大金を持つのも楽じゃない

ベンガナ邸内のわたしの寝室

前号で、アルジェリアでの業務で通訳を介して仕事をしたことを紹介しました。その際、小さな商店主みたいに、独りで何でもかんでもやらなければいけなかったことを書きました。それまで従事した海外での仕事では、技術屋のわたしは自分の担当分野にだけ注力すればよかったのですが、何もかも自分でということになりますと、船積み関係書類の作成、為替リスクの回避といったような、いままでやったことのないような業務もしなければなりませんでした。扱う物品は量も金額もささやかでしたが、必要な作業内容はいくつもの独立した部門にわたっていました。わたしが荷主だということで、横浜の商工会議所でサイン登録までさせられました。そうした作業は海外業務を行う会社にとっては日常のごくありきたりの作業です。しかし、アルジェリアでの業務では、他では考えられないような、ある意味、とてつもなくべらぼうな経験までさせられました。
通常、海外業務といえば、現場で相当大きな額の金銭が動きます。当然のことながら、現地の銀行に口座を持ち、経理専門の事務屋さんが常駐して管理することになります。あるいは現地に進出している商社に協力してもらうこともあるかもしれません。アルジェリアでの経験はいくつかの特殊な理由が重なりました。まず、現地進出の経験が皆無だったこと。したがって自社の事務所はむろん、協力してくれる商社もいなかったのです。商社が進出していなかったということではなく、当時はまだテロの嵐が吹き荒れていた頃でしたから、日系企業はすべて国外退去させられていたのです。そして決定的な理由としては、本格的に事を構えるには、あまりにも業務規模が非常に小さかったことでした。それにしても、現地の銀行を探し口座を新設するなどということ、言葉も通じず、その方面の知識もない小商店主のわたしには、とてもできないことでした。どうしたらいいのか、しばし途方に暮れましたが、行きつくところは現場で必要な金は自分で持ち込み、自分で管理するより仕方なかろうということでした。現場で必要な金、大ざっぱにとらえるなら、現地業者(工事関係、警備費、車のレンタルなど)への支払い、事務所(備品・通信費を含む)経費、日本人数名の滞在費(宿舎の家賃、生活費など)と福利厚生費、その他予備費・雑費などで、その額は事前に調査していましたので概略の数字はつかめます。ただし、万が一にも不足した場合、本国からおいそれとは送金を受けられませんので、応分の余裕を持たなければならず、小さな工事とはいえ、金額としてはかなりの大金でした。そんな大金を持ってどうやって赴任すればいいのか、頭を絞りました。できる限り身に着けるのが安全でしょうが、アルジェへ向かったのは夏でしたから軽装、とうぜん身に着けるわけにはいきませんし、それに額も額です。機内持ち込みの荷物に忍ばせて、荷物は手から離れないような工夫をし、機内でも足下に置き、席を立つ際は、念のため簡単には置き引きされないような配慮もしました。自宅を出てからアルジェの空港までは、1泊したフランクフルト、チュニスでのトランジット時間を含めれば45時間の長旅でした。どちらかといえば小心者のわたし、その間の緊張は半端なものではなく、空港で、顔見知りの大使館の警備官の姿を目にしたときには、もうへとへとになっていました。

