同じ教室で学んだ尊敬すべき先学のこと(1)
わたしもあと二年もすれば90歳に届くところまできました。自分でもたいへん驚いております。考えてみれば、その長い人生の中で、小学校に始まり、大学を卒業するまでの教育制度の期間となると、正式にはわずか十六年にすぎません。いわばその間に教室で机をならべた友を指して学友というのでしょう。他方、一般的に友といった場合、趣味の友、飲み友達、会社での友人など、その範囲はすごく広くなります。場合によっては女友達なんていうこともあるでしょう。したがって一般的な友を対象に尊敬すべき先学のことを書くとなると、これは取り留めもないことになりそうなので、ここでは題名に掲げたとおりの内容で数人の友を選び、数回に分けてウェブサイトに記載するつもりでおります。
1.中学での学友
わたしは戦後に発足したいわゆる新制中学の第3期生にあたります。それも、旧制の高等小学校が延長した中学校ではなく、文字通り新たに設立された中学でしたから、施設といい、教師・備品に至るまで借り物が多く、校舎は近くの小学校を借り受け、先生の中には予備校の学生さんだったなんてこともありました。新制中学に対する一般の認識もたいへん低く、通学中などによく「新制中学!」、などと侮蔑するような声も耳にしたものです。わたしの出身は東京の品川で、中学校は沢庵和尚で知られた名刹東海寺の旧跡内で、境内の池を埋めて校庭にし、山を削って校舎が建てられていました。いま思えば破壊された自然は戻らず、惜しいことをしたものですが、当時は自分たちの校舎を持てた喜びに沸いたものでした。私立中学へ進んだ生徒たちに馬鹿にされた新制中学生でしたが、生徒の中には現在も著名な受験校である、高師付属(現教育大付属)、開成中・麻布中などの受験で不合格になった生徒も何人かおり、そういった生徒たちは高校の受験で捲土重来を期すべく頑張っていました。そんな生徒の中に、後日わたしが社会人になってからも尊敬する先学が二人いました。ひとりは社会派写真家として著名な英(はなぶさ)伸三君、もう一方は日本語教育の第一人者である宇都宮大学名誉教授の長尾高明兄(故人)です。
①英 伸三君のこと
じつは英君は高校へ進学せず東京綜合写真専門学校で学びましたので、そのころから写真の道へ進む覚悟を決めていたのでしょう。信念のつよい人だということがわかります。たしか生まれは千葉で、小学6年の時に品川へ移ってきたのだと思います。出身小学校が異なるため、1年次の時は彼のことをまったく知らず、2年生になってクラスが同じになり初めてその存在を知りました。口数の少ない、おとなしい生徒で、ハーモニカがたいへん上手だったという印象を持っています。3年生になると、高校受験組と就職組と各2クラスとに分けられたため、英君とは別れてしまい、校内で口をきくことがほとんどありませんでした。中学卒業後はなおさらで、社会へ出た人たちの消息がまったく得られないままに30年以上の歳月が過ぎ去っていました。たまには就職組の同期の人へも声がけをしようと、昭和58年(1983年)に横浜で同期会を開いた際、誰かが連絡してくれたのでしょう、英君が顔を出してくれたのです。じつに34年振りのことで、顔を知る者がほとんどいない中で、彼は尻(しり)こそばゆい感じでした。その頃には彼は社会派の写真家としてすでに名を成しており、新聞・雑誌などによく取り上げられるようになっていました。わたしはクラスを同じくした数少ない者の一人として、会場では席を近くにとり、口数しげくしたつもりでした。そして別れ際に、たまたま手にしていた上梓したばかりの拙著『陸軍燃料廠』(光人社NF文庫)を差し上げました。それから25年後の平成20年(2008年)に中学校創立60年記念同窓会が学校の講堂でありました。都合で出席できなかった彼には、後日、集合写真に個人名を添えて送ったところ、彼にしてみればかすかに覚えていた何人かの旧友の名前と顔とを、60年振りに照らし合えたことに対する感謝の礼状が、送ってくれた写真集『上海天空下』に添えられていました。このことがきっかけで、彼との間に途絶えていた旧友としての友情が生まれるようになりました。
英君は中学を卒業してすぐに東京フォトスクール(綜合写真専門学校の前身)一期生として2年間、写真家になるための基本姿勢について徹底的に学んだようです。同期生に「水俣」の写真で知られている桑原史成氏がおり、卒業後二人はドキュメンタリ―分野の作家として切磋琢磨し、競うように日本写真批評家協会新人賞を獲得し、1982年には「ドキュメンタリー二人展」でその年での最高の作品に贈られる伊奈信男賞を得ております。二人は同じような分野で競い合いながらも、その活動範囲は微妙に住み分けています。
英君の表現を引用するなら、自分の分野は高度経済成ちょう期の農村を中心とした日本社会の姿と、プロレタリア文化大革命後の改革・開放がすすむ中国を取材しており、桑原は水俣病と韓国の取材と平行して、ベトナム、ロシアなどの海外取材ということになります。 わたしはそうした取材姿勢に加えて、桑原の場合は己の定めた焦点に徹底的にこだわるタイプであり、対して英君は逆に柔軟性を持たせるタイプではなかろうか、と感じております。彼の写し出す日本社会の姿には人物の豊かな表情、風習、行事、それに誰もが注意を払わないような何気ない風景など、さまざまなものが写し出されており、そのせいか子供向けの写真絵本といった分野にも活動の幅を拡げております。さらにわたしが彼の写真集からつよく惹かれるのは二点あります。一つは写真集に載せる文章(ときには奥様の書かれた分をふくめて)のすばらしさで、もう一つは現代写真研究所所長として後進の指導に力を注いでいる点です。
②英君の写真集
英君の60年余の活動中に世に出した写真集は30冊あまり、そのうちわたしは下記について献本を受けております(入手順)
・英伸三の写真塾 アートダイジェスト
・英伸三フォトドキュメント『一所懸命の時代』
大月書店
・英伸三中国江南を撮る『上海天空下』 日本カメラ社
・『浅草 初春 事始め』 現代写真研究所出版局
・英伸三/桑原史成 ドキュメンタリー100
現代写真研究所出版局
・英伸三 写真集モンローの皺(ひだ)
現代写真研究所出版局
・英伸三 鉄を摂る町工場鋼彩百景
日本能率協会マネジメントセンター
・『上海・魯迅公園の朝』 現代写真研究所出版局
(次号につづく)
(2025年04月)
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