パスポートをさかのぼる(2)

パリ・モンマルトルにて

4)パリ(1977年5月15日〜19日)TECNIP社との技術打合せ
エクアドルからもどって間もなく、フランスの世界的なエンジニアリング会社との技術打合せのためパリへ行くことになりました。プラント建設の競争が激化している中で、互いに協調することによって国際競争に勝ち抜こうという戦略があったのだと思います。タンク、加熱炉の専門家と3人での花のパリ行でした。フランス人が相手ですからせかせかしたところがなく、開発中だったラ・デファンス地区に建設されたばかりの超高層のビル内での打合せは、時間的なゆとりがたっぷりあり、5日間の滞在期間中、結構パリを楽しむことが出来ました。出張中、泊まったホテルはオペラ座のすぐ裏手、Royal Opera et Antin Hotel、しかも屋根裏といってもよい部屋でした。二つ星でしたが、小ぎれいで、カウンターは下宿の叔母さん風な女性が一人、そのあとのパリ出張では一流ホテルでしたが、最初に泊まったこのホテルの方がいまなお印象に残っています。
5)サウジアラビア(1977年8月) ジェッダ出張所業務打合せ
パリからもどって3ヶ月もしないうちに、ふたたびパリへ行くことになりました。サウジアラビア西海岸の都市ジェッダ、そこで進行中だった製油所増設の現場事務所での業務打合せと、現場所員の家族と設備の職人さん1名を送り届けることでした。パリからジェッダへの便は到着翌日の夜で、時間がたっぷりありましたので、その家族と一緒にヴェルサイユ宮殿を見学することが出来ました。泊まったのは凱旋門近くのホテル・メリディエン、困ったのは一緒に行った職人さんが洋風バスの使い方を知らなかったため、洗面所を水浸しにしてしまったことでした。ホテルに平謝りする一方、浴槽の外の狭いスペースでどうやって体を洗 ったのか、その光景を想像しただけでおかしくてしょうがありませんでした。パリからカイロ経由でイスラム圏のジェッダへ向かうエア・フランスの機内の様子、南米・ラテンの世界とはまた別の世界のあることを痛いほど知らされました。
6)韓国・ソウル(1978年3月2日〜4日) 下請け予定業者との打合せ
エクアドルでの建設工事中、配管工事の下請に入った韓国の業者を土建工事でも使えないかという調査のために、2泊3日の日程でソウルへ行きました。仕事の内容が内容でしたから、気楽な旅でした。

アラブ衣装をまとって

7)サウジアラビア(1978年8月〜1980年8月) ジェッダ出張所勤務
1年前に訪問したジェッダ出張所へ、こんどは長期赴任でした。このときも現場へ向かう二家族のエスコート役でした。ちなみに、このときから成田空港の利用となり、便は南回りのパキスタン航空でした。出発当日は台風接近で1日の足止め、いやな予感がしました。案の定、カラチに着いてすぐにジェッダ行の便を確認しましたが翌日以降しかなく、しかも予定便の遅れは航空会社の責任ではないということでシートの確保はなされておらず、つぎの便に乗れるかどうかは翌日になってみなければわからない、との冷たい対応でした。会社が斡旋してくれたホテルへ向かうために手配されたオンボロバスに乗り込んだのは、わたしたち一行と巡礼とおぼしき10数名の女性の団体で、いやな予感はますます強まりました。その団体、バンコクから乗り込んできたマレーシア系の少数民族のようでしたが、体から発する異臭に加え、機内でいきなり調理を始め、その匂いもまたたいへんなものでした。さすがにスチューアデスによって調理は止められましたが、1年前にパリから搭乗したエア・フランス機内のイスラム圏に人たちから異文化の世界を感じましたが、このときのアジア系のモスレムに対しても大きなショックを覚えました。その団体と同じバスですから、連れて行かれたのは当然のように巡礼宿でした。どんな宿だったかについてはご想像に任せましょう。二人の奥様方、不安でねむれない夜を過ごして、明け方にはぐったりしていました。翌朝、真っ先に市内のパキスタン航空に行ってもらちが明かず、ままよとJAL へ飛び込みました。幸い窓口は日本人女性、事情を説明したところ、彼女のご主人がパキスタン航空だということですぐに連絡を取っていただき、その日のジェッダ行の席を確保してくれました。地獄に仏とはこのようなことを言うのでしょうか。このときのJALの女性の親切さは、いまでも忘れることが出来ません。
滞在地:
・ジェッダ―古くから紅海の花嫁と称されていたサウジアラビア最大の都市で、マッカ(メッカの正式呼称)への玄関口でもあり、外交の窓口でもあった都市。1年前に一度訪ねてはいたが、その時の印象として、後述する拙著の中で、こう記している。「最初にここを訪れた1977年の夏の頃、(中略)それはひどい状態だった。降り立つと同時にむっとくる熱気と、通関カウンターの周辺にまで大きな荷物に囲まれるようにして床にふす、あかに汚れ切った白衣の巡礼の群れが放つ異様な臭気とに、辟易とさせられたものである(後略)」。市内での生活は、会社が設営したキャンプ。日本の銭湯を模した浴場、日本人シェフの働く食堂もあり、休日の前夜(木曜日)ともなれば、市内に結構あったレストラン(多くは中華とレバノン料理、そして数は少なかったがイタリア料理も)での食事も楽しめ、中東最大級のスーク(当時でもドバイにはおよばなかった?)でのショッピングを楽しめたものである。そして何よりも、同国の未来を担った若者が責任ある立場で業務に取り組む姿はすばらしく、彼らとともに遂行できた業務は、南米では味合うことのできない楽しみでもあった。そのようなこともあり、滞在中に集めて置いた資料を基に、帰国してすぐに、業務の合間を利用して執筆をはじめ、1983年1月にジェトロから『サウジアラビアおもてうら』という書を出版した。小冊ではあったが、近代化の進む同国の姿を描いた書としてはわが国では最初のものと思っている。

