本牧八聖殿の聖像について

八聖殿郷土資料館外観

もう3年近くになりますか、横浜・本牧の八聖殿で催されている歴史講座に出席し、年に2回行われている歴史散歩に参加しております。横浜に住むようになって今年の10月で41年になりますが、じつは、八聖殿の名前はかねて聞き及んでおり、それが三溪園の近くだとは知ってはいましたが、歴史講座に出るまでは入館したことはありませんでした。
隔月に開かれる歴史講座は担当が曽根勇二先生、ご専門が秀吉の研究家だということで、戦国期後半から近世にかけて、それも横浜という地域に関係した内容に力点がおかれていますので、内容はかなり限定されていますが、古文書に基づいた中身の濃い面白いもので、聴いていても楽しいものがあります。歴史散歩も、ただ歩くというのではなく、こちらも史料に基づいた先生の説明つきですから、たいへん有意義なものとなっています。歴史好きのわたしも江戸探訪などを主宰していますが、わたしのように書物から得られた孫請けではなく、専門家が第一次史料を渉猟(しょうりょう)した結果の説明ですから、まったく生のお話で、その聞き歩きは本当にためになります。ところで、八聖殿では歴史講座、歴史散歩のほかに特別講座も組まれていて、横浜市諸館の学芸員・研究員の方々によって本牧を中心にした絵図や古文書、民具などを題材にしたお話も聴くことが出来ます。昨年の例では、横浜都市発展記念館主任調査研究員の青木祐介先生の『三溪園旧松風閣』の遺跡発掘のお話、つい最近では横浜ユーラシア文化館主任調査研究員の福原庸子先生の『八聖殿の彫刻についてー明治大正昭和を生きた芸術家たち』といったお話を聴くことができました。福原先生のお話は、ただ単に八聖殿におさめられた八聖人の彫刻の説明にとどまらず、「日本近代彫刻の展開」という見出しで、仏師にはじまるわが国の彫刻史、いや美術史概説とでもいえるようなお話をうかがい、とくに明治の中ごろにフェノロサの来日を機に東京美術学校が設立されたにもかかわらず、明治の後年になるまで日本人でロダンの存在を知る者がいなかったというお話など、まさに「目から鱗が落ちた」思いでした。

八聖殿内部

当初わたしは、八聖殿は本牧三溪園の敷地内にあるのではと誤解していました。実際には、三溪園と本牧市民公園に囲まれた本牧臨海公園の丘の上に建っています。いわば谷あいの住宅地を隔てて三溪園と東西に向かい合ったところに位置しています。本牧というところ、元々風光明媚なところで、江戸時代から文人・墨客に愛され、北斎なども絵を遺しております。ペリー来航時には防備の拠点になり、遠見番所になったようです。八聖殿が昭和8年(1933年)に建立されるに至った経緯は、説明書によれば、大正末から昭和にかけて逓信大臣や内務大臣を務めた政治家安達謙蔵が、世界中から8人(日本人・外国人各4人)の聖人を選んでその像を法隆寺の夢殿に模した八角堂に安置し、八聖殿と命名されて精神修養の道場としたのだそうです。正直なところ、修養の道場とは何をするところなのか、そして横浜の出身でもない安達なのにどうしてこの地が選ばれたのかなど、わたしには理解できないのですが、昭和12年(1937年)に横浜市に寄贈されるまで、各界を代表する人物による各種の講演会場になっていたようです。現在の名称、横浜市八聖殿郷土資料館となったのは昭和48年(1973年)ですが、戦中を含めて昭和12年からの30数年間どのように使用されていたのか、わたしは知りません。

