『小僧の神様』にみる鮨(すし)の食文化

志賀直哉の短編の名作『小僧の神様』を読まれた方は多いかと思います。この小説は、作者が最後になってから、文中で擱(かく)筆(結末を書かないでペンを置くこと)すると書いたことでも知られていますが、だからといって決して難しい話ではなく、いたって簡単なストーリーです。順を追ってそのあらすじを書きますと、こうなります。
1, 時代は大正中期、主人公は神田の秤(はかり)屋に働く小僧仙吉。彼は、おいしい鮪(まぐろ)の脂身を食べさせる鮨屋の話をする番頭たちをうらやましく思い、自分も早く鮨屋の暖簾(のれん)をくぐれるようになりたい、と思っている。
2, 後日、仙吉は番頭が話していた鮨屋の近くへ使いに出される。そして懐に4銭の手持ちしかないのに、思い切って暖簾をくぐり、衝動的に鮪鮨に手をつけてしまうが、「一つ6銭だよ」という店の主人の声に、思わず鮨を落すように台へもどし、店を出る。
3, もう一人の主人公は若い貴族院議員である。彼は仲間からかねておいしいと聞いていた鮨屋へ行き、その場に居合わせる。そして、「かわいそうに」と思いつつも、小僧に声をかけられずにその場を見過ごしたことを悔いていたが、ある日偶然に、小僧の働く店に寄る。彼は小僧に品物を自宅に届けるように取り計らい、一緒に店を出て、途中、例の鮨屋へ立ち寄り、店の女将に言い含め、小僧に鮨を馳走する。
4, 小僧は、あこがれていた鮨を腹一杯に食べられたことで満足したが、買い物で寄っただけの見知らぬ人が、自分が恥ずかしい思いをした店で、なぜ自分にご馳走してくれたのかがわからず、「あの客」は人間を超越した神様か仙人に違いないと思う。そしてあの客は、自分にとってありがたい、お稲荷さんみたいな存在として心の中で敬っていたが、せっかく鮨屋からはお代はたんと頂いているのでまた来て下さいといわれていたのに、恐れ多くて二度とその店へ行けなかった。
5, 議員は議員で、自分が小僧のためにした行為は善意であり、喜びを感じていい筈なのに、自分の行為が「偽善」のような気がして、変に淋しく感じる。別に恥ずかしい、悪いことをしたわけではないのだから、もっと気楽に考えてもいいのだろうと心の中で葛藤した結果、いつしかその出来事を忘れはしたが、彼もまたその店へ二度と近寄らなかった。
ざっと、こんなあらすじです。このように書き出してみますと、1から3までは二人の主人公を通して、作者は、大正中ごろの鮪、あるいは鮨屋の様子、言い換えれば鮨にまつわる食文化について語っており、4と5で主人公の心理描写をすることによって、作者の言わんとする意図を表していることがわかります。文芸評論的には、後の二つの心理描写が重要なテーマなのでしょうが、もとよりその分野には疎いわたしですから、ここで文芸評論をしようというのではありません。志賀直哉の描いた鮪鮨についての記述に端を発し、鮨に対する日本人の食文化あるいは郷愁みたいなことについて、思うところを書こうとしているにすぎません。

鮪は腐りやすい魚だとよくいわれています。そのために、昔はさほど好まれていなかったようです。それが、江戸の後期、近海ものが大量に出回り、醤油漬けすることでもちがよくなることがわかって、醤油漬けされた鮪の赤身はづけの名で江戸前鮨の代表になったようです。
天保年間に出された風俗類書、喜田川守貞著『守貞謾(まん)稿』(項目毎に分巻された30数巻から成り、『近世風俗志』と題名を変えて岩波文庫からも発刊)にも、車海老、コハダなどとともに、マグロサシミの名が挙げられています。明治の末期になると製氷技術がすすみ、大正期になりますと、氷を使用した冷蔵庫が鮨屋のつけ場(職人が立って調理する場所)にも置かれるようになりました。『小僧の神様』の中でも、鮨種(ねた)をあらかじめ下拵えして味を付けておく店構えの鮨屋と、下拵えの手間を省き、鮨は注文に応じて握り、客が口にする前に醤油を付けて食べさせる屋台の鮨屋とが区別されています。そして、握るそばから手掴みで食べさせる屋台でなければ鮨の旨さはわからないよ、と若い貴族院議員は同僚から教え込まれます。秤屋の番頭が「そろそろお前の好きな鮪の脂身が食べられる頃だネ」と仲間に声をかけているように、この当時すでに鮪の脂身が好まれていた様子が知れます。とはいっても、やはり高価で、誰もが口に出来るものではなかったのでしょう。「當今は鮨も上がりましたからね。小僧さんには中々食べきれませんよ」と、仙吉のもどした鮪鮨を自分の口へ投げ込んだ鮨屋の主人に言わせています。以前、『週刊朝日』に昔の物価一覧が出ていたことがあり、大正10年(ちなみに『小僧の神様』は大正9年刊)当時の江戸前寿司並一人前の標準値段は15銭と記されていました。それからいえば、小僧が手をつけた鮪鮨一個(近年かんと呼称するようですが)の値段6銭が、いかに高額であったかということが知れます。
