海外こぼれ話(3)思い出すままに

ディズニーランド・園内パレード

思わぬところで思わぬ人に:
日本国内であれば、思わぬところで思わぬ人に会うということ、ままあるものです。しかし、海外でとなると、そう簡単な話ではなく、そのようなこと奇跡にちかいことで、まずありえないと言ってもいいのではないでしょうか。その奇跡に近いことを、わたしは二度経験しています。
一度はタヒチのパペーテ空港のロビーで、会社へ同期入社した営業職のKに会ったことです。南米エクアドルの建設現場へ赴任する途上の、1975年2月のことでした。その前コロンビアへ出張の際は、アラスカ・アンカレッジ、ニューヨーク、マイアミを経由して南米へ入りましたが、エクアドルへは、エールフランスでタヒチ経由して南米ぺルーへ入り、そこで1泊してエクアドルへという行程に変わったのです。空港ロビーの椅子に所在なさげに座っていたKは、オーストラリアでの商談が済み、これからぺルーへ向かうところだったそうです。オーストラリアから東上しようとしていたKと、日本から南下してきたわたしとが南太平洋の小さな点みたいなタヒチで奇しくも出会ったというわけです。Kとは同じ便でペルー・リマへ入り、その日は行動を共にし、わたしは翌日の便でエクアドルへ入った次第です。
二度目はカリフォルニア・ディズニーランドの土産物売り場で実の弟に出会ったことです。1980年のことですが、わたしは業務でカリフォルニアのパサデナに1か月ほど滞在したことがあります。その間、たまたま出張で来た会社の同僚とディズニーランドに遊びに行ったことがありました。その際、園内で立ち寄った土産物店で弟と出くわしたのです。びっくりしましたが、彼のほうがもっと驚いたに違いありません。兄弟とはいえ、日ごろめったに連絡し合うこともなく、とくにその時期、わたしの方は南米から中東へと長期滞在をつづけていた時期で、2年間滞在していたサウジアラビア・ジェッダからもどってまだ日の浅いときでしたから、「砂漠にいるはずの兄貴が、なぜこんなところに」の思いだったことでしょう。もう記憶は薄れていますが、たしかアメリカで開催されていた展示会を見た帰りにたまたま寄ったようです。あの広い,人で込み合うディズニーランドの中、しかも店の数も多い中で、たまたま入った土産物店で身内に会うなんて、いったいどういう運命の糸で引き寄せられたのでしょうか。

コロンビア・ブエナベントゥーラ港

名前とは裏腹に:
南米太平洋岸の主要港といえば、北からブエナベントゥー ラ(コロンビア)、グアヤキル(エクアドル)、カヤオ(ぺルー)などが挙げられます。この中で、ブエナベントゥーラはスペイン語で表示しますとbuena(good)とventura(chance)との合成語で、文字通り「好機」とか「強運」の意味で、いうなれば「幸せを招く」港となります。いい名前ですね。しかしこの港、現地ではたいへん評判がわるく、「世界一の泥棒港」だと称されていました。商社の方などは、日本からの引っ越し荷物などは、カリブ海側のカルタヘナ港では梱包から一部を抜きとられるだけで済むが、ブエナベントゥーラだと梱包すべてが姿を消してしまうとまで酷評していました。この港について、アメリカで出版されている”THE BOOK OF LISTS #2”には、10 Least Liked Cities(最も嫌われている?都市)の最上位にブエナベントゥーラが挙げられているのです。その理由としては、ここに書き出すのもはばかれるほどで、あるとあらゆる悪い点を書き連ねています。しかも理由に添えた説明文には、「この地を訪ねた9人の旅行者のうち、7人が強盗に遭ったり暴行を受けており、まさにこの世の地獄への門口である」とまで書かれているのです。この港町へ、コロンビアへ入国して間もなく行くことになりました。同国への訪問目的は、製油所建設工事に応札するための調査でしたが、建設に必要な機材をどこで陸揚げし、建設現場までどう運び込むかの調査は非常に重要な調査項目なわけです。したがって、港の調査は欠くべからざることになるのです。港調査へ向かう一行は日本から同行の4名に案内役の商社の方や運転手など数名ほどで、安全を期して、たしか車2台に分乗してのツアーでした。同港へは首都のキトから数時間ぐらいのドライブだったでしょうか。
ブエナベントゥーラは、インターネットによると人口50万ほどの大都市です。港湾部はカスカハル島にあり、そこは市のダウンタウンから離れて独立した形態をとっており、そのためにかえってそこが無法地帯化しているのでしょうか。むろん最近のことは知りようはずがありませんが、わたしたちの訪問時は同国最大のコカインの出荷拠点だったようです。港といえば、ふつうはそれこそ活気がある場所なのでしょうが、訪れた際は、人かげもまばらで静かなものでした。日帰りの予定だったので、時間の関係で一通り港湾施設を見て回ったところで引き上げようと車のほうへ歩いていたときでした。後ろのほうで人の気配を感じたので振り返ると、数人の人影が埠頭に並んだコンテナを利用して姿を隠しつつ、わたしたちを尾行していました。「狙われているな」、わたしたちはとっさに距離を取って二列に分かれ、互いを見張れるようにして歩きました。とくに危険を察知したわけではありませんが、相手がどう出てくるのかまったくわからない以上、警戒するに越したことはなかろうと、車に乗るまで最大限注意をおこたりませんでした。まだ明るいうちであったこと、同行者の人数が多かったことが、もしかしたら襲われずに済んだ理由だったのかも知れません。無事にもどれたこと、わたしたちにとっては、その名の通りブエナベントゥーラだったと思っています。