造成終了直後のヤンブ

訪問地:
・ヤンブ―イスラムの盟主ともいうべきサウジアラビア。いろいろの制約があって観光なんてことはまったくできず、2年の滞在中、訪れた所はヤンブと、夏の首都と言われていたタイーフ近傍へのドライブだけだった。ヤンブはジェッダの北方約300キロのところで、同国の第3次5ヶ年計画の目玉というべき東のアル・ジュベール、西のヤンブという一大工業都市建設の建設予定地と噂されていた。ジェッダ滞在中にその地に建設される製油所建設の受注が決まり、あらかじめその地を見ておこうと、1978年10月に訪れてみた。土地の造成が終わったばかりで、見渡す限りに広がった敷地には、いずれ数多くのプラントやそこに働くたち人の居住宅地区が建設されるのであろうが、先のことはまるで見当のつかない茫々とした状況であった。ジェッダ滞在中の1980年6月、そしていったん帰国した後も2度ほど訪問したが、その変貌には目を瞠るものがあった。それから30年以上の歳月が流れ、どこまで発展したのか、機会があれば訪れてみたいと長年念じてきたが、その夢は結局かなえられないまま終わりそうである。
中継地:
現場滞在中、赴任時・帰国時以外に2度の一時帰国があり、利用便によってタイペイ(台北)、シンガポール、バンコックが中継地でした。到着したその夜は1泊し、翌日は出発まで半日からほぼ1日のトランジット・タイムがあり、ちょっとした市内観光を楽しむことが出来ました。その後も、サウジアラビアへは何度か出張をしましたので、シンガポールやバンコックにはたびたび訪れる機会があり、なじみの都市になりました。
・香港(ホンコン)―アラビア半島からは、ヨーロッパなどはほんの一飛びで行ける距離。帰国時に、わたしは連れ合いとスペインで落ち合うことを望んでいたが、学齢期の娘たちのことを考えるとそうもいかず、結局、香港で落ち合うことにした。スペイン行をあきらめたので豪華な旅にしようと、ホテルはペニンシュラに匹敵するホテルMandarinに2泊しての旅であった。この旅に味を占めたのか、連れ合いはその後、わたし抜きで3度も香港へ行っている。
8)アメリカ・パサデナからパリへ(1980年9月10日〜18日)入札準備のための国際間打合せ
サウジアラビアから帰国して2ヶ月ほど経ったころ、同国アル・ジュベールに建設する製油所建設に日米仏3国の会社がコンソーシアム(国際間の連携)を組んで入札する下打合せのためにアメリカへ行き、パサデナのエンジニアリング会社を訪問、4泊したあとパリへ向かいました。アメリカ大陸を横断して、さらに大西洋を横断というはじめての経験でした。3年前に訪れた会社を再訪したわけで、まあいうなれば、その時の経験が生かされたことになるわけです。
9)韓国・ソウル(1980年12月9日・10日) 下請け予定会社との打合せ
入札に向けて、協力を要請する業者との打合せのため1泊しただけの、とんぼ返りのような出張でした。

