ点数稼ぎをしました。経緯はこうでした。帰国の際のチケット購入は、エクアドルからペルー経由でボリビアへ入り(この分は途中でキャンセル)、そこからメキシコ経由でロスへ入国、ホノルル経由で羽田へ、という複雑なものでした。航空会社もエア・フランス、エクアドル航空、アルゼンチン航空、アエロ・ペルー、そして最後がJALとまたがっていましたので、そんな複雑なチケットの発行、南米の旅行会社ではむずかしかったのだと思います。メキシコ・シティに着いて市内にあるJALの支店で確認したところ、ロス―ホノルル―羽田の家族の分は予約されているが、わたしの分は連絡が入っていないというのです。翌日にはロスへ飛ぶことになっており、家族を迎えなければならないので、すっかりあわてました。出発直前になってようやく、確認が取れたが、念のためにロスで再確認してくれというのです。結果として問題なかったのですが、ホノルルに着いたところ、JALの空港長だという人が出迎えてくれ、メキシコでの不手際を丁重に謝罪した上で、ホテルまでリムジンを用意させていただいたと言うのです。キャデラックの例の黒塗りの長い車です。差向えに坐った娘たちは、「パパって偉くなったのね」、とはしゃぐし、面映ゆい気持ちになったものでした。その上、ホテルは超一流のモアナ・サーフライダー、翌日からの2泊は同系のワイキキ・シェラトンに替わりましたが、その経緯、いまでもよくわからないでおります。その後ずいぶん経ってから、娘が結婚式をホノルルで挙行した際、機転を利かせたのか、あるいは見得だったのか、ザ・ロイヤル・ハワイアンを予約してくれました。どちらのホテルも自分で選んだのではありませんが、くしくも、「純白のエントランス モアナ・サーフライダー」、そして「太平洋のピンク・パレス ザ・ロイヤル・ハワイアン」というホノルルを代表する2ホテルに泊まることができたこと、望外の喜びであり、ラッキーなことでした。

   

(2016年06月)

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