キリスト像

さて八聖殿講堂には、正面の檀上よりさらに一段高いところに、神鏡を中心に向かって左へ釈迦(木造)、孔子(青銅造)、ソクラテス(青銅造)、キリスト(銅造)、右へ聖徳太子(白銅造)、弘法大師(木造)、親鸞(銅造)、日蓮(銅造)の八聖人の像が並んでおります。八聖人を選ぶということ、いざ選ぶとなるとたいへんな事だったと思いますが、最終的には安達が決断し、その作者も安達がその当時活躍中の彫刻家の中から選び、みずから足を運んで依頼したそうです。ご参考までに、作者の名を順に従って書き上げると、釈迦(田島亀彦)、孔子(北村西望)、ソクラテス(藤川勇造)、キリスト(清水多嘉示)、聖徳太子(朝倉文夫)、弘法大師(長谷川桝藏)、親鸞(長谷秀雄)、日蓮(日名子実三)となります。はじめて八聖殿を訪れ諸像をみたとき、その素晴らしさにびっくりはしましたが、彫刻に疎いわたしとしては、作者のうちその名を知っていたのは、日本を代表する彫刻家と言える朝倉文夫(日本彫刻界の先駆的存在 文化勲章受章者)、北村西望(「長崎平和記念像」の作者として著名 文化勲章受章者)、そして清水多嘉示(日本芸術院賞受賞 文化功労章受賞者)のお三方だけでした。とくに清水先生には学生時代にデッサンの指導を受けていたことから、懐かしさを覚え、先生のキリスト像に見入ったものでした。先生は彫刻家を志す前は画家志望で絵を学ぶために渡仏されたことは耳にしており、建築学教室内ではよく、「君らを教えるにはもったいない先生だ」とか、「清水先生に教えてもらえる君らは幸せものだ」などと言われたものでした。先生の教えのなかで印象に残っているのは、「建築家にとってのデッサンは、うまい下手ではなく、モデルを立体的につかんで描かれているかどうかだ」ということで、いまでも鮮明に覚えています。学生時代のわたしは、友人の作品と比較して、なぜ自分の評価が低いのかが理解できなかった劣等生で、結果としてデザインの道はあきらめましたが、いまでも内心忸怩たる思いは捨てられずにいます。

釈迦像

さて、ふたたび福原先生の講座の内容にもどります。講座では、まず用語として、日本古来の伝統彫刻としての彫刻(広義にはブロンズ鋳造なども含む)、洋風の彫刻である塑造、さらにその両者を合わせた彫塑(ちょうそ)の説明があり、日本では彫刻として美校開設時には日本の伝統美術である木彫が教えられたそうです。そして、のちにシカゴ万博に「老猿」を出品して、その精緻な表現で好評を博した高村光雲が木彫科の教授に就任したことで、衰退していた日本の伝統木彫が再興したようです。光雲の長男光太郎も美校への入学は木彫科でしたが、彼はロダンの作品を写真で見て洋風彫刻に触発され塑造の道へ進みますが、追っかけるように美校に塑造科が設立され、朝倉文夫、北村西望などを生み、母校で後進の指導に当たることですぐれた彫刻家が育てられ、塑造作家は木彫作家を凌駕するようになったようです。前述したように、八聖人像は、その当時のすぐれた作家の手による作品ですが、朝倉本人を含めて、釈迦の田島、日蓮の日名子、弘法大師の長谷川、親鸞の長谷と5人までが朝倉系の作家です。しかも、釈迦像、弘法大師像は木造で、本来わが国伝統の木彫りであるにもかかわらず、二人とも朝倉の弟子だったという点、興味のあるところです。ちなみに朝倉系に属さない作家は藤川、西村、清水の3人で、藤川は晩年のロダンの直弟子であり、西村は朝倉とともに美校(東京芸大)で教鞭をとっていた立場であり、清水はロダンのパートナーであるブールデルの弟子だという錚々たる作家であったので、当然と言えば当然だったのでしょう。