パサデナ

10)アメリカ・パサデナ(1981年1月14日〜2月5日) 見積り作業の実施
いよいよ見積り作業のためにアメリカへの乗り込みでした。パサデナでの常宿はThe Pasadena Hilton、部屋には歓迎の花が飾られ、ケーキ・果物のサービスと心にくいほどの気配りでした。3社一緒になっての作業で、むろん指示はすべて英語。関係者全員が集まったところでマネージャーがペラペラと説明、“Any question?”(これだけはよくわかりました!)と聞かれ、なければ「よしかかれ!」ときて、いついつまでに結果提出となります。正直なところ戸惑いましたが、そこは技術屋同士、内容は何となく雰囲気で分かりますし、仲間内で確認しつつ進めれば大きな誤りはありません。それにしても、フランス人も英語は苦手であり、お世辞にも上手な英語ではありませんが、ヒアリングだけは日本人より確かで、それだけでも日本人よりは有利なようでした。英語、フランス語とも同じインド・ヨーロッパ語族、そこが日本語族とは大きな違いなのでしょう。アメリカのエンジニアリング企業では、個々の専門性からいえば、ドクターコースを出たようなレベルの高い技術者が多かったのですが、それでも、MBA(経営学修士のこと)を取得した人の方が社内的には有利なポストについており、指示はそちらの人がしていました。わたしが専門とする建築の面では、担当者はその企業の正社員ではなく、業務が生じたときのみ必要に応じて雇用されるような形態で、チーフはLAで事務所を構えていた建築家。”Architectural Handbook”という立派な著書を出しており(わたしも寄贈されました)、さらに片目をつぶりながら、こんな本も出しているぜとプレゼントされたのは、”Love Couches Design Criteria”という小冊子でした。ここでの内容紹介は憚れますが、いまでも、たまに手にしてはニタリとしています。かつては不夜城を誇った日本のエンジニアリング企業と異なり、そこは泰然とした国、時間が来ればさっと切り上げますので時間の余裕はあり、わずか3週間の滞在でしたがパサデナを十分堪能でき、いまでも大好きな街となっています。ちなみに、以前紹介したノートン・サイモン美術館もあり(2010年3月 「ノートン・サイモン美術館」参照)、Maldonadoというレストランでは、芸達者な役者や歌手のディナー・ショーが観られ、楽しい思いをしました。そのときは出演者がどのような人だったのか知りませんでしたが、あとから考えれば、そういう場での出演で日銭を稼ぎながら、明日のスターを目ざして来るべきオーディションに備えていたのでしょう。その実力たるや、半端ではありませんでした。

ガボーホール入場券

11)パリ(1981年9月8日〜19日)  TECNIP社との技術打合せ
パサデナでの作業に基づき、各社で内容を検討、その結果照合のために再度パリで打ち合わせることになりました。パリは4度目です。アメリカ人以上におおらかなのか、昼はたっぷり時間をかけてワイン付の昼食、時間が来れば退社、土日は休みと、いまだから正直に言えますが、半ば観光に来たような出張でした。2度ほどでしたが、内心びくびくしながらの高級レストランでの食事、そのあとのショー見物、そしてsalle gaveau(ガボーホール)でジャン・フルネ指揮のベルリオーズも聴きました。休日はもっぱら美術館・博物館巡り。ある意味では良き時代だったと言えるのでしょうか。
1981年の渡航はここまでですが、翌年につながる事項として書き足しておきたいのは、前年9月から始まったアル・ジュベールの仕事の受注が決まり、年末には業界の用語で業務開始を意味するキック・オフが開かれました。また、12月半ばにはサウジアラビアで工事進行中だったヤンブの製油所の役員が、本社ビルに使用する日本で調達する仕上げ材・装飾品などのチェックのために来日し、1週間付ききりでケアしました。大理石やカーペットの選定など、社会人になってはじめて建築家らしい仕事をしたという点で、忘れがたい思いでおります。

(2014年7月)

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