パスポートをさかのぼる(1)

昨今では多くの方がご自分のパスポートをお持ちではないかと思います。わたし自身は、途中で一度だけ切らしたことがありますが、現在8冊目で今年の後半には、また更新するつもりでおります。もっとも現在のものは、渡航経験ゼロで真っ白のままです。年々記憶が薄れていく中で、古いパスポートを開き、押印された各国のビザや出入国のスタンプなどを見ていますと、不思議なことに忘れかけたその頃のことが鮮明に思い出されるもので、皆さんもそんな経験があるのではないでしょうか。
自分のウェブサイトにトピックという形で毎月1編の雑文を書くようになって、この8月で7年目に入ります。正直に申して、こんなに続くとは思ってもいませんでしたが、毎月思いついたテーマで気楽に書いていることも長続きの秘訣だったのかも知れません。その間、何を書くにつけ、いつしか「人生の終活」とか「終い支度」のことが心をよぎるようになり、そろそろ自分の人生のまとめを考えなければいけないな、とつよく感じるようになっています。わたし自身これまでに大した仕事をしてきたわけではありませんが、終活として自分が海外でやってきたことを記録に残しておくこともその一つになるのではなかろうかと思い、パスポートをさかのぼってみることにしました。べつに大それたことを書くつもりはまったくなく、いつ、どこへ行ったのかていどの記録です。いままでも、折にふれて海外のこと書いて来ましたが、これから残す記録と合わせることで、己の来し方の終活の一つになるのではないかと思っています。もっとも、日ごろトピックに目を通していただいている方にとっては、他人の記録など面白くもないと思われるでしょうが、3回ほどでまとめますので、寛大な気持ちでご容赦願います。そして、たまに記述される(であろう)寸評にでも関心を寄せていただければ幸いです。なお、行先として選び出したのは、あくまでも仕事がらみで滞在したところで、空港施設内にとどまったトランジットは省いています。また、仕事に関連して参加したツアーは記録に残す意味で加えております。
1)南米コロンビア(1974年1月〜2月)製油所建設予定地の見積用事前調査
わたしの初めての渡航は、思わぬことがきっかけでした。年の瀬も押し迫った27日、それも退社時間の少し前のことでしたが、パスポートも持っていないわたしに、年が明けたら南米コロンビアへ調査に行ってほしいというのです。「急な話なのだ!動けそうなのはお前だけ、すぐに担当部署へ顔を出してこい」、昭和48年(1973年)のことでした。その年の10月に東京・日野市から横浜に移住し、荷物の片付けも終わって、これで新しい年を横浜で迎え鎌倉への初詣も出来るかな、なんてのんびり考えていたときでした。それから出発するまでの慌ただしかったこと、パスポートに残された記録を追うと、このようになります。 1973年12月28日 有楽町で「そう痘」予防接種、いわゆるイエローカードの取得。1974年1月4日 パスポート申請、8日に入手 どこで申請したのかの記憶なし。9日 アメリカ大使館へビザの申請 取得14日。10日 羽田空港で「黄熱病」予防接種 すごく痛かったことを覚えている。15日 羽田出国 3人のグループ行動だったためか、個人の持ち出し外貨の 記載なし。ちなみに外貨記載の最後は1977年5月(パリへ出張)で、現金・T/C合わせて2000$、まだ360円の時代で結構な金額だった。

メデジン:レンガ色一色のメデジン市街

訪問地:
・首都ボゴタ―市内一のホテルTequendamaを拠点にして約1ヶ月間、同国内での調査活動。
・ツマコ―製油所建設予定地 同国内において「陸の孤島」と称されていた最果ての地(トピック2009年8月「ツマコとエスメラルダス」参照)で、都合3度訪問した。
・カリ―ボゴタからツマコへ行くための中継地 ここの空港で「搭乗のためには気長に、忍耐して待つこと」を覚えた。いま考えても、空港へ行く都度、いつもただひたすら待たされた。
・ブナベントゥーラ―太平洋岸の世界一の泥棒港として有名。建設資機材荷揚げ候補港として港湾施設調査で訪問。いかにも物騒な感じの町であった。
・メデジン―ボゴタは海抜2600メートル。前夜ホテルで安全のチェックがてら非常階段を利用し、翌日の昼食で飲めもしないワインに口をした所、目の前が真っ暗になり、横臥しても後頭部の痛み取れず。高山病だということで、すぐに1500メートルのメデジンへ。下る車中で徐々に回復し、酸素の有難味を知った。あとで知ったことだが、メデジンはエメラルドの世界一の産地であるとともに、麻薬マフィアの活動拠点で有名だとか。同地で建設業者・資材の調査もしたが、社長室での何気ない会話中でも、じつは警戒のためピストルでねらわれていたはずだと驚かされ、びっくりした。
・バランカベルメッハ―同国最大の石油生産地 泊まったホテルPipatonは植民地時代のスペイン風の建築で、雰囲気のいいホテルだった。
寸評:初めての外国旅行、不慣れだったとはいえ、あまりにもお粗末なことばかりで、恥ずかしい限りでした。その第一は、買ったばかりのペンタックスの一眼レフをカリのホテル室内に置き忘れてしまったことでした。チェックアウトして空港へ向かうタクシー内で気付き、すぐに取って返したのですが、チェックアウト後だということで部屋には入れてもらえず、部屋の担当に調べさせたがカメラは見当たらなかった、ということで話はチョン。結局、コロンビアでは写真を残せず、残念なことをしました。南米は会社としても初めてだということで、上司の部長が心配されて、ボゴタで日本企業の駐在員をされていた甥のO氏に連絡を取っていただき、現地ではO氏ご夫妻にたいへんお世話になり、心強く感じたものでした。氏とは今でも賀状を交換しています。