弘法大師像

福原先生は、さらに八聖人像作家の制作にあたっての手記についてたんねんに文献をさがし、それを紹介してくれました。その上で、個々の作品について美術史家としての立場から、感想を述べてくれました。一々の説明は出来ませんので、印象的だった点について2、3ご紹介いたします。まず清水先生のキリスト像です。清水先生はキリスト像の制作にあたって、キリストという人物をどのようにとらえるか、さらにその像を造る上でのヒントを得るため、可能な限りヨーロッパ各地の聖堂を歩かれたようです。その結果、初期ビザンチン、ロマネスクにも素朴でいいキリスト像があったけれど、ゴシック様式のものがもっとも厳粛で傑出しており、とりわけフランス北部アミアンのノートルダム大聖堂正面の像がもっともふさわしいとそれを典拠されたそうです。同聖堂の写真も見せてくれましたが、左手に聖書をいだき、右手の2本の指を立てて語りかける姿からは、わたしは弟子や信者に対するキリストの祝福と力つよい説得を感じています。田島亀彦さんの釈迦像は、一見して京都清凉寺の釈迦如来立像に規範を求めたことを思わせます。この像は、平安中期、宋から請来したインド様式のつよい仏像で、いわゆる清凉寺式釈迦として鎌倉以降全国的に分布した像の姿です。薄い衣の流麗な曲線の重なり具合など、まさに清凉寺式釈迦ですが、福原先生は「田島はその根源をインドの様式に求めている」として、ガンダーラ様式・マトゥラー様式の釈迦如来立像の写真でそのことを説明してくれました。たしかに、横に垂れ下がった衣の縁に浮かびあがった模様はマトゥラー様式の像に見られるものです。これだけの像を彫れる田島は只者ではありませんが、彼の父親は京都の仏師で、幼いときから伝統的な木彫り技術をみっちりと仕込まれていたようです。余談ながら、彼が美校の木彫科を受験した際、いきなり3年次に編入されたそうですが、教える教授側もさぞびっくりされたことでしょう。なお、田島は伝統的な木彫り技術に満足することなく、朝倉彫塑塾で近代的なセンスも学び取っていたようです。弘法大師を担当した長谷川桝藏も朝倉の内弟子でしたが、元々が仏像を得意にしていたようで、弘法大師の像容の考証のために各地の寺を歩き巡ったようです。木造で造仏するというのは、いわばわが国の主流ともいえる伝統的な手法ですが、木は乾燥するとともに亀裂が生ずる厄介な素材だとも言えます。仏師はその点を考慮して、用いる材質、一木造か寄木造にするかなどに腐心して技を磨いてきました。前述した清凉寺釈迦像もじつは寄木造です。一木造で知られた南都大安寺の諸像も、亀裂を防ぐため、背面で内刳り(うちぐり)をして木心を取り除いています。あるいは埋め木などして亀裂を補修することもあります。長谷川は、台湾産のヒノキの巨木を用いましたが、亀裂は漆木屎(うるしこくそ)によって補修したようです。漆木屎とは漆の中に麻の繊維や香木を練り込んだもので、弾力性のある材料です。彼は古来用いられていた伝統的な技法に通じていたのでしょう。等身大の像を一木で彫った釈迦像、弘法大師像、とくに繊細なノミによる彫り跡、みごとな像です。福原先生もとくにその点を強調していたのですが、特別に許されて壇上へ上がり、像に手を触れることができる近さで彫り跡を確認できましたが、釈迦の衣の繊細な線、弘法大師の僧衣の魚の鱗を思わせるのみの跡、おどろきました。二人の作者の伝統的な彫刻技術に、塑造の技術が加味された造形技法で生み出された紛れもない一木の像、わたしは、そこに数多くの日本の仏師たちの域に達し、あるいはそれを超えたのではないか、の思いでした。

弘法大師像繊細なノミの跡

八聖人像、いずれもがすばらしい像です。それらの像から、いずれは国の重要文化財に指定されるときも来るかも知れませんが、せめて横浜市はいますぐ重要美術品に指定してもいいのではないでしょうか。そんなすぐれた像が一堂に会し、しかも不細工なケースなどで妨げられることなく迎えてくれる、そんな恵まれた展示場は、世の中に博物館・美術館の数は多いとはいえ他にないでしょう。横浜本牧の八聖殿郷土資料館、ぜひ一度足を運ばれることおすすめです。

注)館内の掲載写真については、八聖殿相澤竜次館長の了承を得ています。

(2014年5月)

ホームに戻る

前の月の履歴を読む

次の月の履歴を読む