同じ教室で学んだ尊敬すべき先学のこと(3)
大学受験という言葉を聞くと、わたしは心中穏やかでない気持ちになります。わたし自身、生来頭脳は芳しくなく、受験勉強の好きな方などいないでしょうが、大嫌いだったわたしにとってはいまでも時折、悪夢にさいなまれます。
群馬が本籍だったわたしの祖父は野良仕事の嫌いな怠け者だったそうで、一家は没落し離散をしたらしく、父は現在の小学四年生の第一学期で退学させられ、奉公に出されたようです。残された「通信簿」によれば、父の成績は二年生・三年生の9教科のうち唱歌のみが乙、他はすべて甲、四年になってから図画も乙に落ちましたが、すばらしい成績だったと言えるでしょう。それだけに本人にとってはどんなにか残念で悔しかったことか、想像しても余りあるものがあります。当時のことを父はほとんど口にしませんでしたので、わたしに残された『アルス建築講座』(三巻から成る大冊)や『早稲田大学出版部蔵版・建築学』などの蔵書、あるいはたまに洩らした言葉などから推測して、建築を独学で学び、電気の基礎を東京電機学校の夜学で学び、中野にあった陸軍電信第一連隊への召集時に電機の実践を学ぶなどして、建築・電機の事務所を開くだけの力をつけ、戦後になって建築士法が施行されるや、いち早く一級建築士の資格を取得したのでしょう。並々ならぬ努力家だったと思います。そんなわけで口にこそしませんでしたが、長男のわたしには然るべき大学を出て,自分の跡継ぎになってほしいという願望を持っていたと思いますし、わたしはわたしでそうすることが至極当然のことと思っていました。そのころすでに、父の手伝いをすることで、建築の世情も多少は知るようになっており、父を忖度することで受験する大学も絞っていました。 しかし、そのことは自分への負荷として大きなものがあり、心が重くなる思いでした。幸いなことにしがみつくような思いでW大の建築への入学が許され、安堵しましたが経済的な負担を考えるとき、父への詫びと感謝の気持ちとが錯綜し、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
2.建築学教室での学友
当時のW大建築の教授陣は錚々たる先生方がそろっており、それはまばゆいばかりでした。その中でわたしなどは、授業になんとか追いつくことに努力し、求められた作品やレポートも、なんとか期日内に提出することだけをがんばっていた、ごく平均的な学生だったと思います。クラスにはうらやましいような優秀な学友が何人もいましたが、いまでも際立っていたと思われる学友が二人おりました。ひとりは西 和夫兄(昭和58年・日本建築学会賞論文受賞 故人)、もう一方は木島安史兄(昭和60年・同学会賞作品受賞 故人)で、同クラスから2名の建築学会賞受賞者が出ることはおそらくめずらしいことで、たいへん誇らしく思ったものです。
⑥西 和夫兄のこと
西兄は開成・麻布とともに男子御三家と称される名門受験校武蔵高出身の秀才で、教室では物静かな、目立たない学生でした。といっても学生の数が多く、「あ、い、う、…」、順の席次が原則の大教室での授業が主でしたから、ふだんのお付き合いは席次の近い人とが多く、西兄とはめったに口を利く機会はありませんでした。彼をつよく意識するようになったのは4年生になってからで、将来の進路がほぼ決まり、卒業論文のテーマが漠然とでも決める頃になってから、彼が東京工大大学院の日本建築史専攻を受験することを知ってからでした。同大学院には日本建築史の泰斗・藤岡通夫先生がいらっしゃいましたので、たいへんうらやましく思ったものでした。かくいうわたしも高校生の頃から日本建築史に興味を持ち、大学入学後は毎年のように奈良・京都へ行き、とくに源平時代に焼失した東大寺の再興にあたり、中国・宋から持ち帰った様式(大仏様式)で再興を果たした俊乗坊重源上人に興味を持ち、その研究に没入したこともあり、その関係で彼とは、2、3回ほど立ち話を交わしたことがありました。
西兄は東京工大大学院博士課程を終了後、日本工業大学を経て、神奈川大学助教授に就任し、名誉教授に至るまで同学に在籍しました。専門分野の関係で、学外からの要請も多く、たいへん多忙だったようで、建築史学会会長、文化庁文化審議会委員、東京都と横浜市の文化財保護審議委員会の要職等を歴任していました。わたしも二度ほど、新装される前の薄暗い感じのする彼の研究室をたずねたことがありましたが、多くの図書・資料に囲まれて研究・執筆に打ち込む彼は、「楽しくて仕方ない」といった様子でした。他方、わたしはといえば、社会人として国内・外のプラント建設に従事しており、時には年単位で国を離れていましたので、大仏様式や重源上人などと取り組んではおられませんでした。他方、プラント建設は環境とは切り離せない関係のあることから、将来を見越して生態学の勉強をしておこうと、類書の中で著名な生態学者イアン・マックハークの ”Design with Nature” を丸善から取り寄せ、学んだものでした。そうした学習成果を『環境問題を考えるー生態学によるアプローチ序説』にまとめ建築学会へ投稿したところ、昭和47年11月号に掲載されました。わたしにとって学会誌にはじめて掲載された論文で、その別刷をさっそく西兄に送ったところ、「エコロジカルな視点からの論、学会誌に載った時からたいへん興味深く拝読しました。(中略)重源の研究も続けていると思います。今後ますます発展することを期待しています」、という丁重な手紙をいただきました。彼が目を通してくれたことをうれしく思う反面、重源の研究を投げ出したままでいることを恥じたものでした。