ベンガナ邸敷地に咲き誇るジャカランダの花

アルジェでの宿舎は大使館に隣接するベンガナ邸を借り切りました。その警備は地元警備会社エル・ハナに委託しており、到着の日からすでに警備員たちが配備されていました。外部からの侵入はよほどでなければ心配ありません。現場事務所は大使館内の官舎地下のスペースを貸していただきました。ベンガナ邸敷地内の果樹園を通って事務所までは10分弱、昼食は宿舎へもどり、一眠りしてからの出勤となります。その間、宿舎内は家政婦とメイドの女性2人、ときおりベンガナ家の執事が顔を見せていたようです。2人の女性は夕食のあとかたづけが済んだところで自宅へもどり、夜間は数名の日本人だけとなります。外部は四六時中、銃を携帯した2、3名の若者が警備していました。鳥たちの鳴き声で目覚める朝は、身支度が済む頃には朝食が用意されていました。そんな生活の中で、わたしが持ち込んだ大金をどのように管理したと思いますか。じつはまったく想定外のことでしたが、ベンガナ邸の中には室内に隠し金庫が設(しつら)えてあったのです。アルジェリアでも有数な富豪だと言われていたベンガナ家は国内に広大な農園を所有しており、アルジェ市内の敷地も広大で、いくつかの大使公邸などの外交官施設、企業の宿舎などの邸宅が散在していました。わたしたちが住んでいた邸宅はその一つに過ぎず、そういった不動産、農園・果樹園などの管理のために邸内には事務所が必要であり、当然金庫なども必要だったのでしょう。わたしのとってはたいへんラッキーなことでした。大金を常時アタッシュ・ケースに入れて保管するなど出来ようはずがなかったからです。ささやかな現場事務所だったとは言え、毎日のように現金は必要となります。持ち込んだのはフランス・フラン(FF)のピン札、それをドライバーに頼み、現地通貨のディナール(DA)に換えさせるわけです。むろん換金は原則として少額に止めました。不慮のトラブルを避けるためと、ディナールを出来るだけ持ちたくなかったためです。ディナール紙幣というのは、その汚さは尋常ではなく、銀行側もその点を心得ていて、数えずに済むように(現実問題として紙幣を1枚ずつ数えることは不可能)、ホッチキス止めした4000円ていどの小額紙幣の束を渡してくれるのです。100DA紙幣でしたら20枚の計算になります。たとえば1000 FF(当時の換算レートで2万円ほど)を換金すると、5束、100枚ほどの汚らしい紙幣となってしまうのです。その臭いもがまんならないもので、換金したらすぐにでも使ってしまいたい思いになります。日によっては高額の買い物の生じることもあり、ときには業者への支払い、宿舎用の特別の買い物、あるいは、たまにはアルジェ市内のレストランでの食事などなど、原則はDA払いですから、日々の換金作業はばかにならない労力でした。日計表を作成し、夜寝る前に金庫で残金の確認をし、翌日の換金分を予想してから就寝。翌朝は換金分を取り出し、施錠の確認をしてからの出勤という毎日でした。ベンガナ邸での生活が2ヶ月ほど過ぎたころでしょうか、さる人から「邸内の金庫だからと言って、決して安心してはいけない」と言われ、金庫から離れて寝ることに不安に感じてしまい、わざわざ寝室を金庫のあるせまい部屋に移すことにしたほどでした。

宿舎警備のエル・ハナ社のガードマン

それにしても、現金を管理するということは不便なものです。滞在が半分ほど経過したころ、ビザの更新時を利用してチュニスの保養地ガマス海岸へ3泊4日の休暇を取ったことがありました。ヨーロッパからの保養客がよく泊まるホテルを利用したのでフランをおおっぴらに使えるし、ホテルも大歓迎するだろうと思っていました。日本人的な発想だったのですね。チェックアウト時の支払いに、通訳に日本から持ち込んだピン札を渡したのですが、ばかに手間取るのです。通訳曰く「ホテルは現金ではなく、カードで支払ってくれと言っている」、というのです。そうは言っても、銀行口座を持てない、口座がなければカードもつくれないわけで、フロントではしぶしぶ現金払いを認めてくれました。現金払いよりカードでの支払いを求めるというのは、中継地のフランクフルトのホテルでもそうでしたが、一つの時代の流れなのでしょう。現金を持つより、国際的に通用するカードを所有している方が身元を保証してくれるでしょうし、何よりもフロントでの作業が簡略化されるのでしょう。工事も完了したところで、業者への支払いを済ませ、ベンガナ家との精算も済ませました。たぶんベンガナ家にとってはいい借主だったのでしょう。わたしが樹木に興味のあることを知ったベンガナさんは、自分の館の庭園内に植生する樹木(2012年12月号 『ベンガナの館植物園』参照)の写真に名称つけ、1冊のファイルにしたものを記念として贈ってくれました。以前、ベンガナ邸を宿舎として借りることにしたとき、わたしが日本の風景写真集を挨拶代わりとして差上げたお返しの意味もあったに違いありません。こうして日本から持ち込んだ現金はかなり使用され、もう大金とは言えない額になっていました。が、じつは契約上、現地支払い分として大使館から支払われる分があったのです。当初、会社の銀行口座へ送金されるとばかり思っていたのですが、アルジェリアからの送金は出来ないということでわたしが受領することになってしまいました。何のことはない、来るとき経験したあの気苦労を、また経験することになってしまったのです。成田に到着した私は,そのまま社に直行、待機していた経理の面々に、苦労して運び込んだ大金を渡しました。経理の人たちは、あたかも手品でも見るような興味ぶかそうな面差しで、あちこちから現金を取り出すわたしの手元を見ていました。彼らは、そのお金を持ち帰るのにどれほど神経をつかったのか、たぶん理解できなかったことでしょう。それにしても、わたし個人としては楽しく有意義な経験をしたと思っていますが、ぶじに事が運んだからよかったものの、このようなリスクを伴う業務はすべきではないし、いや、わかっていれば、本来受注すべきではなかったのかな、とつくづく反省する今日この頃です。

   

(2016年05月)

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