;lp90io 石井正紀
 

同じ教室で学んだ尊敬すべき先学のこと(2)

③長尾高明兄のこと

長尾兄とは家は近かったのですが、学区制の関係で小学校が異なり、中学で初めて会いました。そのころから彼は、高師付属を受けた秀才で、同じ小学校にはもうひとり優秀な子がいて、二人はいつもトップを競っていたと噂されていました。そのもうひとりの子というは、英語の単語帖を手離さないことで有名なガリ勉タイプで、その点では長尾兄は全く正反対で、いつ勉強するのかを感じさせないタイプでした。それも、学業だけではなく、音楽・演劇関係、工作、体育関係ではバスケのレギュラーでしたし、時には皆の前で落語を披露するなど、いわゆるオールラウンド・プレーヤーでした。二人は結局、中学3年間を通してトップ争いを演じ、高校はそろって公立の有名トップ校へ入学し、ガリ勉タイプの方はそのまま東大へストレートで入りましたが、じつは大学は分かれてしまいました。というのは、長尾兄は中学の頃から医学志望で、その願望をおくびにも出さずにいたため誰も知らずにいましたが、彼は自分の思いを貫徹してストレートで難関の横浜市大医学部に合格していたのです。しかし現実は厳しく、家庭事情を考えたときに、医学コースを全うすることは難しいということで入学をあきらめ、翌年志望を国文学に切り替えて、その分野で彼が慕っていたK教授のいる教育大へ入学したのです。その結果を知ったわたしどもはびっくりしました。今でも長尾兄はわたしの知る限りで学友の中ではトップレベルだったと思っていますが、そんな彼が進学するとしたら東大以外は考えられない、と誰しもが思っていたからです。その点では、中学3年次での担任だったA先生(結果的に彼の先輩にあたる)が、折に触れて残念がっていたこと、そのお気持ちがわかるような気がしています。
教育大では大学院へ進まずに教職の道を選んだ長尾兄は、卒業してすぐに二つの都立高校教諭、私立の短大などを経て、宇都宮大学へ招聘され、最終的には名誉教授にまで進みました。学内での学生指導は当然のこととして、付属小学校の校長を務めあげ、筑波・東京・岩手といった国立大学での併任講師、さらには中国でも1年間河北大学の客員教授を務めています。大学での講義を離れての職務としては、NHKの放送講師や日本及び全国大学国語教育学会理事、あるいは小・中学校国語教科書編集委員をながく勤めており、著書という点でも、単著だけでも11点、編著・共著・部分執筆を加えれば41点に及び、雑誌等への論文、それと編集にかかわった教科書も数えれば膨大な業績だと言えるでしょう。まさに国語教育に一身を捧げたことがよくわかります。先に、彼がK教授を慕って教育大へ進学と書きましたが、国文学の泰斗であり文化功労者でもあったK教授はわたしが受験生だった頃から大学受験の指導普及に熱心だった方で、K先生は「大学受験向けの学習書といえども、著述にあたっては学位論文と同じ重みを持って著述せねばならない」、と常日頃から口になさっていたそうです。長尾兄はまさに恩師の教えを忠実に受け止め、それをまた多くの教え子が受け継いでいったのだと思います。
付属小学校在勤中に、長尾兄は朝礼時に倒れたそうです。幸い周りに先生方が多く、また構内であったために校医もいらっしゃったということで、大事に至らなかったようです。しかしそれからの彼は、ご自身ずいぶん身体に気を使っていたようで、教室での講義以外は仕事の量を努めて減らす努力をなさっていたようです。わたしは能が大好きな彼を,富士吉田市の富士浅間神社で毎年8月に行われる梅若薪能へ誘ったことがあるのですが、当日になって体調が思わしくないという断りの連絡を受けました。残念でしたが、家を出てからのことでなくてよかったと、かえって安堵の思いをしたものでした。平成14年(2002年)、彼は退官し名誉教授になり、これでゆっくり休んでもらえると奥様は喜んでいたのですが、世間は許してはくれませんでした。彼の本意ではなかったようですが、某私立大学の教授として新幹線で通勤する羽目になりました。そのことが彼の身体を蝕んだのでしょうか、退官してからわずか数年後に他界してしまいました。中学生の頃から彼をやさしく見守ってくれていたお姉さんから連絡をいただきましたが、奥様・お姉さんはむろんのこと、わたしも何とも諦められない気持ちでいっぱいになりました。二月のまだ寒い折、葬儀には中学の頃から彼に一目を置いていた演劇部のN先生のほか、十人ほどの同級生が駆けつけていました。式場は栃木県下をはじめとして、かけつけた教育関係者でいっぱいでした。とめどない涙をじっとこらえる教育者らしき方の姿も見受けられ、彼の人望のつよかったことを改めて知りました。故人には正四位瑞宝中綬賞が贈られました。