そうした状況は、昭和に入っても、大きな変化はなかったと思います。女優沢村貞子(故人)さんは、昭和初めの東京下町の風情・風俗をよくご存知だった方ですが、彼女は上述の週刊誌に「江戸前寿司」と題した文を載せており、こんなことを書いています。「有名な、浅草弁天山の美家古((みやこ)の江戸前寿司を私は娘のころ、一度だけ食べた。若手女形の兄の土産だった。(中略)口の中でトロリととけて、のどへスッととおってゆく美味しさは、何だかとてもいい夢を見ているような気がした。昭和4、5年だったから、並は25銭だが、上(寿司)は倍から3倍というから、7、80銭だろう。店へはいってつけ台の前に座り、好みのものを注文すれば値段はやみくも―払うときまでサッパリわからないときいては、私のような小娘に行けるわけはなかった」 のちの大女優であっても、小娘の頃には、おそろしくて入れるものではなかったのでしょう。彼女は、さらにこう続けています。「高度成長時代にはいって食べ物が街に溢れるようになった(昭和)40年ごろ、わたしはマネージャーのY嬢と二人でテレビ局の近くのしゃれたすし屋ののれんをくぐった。うまいが高い、と評判の店だったが、仕事の上でちょっとクサクサすることがあったので思いきって、やけずしをという気持ちだった。けれどつけ台の前に座ってあがりをのみ、中トロと赤貝を食べただけで、Y嬢に、『アラ、もう時間がありませんよ、早く』と急にうながされ、あわてて店を出てしまった。外で彼女は、店が上等すぎて、財布の中身が心配になって・・・・・と白状した。庶民は悲しい。お互いに、おさとが知れた」 沢村貞子はこのように告白していますが、大女優が庶民だ、ということはないと思いますが、一方で、Y嬢の気持ち、よくわかります。大女優との比較ではおそれ多いのですが。わたしも、彼女たちと、というよりは小僧仙吉と同じような屈辱感を味わいながら鮨屋を出た経験があります。南米の現場からもどった時ですから、もう30年以上も前のことです。久し振りの日本、長いこと留守してくれた連れ合いへの感謝の気持ちから、彼女の好物である鮨をと思い、もう名前は失念しましたが、築地のとある鮨店に入り、いかにも場慣れしているかのように涼しげな顔をして、つけ台の前に座りました。いつもなら薄い財布も、現場帰りでまとまった金額が入っていましたので、多少は大きな気持ちで、「あれ頂だい」、「今度はこれ握ってね」などと好みの鮨種を注文していました。すぐ隣に座っていた客は身なりがよく、明らかに粋筋とおぼしき女性を連れた紳士でしたが、その彼が、「おあいそ」といって懐から出した札入れの厚かったこと。それを見て、わたしの昂ぶっていた気持ちは、瞬間萎えてしまいました。「しまった。ここはその種の店なのだ!」 マネージャーのY嬢ではありませんが、その後は2,3の巻物だけにとどめ、連れ合いをうながし、あたふたと店を出ました。鮨屋のつけ台に座り、自分の好みの鮨種を注文すれば、その値段は沢村貞子のいうやみくも、とてもこわくて鮨屋などへは入れません。それが鮪、あるいは鮨屋に係わる食文化なのではないか、というのがわたしの偽らざる認識です。
しかし、この食文化を破壊する革命が起きました。回転寿司の
登場です。いつ頃から登場したのか、よくは知りませんが、関西方面ではずいぶん古くから開店していたようです。もっとも、江戸前鮨の本場、東京へ乗り込んできたのは、だいぶ遅れてからではないでしょうか。「てやんでぇ、こんな店が鮨屋といえるか!」 関東人、とくに江戸っ子にとっては、どこの誰だか素性のわからない職人に握られた鮨が、皿に乗って目の前を回ってきたのでは、そんなものには手は出せないという心情だったのではないでしょうか。1990年代だったと思いますが、わたしがはじめて回転寿司屋に入ったころは、鮨種の種類は少なく、質もわるく、握られた鮨も誰かが手を出さなければ、同じ皿がただひたすらに目の前を動いていくだけで、とても手がのびなかったことを記憶しています。しかし、回転寿司屋には、それまで鮨屋に対して庶民がいだいていた、やみくもな会計を何とかできないか、そして、つけ台の前に座って好みの種(ネタ)を思う存分注文したいという二つのニーズに応え、こわいというイメージを払拭したという点で革命的なシステムだといえるでしょう。鮨を廉価な値段で、手軽に、そして明朗会計で食べたい、という大衆のニーズを背景に、回転寿司屋が爆発的に大展開してきていることは、ある種の必然性があったといえます。とくに最近では、仕入れ材料、鮮度の管理などはむろんのこと、搬送するコンベアの改良、店内の内装など、いろいろな面で工夫され、良質の鮨がサービスされるようになっているのも事実です。そして、子供たちがぐるぐる回ってくる鮨を遊園地気分で受け入れるので、子供連れで気軽に入れる点も、回転寿司の人気の支えになっているようです。この人気は日本国内のみならず、海外での展開もめざましいものがあるようで、ロンドン市内の駅構内に回転寿司屋が出店したと話題を提供したように、いまや、鮨といえば回転寿司かと外国人から思われているようでもあります。