キト:近郊の山から見たキト市街全貌

2)南米エクアドル(1974年8月〜10月)製油所建設現地調査・事前打ち合わせ
コロンビアでの現地調査結果は、プロジェクト自体が中止になったために活かすことが出来ませんでしたが、代わりに隣国エクアドル・エスメラルダスでの製油所建設工事を受注し、現地調査・キャンプ計画のために単身エクアドル入りしました。
訪問地:
・首都キト―海抜4878メートルの秀麗なる山容を誇るピチンチャの裾野2830メートルの高地にある都市で、市内を赤道が横断している。キャンプに関する顧客との打合せ、キャンプ内の建物(製油所竣工後は顧客の宿舎に)を設計する事務所との打合せなどのため、みすぼらしいところへは泊まれないと見栄をはって、市内で一、二位を競う高級ホテルColonに陣取った。1500$の外貨を持ち出していたので、はじめのうちは事務の人と同宿で気持大きく、夜な夜なレストラン通いをしていたが、そのうち懐が不安になり、のちに会社の定宿となったホテルEmbassyに移った。中級の中レベルではあったが、清潔感のあるホテルだった。キトではS商事のT氏が工事用に独立した事務所をすでに構えており、仕事上でも、個人的にもたいへんお世話になり、いまでも賀状を交換している。
・エスメラルダス―製油所建設の予定地はキトの北西約330キロの太平洋岸の港町。キト滞在中に3回、うち1回は空路で、2回はホテルでチャーターしたタクシーでアンデスを下って訪問した。
・サント・ドミンゴ―キトからアンデスを下ったところにある街で、ここまでくれば、あとはエスメまでバナナ畑が果てしなくつづく平坦な道を行くだけ、ホッと一安心する所だった。ここは、エスメからグアヤキルへ行く場合の分岐点でもあって、熱帯樹林帯の中にサラカイという名の瀟洒なホテルがあり、原住民の一族Colorado Indian(頭髪を赤く染めている)の居住地も近く、街中でよく彼らに出会ったものである。
・グアヤキル―エクアドル最大の都市で、野口英世博士が黄熱病の研究をしたところとして市内の通りの名にもノグチの名は残り、最近では、新婚旅行中の日本人男性が不幸な事故に遭ったことで知られてしまった。
寸評:コロンビアでは「エクアドルは後進国だ」とよく耳にしましたが、たしかに素朴な感じのする国です。その分、コロンビアほど「すれていない」と言えるのでしょうか。キトは、1日のうちに日本の四季があると言われていましたが、たしかに日中の暑さは赤道直下を感じさせたのに、朝夕は爽やかで、夜に入るとホテルのパーティーなどに毛皮のコートを羽織った女性の姿をよく見たものです。2ヶ月にわたる調査で、エクアドルのことに関して大方のことはつかめ、建設工事への対応は十分備えられるという思いで帰国しましたが、豈図らんや、その見通しの甘かったこと、建設工事を開始してすぐにいろいろなことで痛烈なる打撃をくらうことになりました。たとえば、軍事クーデター、労働争議などの社会的争議、大水害、土砂崩れ、そして地震といった自然災害など、すべてが想定外だった事柄によって、工事の進捗が大きく妨げられ、何よりも精神的な苦痛を味わったものです。

エスメラルダス:市内の目抜き通り(社内報から)