④長尾兄の著作から

彼の著作は既述したように膨大だった上に、わたしの専門外の分野ですから、彼はそれを承知の上で以下の3作を献本してくれました。
・『敬語の常識』  渓水社
専門書の中で書いた敬語に関する説明が面白いと評判だったことから、一般向けに書かれた解説書。類書と比較してたしかにわかりやすく書かれており、わたしも折に触れて読んでいますが、それでもなお敬語の使い方はむずかしいですね。
・『庶民のうたー川柳と歌謡』  紅書房
栃木県内の中学校教師の「古典を読む会」で用いたテキストのうち、一般人にもわかりやすいものとして川柳と歌謡を取り上げています。会の提唱者であったN先生は、「従来の解説にない新しい解説があり、先生の語り口がよく伝わる」と推奨しています。
・『新しい国語教育の基層』  長尾高明先生華甲記念論集刊行会
この本は上記二冊とは異なり、長尾兄の還暦を祝して彼の教え子たちの日頃の何気ない座談の中で、「先生の還暦をお祝いして論集を編もう」という話から生まれました。このことは教え子たちの取りまとめをしたM先生(筑波大から宇都宮大大学院を経て、当時上越教育大学助教授)が当該本の「序」の中で述べています。教え子の行為に対して、「大学院での教え子たちが、小生の還暦を記念して論集を自費出版してくれました。(中略)) 彼らの好意を謝しつつ、また、彼らの論文発表の一つの機会にもなろうかと承諾した次第です。(後略)」 との、平成八年八月八日(彼の誕生日)付けの彼の挨拶文が当該本に挟まれていました。教え子たちの自分への祝い本に対して、そのお返しを前もって配慮しておく彼らしいゆかしさを感じました。

⑤付加(つけくわえ)

まったく私的なことですが、中学の学友たちと出していた同人誌『棕櫚』について、ここで説明をしておこうと思います。長文になり申し訳ありませんが、長尾兄のすごさを感じ取っていただけると思います。
中学を卒業をして各人高校生活に多少の余裕を持ちはじめた五月の末ころ、長尾兄と首席を競い合っていた学友を中心に数名の者が、同人誌を出す相談をしていました。雑誌の名は『棕櫚』、創刊号は1学期の期末試験の終わるころを見計らって七月半ばと、いとも簡単に気安く決めていました。この時点では、長尾兄とわたしもまだメンバーではなく、後日になって声をかけられました。ちなみに、雑誌の名前は卒業の記念樹である棕櫚の名前がとられています。雑誌と言っても、高校生のことでお金はありませんので、自分たちで鉄筆を握って筆耕しガリ版印刷をするのです。所詮素人の筆耕ですから読めない文字も多く苦労しましたが、ホッチキス止めして何とか雑誌の形態に整えられていました。創刊号を予定通り出し、その勢いで年をまたいで4号まで発刊したところで、試しに5号、6号を印刷屋に依頼してみました。さすがにスマートな装丁の雑誌を手にしたときは感無量の思いでしたが、喜びはその号まで。財政的に底をついてしまい、7号からはまた自分たちでの筆耕にもどってしまいました。発刊から3年目に入り、編集者の多くが大学受験期を迎えた頃から悲鳴が上がるようになってしまい、それでも細々と発刊を続け、20号という区切りのよいところで休刊することになりました。20号の発行は1960年(昭和35年)になっていました。
会員の多くが還暦を迎える1996年(平成8年)になって、とつぜん『棕櫚』の記念号を出そうじゃないかとの声が持ち上がりました。「いいんじゃない」、と数人の仲間がすぐに集まりました。創刊の時と同じで、総論賛成でも核になって動いてくれる人がいなければ、事は始まりません。長尾兄がいなければ、結局は何もできないのです。彼の上京する機会をとらえて説得しました。話を聞いた彼はすぐに乗り気になり、「それも私の性情ゆえか」、と編集後記に書いております。更にこうも記しております。「今回は昔のようなガリ版印刷で出すわけにはいかない。 雑誌を安く作るには、ワープロで版を組み、それを写真製版にできればいいのだが……」と。しかしその費用は出せそうもなく、結局、彼は版組を自分でやることにしたのです。「なんのことはない、昔ひたすらガリ版と格闘した作業がワープロになっただけの話だ」、とぼやきながらも、「皆さんの文章を一字一字丁寧に読める唯一の楽しみだ」、と100ページ二段組み12ポイントの活字をまったく一人で打ちあげてくれたのです。いまこうして雑文を書きながらも故人のことを思うと、頭が下がり、つい目頭が熱くなる思いです。その『棕櫚』還歴記念号(通巻21号)、1996年12月1日発刊、表紙の色は辛子(からし)色で題字は恩師大熊先生。自分で言うのもおこがましいですが、内容を含めて、なかなかの出来だと思っています。ちなみに「序」は不肖が担当し、編集後記は長尾兄が担当しています。その後記で彼は、「私は編集・製版の仕事だけに終始したが、その他はすべて石井君が担当してくれ、彼の献身的な尽力なくしてこの雑誌は生まれなかった」、と書いています。とんでもないことで、既述したように長尾兄の超人的な尽力によって生まれた雑誌です。長尾高明君、本当にありがとう。  (了)

(次回は大学での学友・西 和夫兄です)

(2025年05月)

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