でもここで、わたしは、ふと考え込んでしまいます。どんなに手軽に、安い値段で、そして美味しい鮨を食べられたとしても、これが日本人の食文化なのだ、と胸を張って外国人に紹介できるのでしょうか。昨年の暮れ、東北へ向かう新幹線の中で、JR北海道の車内誌でこんな記事を目にしました。それは、日本一といわれる鮨店、札幌「すし善」の経営者であり、同時に鮨職人である嶋宮勤さんの記事なのですが、自身の鮨と回転寿司との違いを問われた嶋宮さんは、「仕事に対する愛情と目の前のお客さまへの愛情を一個の鮨にのせる、それが職人の務めだ」と答えたといいます。わたしは、この言葉に鮨職人の美学を感じました。鮨の食文化は、この点にあるのではないでしょうか。いくら材料をよくしても、また店内を対面型にすることで高級志向にしたとしても、回転寿司屋あるいは職人さんには、鮨職人宮嶋さんのいう愛情は生まれ得ないでしょう。仕事に対する愛情はともかく、客への愛情がのっていない鮨からは、しょせん、食文化を語ることはできないのではないでしょうか。回転寿司は食文化に則っているのではなく、単なる機械文明、近代文明に象徴される便利主義の上に成り立っているにすぎないのです。わたしは、つけ台を境にして、その内に立つ鮨職人と、外に座る客との間では、ある種の信頼感の上に成り立つ得も言われぬ葛藤みたいなものが存在しており、それこそが鮨の食文化なのではないか、と思っているのです。夜の盛り場に多い、いわゆるぼることを常とする一部の鮨屋を除けば、多くの鮨職人は、つけ場で客の風体・態度から瞬時にして客がほんとうの「すし喰い」であるかどうか、あるいはその生業(なりわい)・懐具合などをさぐり、どの程度いただくのが妥当なのかを考えつつ、その上で客に喜んでもらえるよう愛情を込めた鮨を握るのではないでしょうか。一方、客は客で、鮨職人の掌(たなごころ)一つにすべてを任せて注文するわけです。生半可なことで注文なんかできません。両者の間では、知らず知らずのうちに、かたい信頼関係が存在しているのです。これが、我が国に長くつづいている鮨の食文化というものだと思っています。
志賀直哉は、大作『暗夜行路』で知られた文豪ですが、彼が後世、「小説の神様」と称されるのは、むしろ彼の遺した数多い短編に対して与えられたといわれています。仙吉と貴族院議員という身分も階級も、いやその他の何もかもがまるで異なる二人の人物の間に、接点として鮪鮨をおき、小僧の夢みたファンタジー、議員の「偽善」をめぐる心理的葛藤を巧みに描き、擱(かく)筆したといいながら、小僧が議員の書いてくれた住所を尋ねたら、そこには「小さい稲荷の祠」があったとする幻想的な結末、この小説の面白さ、小説の機微は、回転寿司で育った若い人には理解できないでしょう。そして、志賀直哉の短編の中でも代表作の一つである『小僧の神様』は、まるで理解されないままに、「直哉にそんな短編もあったのか」ていどの、冷やかな評価のまま埋もれてしまうのではないでしょうか。わたしは、そのことも、じつは憂いているのです。

(注記1) 文中、まぐろ、すし、の表示が数多く出てくるので、その表示に迷ったが、『小僧の神様』をベースにして書いたので、作者が小説で用いた鮪、鮨で表わすことを基本にした。 ただし、引用文や回転寿司に関する表示は、慣用的に寿司とし、そのほか、上記との区別で別表示にした箇所もある。
(注記2) 文中に入れた錦絵は、歌川広重の『高輪二十六夜待遊興図』(神奈川県立博物館蔵)で、他人の書き物からの孫引きである。寿司の屋台には、すでに握られた鮨が並べられており、醤油を入れていると思われる器も描かれている。東海道の道筋から海岸までかなりの広さがあって数多くの店が建ち並んでいることから、高輪の大木戸近く、細川家の蔵屋敷辺りの様子だと思われる。品川へこれから遊びに行く客を乗せた駕籠かきや、高輪東禅寺などの寺からこっそりと抜け出てきた僧侶らしき姿も見え、月を見に江戸府内から集まった多くの遊興客で賑わう様子がよく描かれている。
(平成22年 5月)
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