サマルカンド

中央アジアのサマルカンドをご存知ですか。たしか高校の歴史教科書にもその名は出てきたと記憶があるのですが、何ともいえず響きのよい地名ですね。
2008年8月のトピックにすでに書いたことですが、わたしは2005年8月から2007年6月までの足かけ3年の間に、鉄骨製作の現地での技術アドバイザーとして、中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントとの間を数回にわたって行き来しました。行くようになったきっかけは、本当にひょんなことからでした。たまたま同地で活動していた会社時代の先輩から、「君に向いた良い話があるのだが」と電話で持ちかけられたのです。からっとした空気、青い空、温かい人情味、たしかに話だけを聞いているといいことずくめで、とくに、「休日などは簡単にサマルカンドへ日帰りできるよ」という甘い誘いの言葉に、根がオッチョコチョイのわたしはころりと乗ってしまったのです。
中央アジアというのは、日本人にとっては、中国西安から河西回廊を西へ西へと進んで行けばいい、という説明が親しみやすく、またわかりやすいかと思います。敦煌、楼蘭、トルファン、ウルムチなど、懐かしさを感じさせるシルクロードのオアシス、さらにタクラマカン砂漠、天山山脈といった難所を望み、その先、西へ進んだところが中央アジアです。この地域には、ペルシャ語で国を意味する「スタン」がつく国が幾つかあることはご存知のことと思います。そう、日本人にとってはアフガニスタン(厳密には中央アジアには入れませんが)が有名ですね。ウズベキスタンもその中の一つです。ウズベク語を話すトルコ系遊牧民のウズベク人にスタンをつけた、まさに「ウズベク人の国」の意味です。位置的にはちょうどシルクロードのほぼ中央に位置しており、タシケントをはじめ、サマルカンドやブハラなど、古くから交易都市が栄えておりました。なかでもサマルカンドはその中心だった都市で、紀元前4世紀にアレクサンドル大王の東征軍がサマルカンドの前身マラカンダに到達した際は、その美しさに大王は感嘆したと伝えられています。その後、8世紀にはイスラム帝国の支配下となり、華麗なモスクが数多く建設されましたが、13世紀にチンギス汗のモンゴル軍が攻め入り、サマルカンドは住民の8割ちかくが虐殺されるという壊滅的な被害を受けたのです。当時の町の中心地だったアフラシャブの丘は無人の荒野と化したといわれています。

しかし、サマルカンドはよみがえりました。チンギス汗によって壊滅されてから約150年後にチムール帝国が誕生し、帝国の首都に定められたのです。チムール大帝は、アフラシャブの丘を棄て、丘を下ったレギスタン(タジク語で「砂地」の意)を中心に都市を復興していきました。サマルカンドが今日見られるような姿になるまでは、チムールの没後200年余りかかったといわれています。ご存知の方もいらっしゃるかも知れませんが、サマルカンドはいろいろな呼称で呼ばれています。曰く、「青の都」、「東方の真珠」、あるいは「イスラム世界の宝石」などなどです。たしかに、サマルカンドの抜けるような空の青さ、その青さに挑むかのように輝く青いドームとタイルの壁面、レギスタン広場に立つと、まさに目映いばかりの「青の煌(きらめ)き」です。その美しさは、広大なイスラム世界の中にあっても、イスラム芸術を代表する宝だといえるでしょう。

レギスタン広場を囲むように3棟のマドラサ(神学校のこと)が建っています。中央の建物がティラカリ・マドラサです。3棟のうち一番新しく、1660年の建設とされています。ティラカリ(タジク語で「金箔されている」の意)と名付けられた通り、内部礼拝堂の天井は金箔で仕上げられており、まばゆいばかりです。ドーム下から上を見上げますと、天井はドームに沿って丸みを帯びたように見えますが、驚くことに、じつは平面仕上げで、遠近法を巧みに利用して丸みを帯びたように見せているのだそうです。見事としか言いようがありません。サマルカンド市内の建物群は、レギスタン広場だけではありません。市内でも際立って大きく見える独特なドームをしたグリ・アミール廟、ここにはチムール大帝をはじめ一族が眠っています。この他にも中央アジア最大といわれる壮大なビビハヌム・モスク、11の廟からなるシャーヒズィンダ廟群など、何れをとっても壮大で華麗な建物ばかりです。

もっともわたしは、ここでサマルカンドの建物の案内をしようというわけではありません。その目的でしたら、市販の旅行案内書に任せれば十分でしょう。じつは、ウズベキスタンでの仕事が終わってから、ティラカリ・マドラサに関する思いもかけない写真を発見したので、そのことについて語りたいのです。たまたま南米滞在中に現地で購入した雑誌 ”GEOGRAFIA UNIVERSAL ILUSTRADA” (「世界の地理画集」とでも訳すのでしょうか、1971年にアルゼンチンで発刊) をひも解いていたら、ソ連編の中に改修前のティラカリ・マドラサの写真が載っていたのです。これにはびっくりしました。さっそくウズベキスタンでの仕事中にお世話になった知人にメールで問合せてみたのですが、改修前の写真はいままで見たことはないし、たいへん興味あるということでした。この写真、いつ頃撮影されたものでしょうか。わたしは、こう想像をめぐらしています。