⑦西 和夫兄の著作について
西兄は建築学会の機関誌平成2年〈1980年)10月号で、「今、建築に何が問われているか」という問いに「建築のやさしさ」だと答えています。建築って、なぜこんなにむずかしく、ひとりよがりなの、という問いかけに平明で、素人にもわかるように答えるやさしさが必要だと言うのです。彼の言い分は、「建築家の文章は難解で素人にはわかりにくい。難解にするのもひとつのデザインかもしれないが、多くは単なる悪文、文章が下手なだけだ」、と手厳しく断じているのです。じつはこの問いは、その年の雑誌編集委員十数名に対して問われた質問で、正直に申してこの雑誌を手にしたときは、わたしはさほど気にもしませんでした。しかし数十年たった今、改めて読んでみると彼もずいぶん思い切ったことを、そして彼だからこそこれだけのことが書けたのだ、とつくつく感じております。ちなみにこの時の編集委員長は次号でしたためる木島安史兄、そして西兄は彼の下で副として助けていました。両兄とも今は故人、黄泉(よみ)のくにで「石井も、偉そうなことを書いてるな。俺たちが何も言わないと思って・・・、 好き勝手に!」、そんなふうにでも思っていることでしょう。
西兄は、膨大な著作を残しております。わたしはその中のごく一部を読んだだけですが、じつにわかりやすい文章で、中には、書店でちょっと手にしただけでも、買いたくなるような一般書みたいな本もあります。第一線での日本建築史家ですから学術論文だけでも膨大ですが、その種の専門的なものはここでは挙げず、製本された博士論文だけは自費出版されていますのでここで?)として名を挙げるとして、彼が建築史の研究家としてまとめた内容を、一般の方に読み易いようにまとめた著作を?)として分類し、もう誰でもが興味を持ちそうな著作を一般書として?)にまとめました。わたしの勝手な分類ですが、一般書に挙げた著作を読めば、彼がひとかどの作家だと見まごうことでしょう。なお、かなりの数の著作を割愛していることをご承知おき願います。
Ⅰ)論文関係
・『近世日本における 建築積算技術の研究』(博士論文) 自費出版 *献本
Ⅱ)日本建築史の研究の基づく著作〈順不同)
・『江戸時代の大工たち』 学芸出版
・『建築史研究の新視点』 中央公論美術出版
・『海・建築・日本人』 NHKブックス
後述する網野善彦先生が常民文化研究所とともに神奈川大に移られてから、西兄は能登の時国家の研究を先生とご一緒するようになっており、海から建築物を望む視点にいそしむ研究にも重点がおかれるようになりました。
・『建築技術史の謎を解く』 彰国社
・『建築史に何ができるのか―町並み調査と町づくり』 彰国社
調査の結果は山形県長井市、岐阜県各務原市、佐賀県唐津市などのまちづくりに活かされました。
Ⅲ)一般書(順不同)
・『わが数寄なる桂離宮』 彰国社
この本に目を通したときには、正直びっくりしました。これはどなたか名の知れた作家の書いた文芸書ではないかと思いました。それも元和・寛永(江戸時代初期))の昔へもどったかの錯覚を起こしたかのような不思議な世界に迷い込み、自分が公達(きんだち)にでもなってしまい、同離宮のオーナー・智仁親王に案内されているかのような気持ちにされてしまいました。西兄の筆力やおそるべしです。
・『二畳で豊かに住む』 集英社新書
わずか二畳の空間へ西兄自らが案内してくれます。
・『三渓園の建築と原三渓』 有隣(堂)新書
類書の中でも、建築史の専門家である点が顕著に表れています。
・『松江城再発見ー天守、城、そして城下町』 松江市ふるさと文庫 * 献本
松江市は松江城の価値を見直す目的で、西兄を長とする12名の広い分野にわたる専門家からなる「松江城調査研究委員会」を発足させ、調査結果は平成25年(2013年)に発表されました。重要文化財だった松江城天守は新たな発見もあって完成年度が確認され、2年後に国宝指定となりました。
⑧付加(つけくわえ)
西兄の力作『海・建築・日本人』の中で網野善彦(故人)先生のお名前が出てきますが、先生とはわたしが社会人となり、親元を離れて間もなく、住まいが近くなったことで知り合いになりました。当時はまだ高校の先生でしたが、のちに中世史の第一人者として著名な歴史家として知られるようになりました。お会いしてすぐにわたしは先生に私淑し、お亡くなりになるまで懇意にさせていただきました。先生のことについては、後日紹介する予定の河口道朗兄の稿で改めて説明いたします。
西兄の著作のうち『松江城再発見』の発行は平成26年(2014年)8月で、彼の最後の著作です。わたしは同年7月9日付けの封書が挟まれた献本を受け取りました。たまたま7月の半ばに上梓したばかりの拙著『陸軍員外学生』(光人社NF文庫)を献本したお返しだったのでしょう。その半年後の平成27年1月、母校の研究室に残っているT君から、西兄逝去の報に接しました。桐ケ谷斎場での通夜、数人の学友に会いました。日誌に記した文字は「しめやかに、されど参列者多し」……です。 合掌
(次号は異才の建築家・木島 安史兄です)
(2025年06月)
ホームに戻る
前の履歴を読む
次の履歴を読む
|