韓国・申相浩の茶碗

貨幣価値の差を忘れてしまい:
韓国への初めての入国は1978年2月、ちょうど南米から帰任した1年後のことでした。エクアドルで一緒に仕事をしたWさんが、「一度お出かけください」というので、何かの業務にかこつけて(?)訪問したという次第です。雪のちらつく寒い季節でしたが、何の責任もないこんな旅行というのは、いまだから話せるものの、楽しいものでした。楽しいという最大の理由は、青磁の国へ行くのですから、著名な作家・?海剛の青磁を買えるかも知れないとワクワクする気持ちになれたからです。そのことをWさんに話したら、帰国する前日、「知っている店を紹介する」とソウルの繁華街・明洞の陶器店へ案内してくれました。青磁を中心に、いろいろな焼き物が所せましと並べられていました。ゾクゾクする思いでした。頭の中で持ち金(円)を計算しつつ海剛の作品を物色しましたが、さすが同国の人間国宝、わたしには手が届きそうもありませんでした。あきらめざるを得なかったのです。それでも、このままで帰国するのもしのびなかったので、海剛につづく作家のものを手に入れようと思い、店が選んでくれた申相浩(シンソンホ)の茶碗を購入しました。日本ではおよそ見受けない色をした粗い肌、それでいて陶器というよりは磁器質に近い珍しい焼き上がりで、青磁をあきらめたわたしとしては、それなりに気に入った作品でした。翌日、内心は忸怩たる思いで帰国の途についたのですが、空港の売店で、ウォン(韓国の貨幣単位)と円とが併記されている海剛の青磁を見たとき、おもわず「ハッ!」とし、愕然としました。なんと、わたしはウォンと円との間の貨幣価値の差を忘れていたのでした。端的に言えば、前日明洞の店で見た数字は、円で支払えばその倍の数字まで購入することができたわけです。まったく初歩的なミスをおかしてしまったわけです。言い訳になってしまいますが、韓国へ来るまで、円で支払える買い物を海外でした経験がなかったため、とっさの判断ができなかったのでしょう。みすみす海剛の茶碗を買い損ねたという悔悟の念は、そのご長く尾を引きましたが、いまになってみれば、申相浩の茶碗にしてかえってよかったかな、と思っています。海剛亡きあと、申相浩は現代韓国陶芸界の第一人者と言われており、人間文化財に指定されています。そんなことより、なりよりも彼の茶碗の無機質的な手触りの中に、それとなく感じさせる作者の手のぬくもりが何ともいえず、気に入っているのです。

    

(2018年05月)

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