ウズベキスタンでは、直近の記録で1897年と1966年の2度にわたり大地震に襲われています。1897年の地震では壮大なビビハヌム・モスクのドーム壁面に無数の大きな亀裂が入り、現在でもそのままの状態で残っていますが、その当時、ウズベキスタンは帝政ロシアの支配下で、ツァーの悪政に苦しみ、それに対する反抗の繰り返しで、地震による被害の復興どころではなく、国内各地の歴史的建造物はいわばほったらかしの状態だったと思われます。1966年の地震も大きく、タシケントは壊滅的な被害を蒙ったといわれています。タシケントから300キロほど離れたサマルカンドでも、かなりの被害を受けたに違いありません。写真に見られるように自慢のドームは落下して、その姿が完全になくなっていますし、壁面のタイルもかなり剥離・落下しております。これ等の被害が、いずれの地震によるものか知るよしもありませんが、地震直後に、ソ連政府(ウズベキスタンは1922年のソヴィエト連邦成立時から連邦の一員であり、1991年の連邦解体時に独立)は、3万人の労務者を動員して、首都タシケントの復興を図るとともに、並行して1970年代に入ってからサマルカンドの歴史的建造物の修復を本格的に始めたと伝えられています。したがって、件(くだん)の写真は、地震被害の片付けが終わり、いよいよ修復工事に取り掛かろうとする前、そう、地震から2、3年経過した1968、9年頃の記録写真だと思われます。修復は、おそらく一斉に手をつけるというわけにはいかなかったでしょうから、レギスタン広場周辺とかチムールを埋葬しているグリ・アミール廟など、重要度の高い建物から始めたに違いありません。じつは、ソ連政府は第二次世界大戦中の苦難の時ですら、科学アカデミーに命じてグリ・アミール廟の学術的研究を進めていたぐらいですから、サマルカンドにかける熱意は並々ならぬものがあり、1970年代から1980年代後半までの20年ほどかけて、今日見られるような眩いばかりに輝く建物が復興したに違いありません。もっとも、わたしがサマルカンドを訪れた際も、壮大なビビハヌム・モスクのドーム壁面にはまだ無数の亀裂が走ったままでしたし、シャーヒズィンダ廟群でも、ドームや壁面タイル補修のための足場がかかったままでした。1991年独立後のウズベキスタンの国家財政は厳しい状況がつづき、ソ連邦政府時代の援助はなくなり、ユネスコの援助だけでは、歴史的建造物とはいえ、その修復はままならないでいるのでしょう。

それにしても、修復前の写真で見るティラカリ・マドラサと、今日 目にするティラカリ・マドラサとでは、その落差はまことに大きいものがあります。しかし、写真をじっくりと見ているうちに、わたしは、一つの素朴な思いがわいてきました。それは、ティラカリ・マドラサという世界的な文化財(むろん世界遺産になっています)は、手を加えずに遺跡として保存すべきなのか、あるいは、かつてあった姿に修復し、往時の豪華絢爛さを持たせることが望ましいのか、本来どちらの方があるべき姿なのだろうか、という素朴な思いです。たしかに、修復前の姿には華麗さがなく、ものさびしさすら感じさせます。しかしながら、その姿は壮大であり、ある意味で威風堂々としているともいえます。ましてや、レギスタン広場にはティラカリ1棟だけではなく、多分同じような被害を受けた他のメドレセもあるのです。崩れ落ちたドームあり、あるいは4本建っていたミナレット(イスラム教の礼拝を告げる塔)の中には傾いたものもあったはずです。しかも、壁面を覆っていたタイルが無残に剥がれ落ち、広場はサマルカンド北部のキジルクム砂漠からの飛砂で2メートルほど埋まっていたといいます。そのような寂寞とした広場に立つならば、わずか数百年前の建造物ではありますが、チムール帝国の遺跡として、たとえばローマの遺跡に接した時に受ける感動にも似た受けとめができるのではないでしょうか。それに対して、今日見る華麗な姿は、建設当時のものからは大幅に手が加えられ、現代の技術をもって修復されているのです。したがって、日本的なとらえ方をすれば、後世の手が大幅に加えられて修復がなされたという点で、もはや国宝とはいいがたく、歴史的建造物としては重要文化財どまり、建造物を含めたレギスタン広場全体、あるいはもっと広範囲にとらえてサマルカンド旧市街地全体を国の特別史跡・名勝として指定ということになるでしょうか。それにしても、そのような 取って付けたような能書きはさておき、サマルカンドのすばらしさは、どのような状態で保存されようが、甲乙つけがたく、文化財としての価値には何ら変わりないでしょう。ただわたしのように、サマルカンドの「青の煌き」を現実に目にした者としては、往時の姿だとして現在目にできる姿こそが、やはりサマルカンドのサマルカンドたるゆえんだと思っています。文化財には、重要な観光資源としての側面がありますし、技術の伝承も必要でしょう。それこそが、後世に対する現代人が果たすべき義務だ、と思っています。

青の都、イスラム世界の宝石であるサマルカンドへ2度も訪ねることができ、心ゆくまで堪能できた幸せを、今、改めて、かみしめています。

(付記1) 文頭で、あたかもシルクロードを行ったかのような表現をしましたが、シルクロードどころか、じつは中国 へすら、まだ訪れたことはありません。誤解なきよう記しておきます。

(付記2)文中、タジク語という表示がありますが、サマルカンドの辺りは、古来ウズベク人とタジク人とが混在していたようです。そのため、ペルシャ語系のタジク語も使 われるのです。

(平成22年 6月)

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