3)エクアドル(1975年2月〜1977年2月)エスメラルダス製油所建設工事
現場出張所へのはじめての長期赴任でした。前回までのアンカレッジ・NY・マイアミ経由のルートと異なり、このときはエア・フランスでタヒチ・南米ぺルーのリマ経由でした。当時自宅へ出した手紙によると、羽田を出てからエスメラルダスに到着するまで60時間を要したと記述されており、とくに現場への赴任ともなると荷物が多く、キトからエスメへはチャーターしたオンボロ・トラックの助手席で、崖道では胆を冷やしながらの道中で9時間40分もかかったことが書かれています。地球の裏側、やはり最果ての地だったということをいまさらながら痛感している次第です。
滞在地:
・エスメラルダス―先に記したように、太平洋に面しエクアドル国内最北に位置する港町。現在は石油の出荷港となっているが、当時はほとんどがバナナと木材だけの出荷だった。エスメラルダス州々都で当時の人口は数万ていどだったのが現在では10数万と倍増しており、人種的には黒人の比率が高い。その点に関しては、コロンビアのツマコと同じで、前述の「ツマコとエスメラルダス」を参考にされたい。町は大河エスメラルダス河の左岸に開け、町の南端でこの大河に流れ込む支流ティアオネ川に沿って開けた広大な牧草地が製油所建設地、同川の対岸がキャンプ建設地となっていた。双方とも三方が山に囲まれた盆地状の敷地で、大雨が降れば一気に水をためてしまい、のちに2度にわたって大洪水に見舞われるという被害を受けたのも、この特殊な敷地条件のためであった。
訪問地:
・イバラ―現場開設中はまとまった休暇が取れず、前回の出張中に行ったところ以外では、帰国する友人の見送りでキトへ上がった際に木彫りの名産地イバラへ行っただけであった。名工の作業場が点在し、日本でいえば萩や備前の窯元を思わせる雰囲気が印象に残っている。巡礼する老人像をはじめ4点の大きな彫物を購入し、帰国時に船便で日本へ送ったが、今でも大切にしている。
・グアイリャバンバ―帰国間際になった頃、キトの近くに野口英世博士の名がつけられた小学校があると教えられ、エクアドルを出国する前日、半日を費やしてキトからタクシーを駆ってこの町へ行ってきた。日本の新聞社の現地通信員が訪問したことは耳にしていたが、日本人としては、多分わたしが最初の訪問者だったと思っている。「日本からわざわざこんな遠いいところまでお出で下さって」、と女性の校長先生が大変感激してくれたことが印象的で、いまでもよく覚えている(トピック2009年9月「イデヨ・ノグチ小学校のこと」参照)。
中継地:
・タヒチ―エクアドルへの入国ルートは、最初だけアメリカ経由、つぎの2回はタヒチ経由だった。その後はJALがメキシコ・シティへ乗り入れするようになって、そこに1泊してから入国するようになった。タヒチでのトランジットは半日ほど、ガラスボートで海底探訪するサービスが付き、それを楽しんでからペルー・リマ経由でキトへ入ることになっていた。
・メキシコ・シティ―日本からメキシコ・シティへ直行便で着いても、キトへ向かう便は曜日によって同市で1泊もしくは2泊する。おかげでちょっとした市内観光ができるわけで、世界遺産のティオティワカンのピラミッド・市内の歴史地区、あるいはパリのシャンゼリゼ通りを模したというレフォルマ通りをぶらりとしてチャプルテペック宮殿あるいは国立人類学博物館を見学するなどといった観光を楽しめた。

マチュピチュ:遺跡を背景に好男子一人

観光地:エクアドルでの現場勤務で楽しみにしていたのが、帰国時に隣国ペルー・マチュピチュへ行くことだった。キトに住む日本人を通じてリマのKINJYO旅行社に手配させたが、心ワクワクする一人旅だった。残念だったのは、仕事の手切れがわるくて離任が遅くなり、ロスに家族を呼んでいた関係で、チチカカ湖経由でボリビア・ラパスからロスへという計画が実現できなかったことで(トピック2013年7月「南米で行き損なったところ」参照)、いまでも残念に思っている。
・クスコ―クスコの近傍のサクサイワマン要塞は海抜3800メートルの高地、日本からの直接の観光客の中には高山病で体調をくずす人もいるとか。その点では、ボゴタやキトで慣れていたせいかわたしの体調は良く、高地にふさわしく体が宙を飛ぶような感がした。この高地で、TVロケ中の「寅さん」こと渥美清さん(故人)と出会い、翌日はマチュピチュまで一緒で、そこで別れる際、「あっ!そう、お疲れさま」、と優しげな細い目で挨拶を返してくれたことが懐かしく思い浮かぶ。
・マチュピチュ―ご存知、世界遺産第1号で、クスコから日帰りの旅だったが、遺跡の中に自分が立っていることだけで感動的であり、そこの風景はいまなお瞼に深く刻み込まれている。

(2014年6月)

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